20世紀の重要な法哲学者の1人に、ハート(Herbert Lionel Adolphus Hart、1907-1992)がいる。ハートは、その著書『法の概念』において、現代的な法実証主義の理論を発展させた。そこでは、法は「1次的ルール」と「2次的ルール」とが結合したものであると説明されている。「1次的ルール」とは人の行為に対する公的な支配であり、「2次的ルール」は「1次的ルール」の発生・変更・消滅の権限を付与するものである。
法哲学者のスタンスは、その理論の重きを哲学のほうに置くか、法学のほうに置くかによって、かなり変わったものとなる。ハートはウィトゲンシュタインの影響を受けており、法理論の中心的問題に対して、分析哲学の手法を用いて対処した。ここには多分に哲学的な要素が残っている。しかし、さらなるハート法哲学の研究者は、「1次的ルール」と「2次的ルール」の内容を明らかにしようとした。このような法実証主義は、ウィトゲンシュタイン哲学から遠く離れ、学問の専門化・細分化を招いた。
橋爪氏は、あくまでもウィトゲンシュタインとの関係でハートを理解する。そうすると、ハートの述べる「1次的ルール」と「2次的ルール」は、あくまでウィトゲンシュタインの言語ゲーム論の表れであることがわかる。「1次的ルール」とは「1次的言語ゲーム」を遂行するためのルールであり、「2次的ルール」とは「2次的言語ゲーム」を遂行するためのルールである。この言語ゲームの重層的なモデルは、法律の特徴をよく表している。法律とは、日常言語に別の定義を与えて専門用語を作り出すスキルである。
我々は法律に囲まれている。これは事実である。しかし、それ以前に、我々は言葉に囲まれている。法律が言語であり、言語でしかあり得ないならば、「我々は法律に囲まれている」という事実は、「我々は言葉に囲まれている」という事実に依存している。我々が言葉に囲まれていることが「1次的言語ゲーム」であり、我々が法律に囲まれていることが「2次的言語ゲーム」である。
法律家が駆使する専門用語によって一般庶民が疎外されたような印象を受けるのは、2次的な言語にすぎない法律が、1次的な日常言語を支配しようとするからである。「2次的言語ゲーム」は、あくまで閉じた文脈の中における言語のルールであり、「1次的言語ゲーム」を上から見下すことは自己矛盾である。
ハート法哲学とウィトゲンシュタイン哲学からすれば、人権という概念も、近代法のルールにおける1つの言語ゲームにすぎない。人権という概念が客観的に存在しているのも、もともと中世においては神が客観的に存在していたからであり、近代においては神に代わって人間の理性を拝むようになったからである。啓蒙思想における自然法が残っているのが人権思想であって、単に近代という言語ゲームをしている者にはそう見えるだけである。
法哲学者のスタンスは、その理論の重きを哲学のほうに置くか、法学のほうに置くかによって、かなり変わったものとなる。ハートはウィトゲンシュタインの影響を受けており、法理論の中心的問題に対して、分析哲学の手法を用いて対処した。ここには多分に哲学的な要素が残っている。しかし、さらなるハート法哲学の研究者は、「1次的ルール」と「2次的ルール」の内容を明らかにしようとした。このような法実証主義は、ウィトゲンシュタイン哲学から遠く離れ、学問の専門化・細分化を招いた。
橋爪氏は、あくまでもウィトゲンシュタインとの関係でハートを理解する。そうすると、ハートの述べる「1次的ルール」と「2次的ルール」は、あくまでウィトゲンシュタインの言語ゲーム論の表れであることがわかる。「1次的ルール」とは「1次的言語ゲーム」を遂行するためのルールであり、「2次的ルール」とは「2次的言語ゲーム」を遂行するためのルールである。この言語ゲームの重層的なモデルは、法律の特徴をよく表している。法律とは、日常言語に別の定義を与えて専門用語を作り出すスキルである。
我々は法律に囲まれている。これは事実である。しかし、それ以前に、我々は言葉に囲まれている。法律が言語であり、言語でしかあり得ないならば、「我々は法律に囲まれている」という事実は、「我々は言葉に囲まれている」という事実に依存している。我々が言葉に囲まれていることが「1次的言語ゲーム」であり、我々が法律に囲まれていることが「2次的言語ゲーム」である。
法律家が駆使する専門用語によって一般庶民が疎外されたような印象を受けるのは、2次的な言語にすぎない法律が、1次的な日常言語を支配しようとするからである。「2次的言語ゲーム」は、あくまで閉じた文脈の中における言語のルールであり、「1次的言語ゲーム」を上から見下すことは自己矛盾である。
ハート法哲学とウィトゲンシュタイン哲学からすれば、人権という概念も、近代法のルールにおける1つの言語ゲームにすぎない。人権という概念が客観的に存在しているのも、もともと中世においては神が客観的に存在していたからであり、近代においては神に代わって人間の理性を拝むようになったからである。啓蒙思想における自然法が残っているのが人権思想であって、単に近代という言語ゲームをしている者にはそう見えるだけである。