犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

脳科学と分析哲学

2007-04-15 19:30:42 | 言語・論理・構造
我が国でも養老孟司氏や茂木健一郎氏によって、脳科学の考え方が一般に広められてきた。養老氏や茂木氏の著作の中には、ウィトゲンシュタインの名が出てくる。これは、脳科学と言語哲学の問題の捉え方の共通性を示している。すなわち、この世の中のすべての風景は、客観的に存在しているのではなく、人間の脳内において言語によって起こされている現象にすぎない。人間一般ではなく、「その人」の脳内である。

すべての人間にとって、「その人」が生まれる前には、「その人」の世界はない。生まれた後において伝え聞くしかない。同じように、「その人」が死んだ後には、「その人」の世界はなくなる。生きている間に想像するしかない。このような当然の事実は、客観性を前提とする自然科学、社会科学のカテゴリーの中では見落とされてきた。脳科学は、このようなあまりに当然の事実を拾い上げた学問である。人間の頭の中には脳という物体があり、その中を神経細胞の働きによって言語が動き回っている。この単純な主観的事実がなければ、「その人」の世界は存在し得ず、客観的な事実なるものも存在し得なくなる。

法律学においても、裁判官は、被告人の脳内を動き回っていたであろう言語の組み合わせを観察する。これが故意の認定である。被害者が死亡した事件において、もし被告人の脳内に「殺してやる」という言語が浮かんでいた場合には、裁判官は殺人罪だと認定する。これに対して、被告人の脳内に「殴ってやる」という言語が浮かんでいたに止まる場合には、裁判官は傷害致死罪だと認定する。

しかしながら、脳科学のカテゴリーから見れば、法律家だけに特権的な地位を与えている法律学のカテゴリーは欺瞞である。裁判官も、検察官も、弁護士も、すべては人間であり、その脳である。被告人は殺人罪だと主張している検察官の脳内では、「被告人の脳内では『殺してやる』という言語が浮かんでいた」という言語が浮かんでいることになる。被告人は傷害致死罪に止まると主張している弁護士の脳内では、「被告人の脳内では『殴ってやる』という言語が浮かんでいた」という言語が浮かんでいることになる。

法律の客観性を大前提とする法律学においては、「被告人に殺意はあったか否か」という問題設定をして、長々と裁判をする。しかし、脳科学から見れば、これは最初から無理な注文である。殺意とは、「その人」の脳内の抽象名詞であり、他人には絶対にわからない。養老氏や茂木氏の著作の中には、条文の一言一句の解釈で大論争を繰り広げる法律家を軽視しているくだりもあるが、これもそのような理由による。

藤井誠二編著 『少年犯罪被害者遺族』 第2場

2007-04-15 19:27:05 | 読書感想文
第2場 人権は誰のためのものなのか ― 宮田幸久さんとの対話

現代は人間にとって生命の重さの感覚を持ちにくい時代である。これは、現代社会の生活の中から死が遠ざけられていることの影響が大きい。人間の生命が失われたならば二度と取り戻すことのできないという厳格さは、生活の中ではほとんど意識されていない。死が生活から遠ざけられれば、その反面である生も見えなくなるのは当然である。生と死は表裏一体だからである。人間が生きていられるのは、死んでいない限りにおいてである。人間は、死ぬまでは生きることができ、生きている間は絶対に死なない。

裁判においては、人間は法律の条文の中で生きたり死んだりするしかない。法律家は毎日このような言語体系を駆使して、次から次へと事件を処理している。そこでは近代刑法の罪刑法定主義と証拠裁判主義の貫徹が最優先とされ、それは人間の生命の重さよりも優先される。仮に加害者が実際に殺意を持っていても、本人が殺意を否認するなどして立証が困難であれば、法律的には殺人罪(刑法199条)ではなく軽い傷害致死罪(205条)が成立することになる。しかも、これは近代刑法の定義からは「誤判」のカテゴリーに含まれない。

宮田さんは次のように述べる。「考えてもみて下さい。生きているからこそ人権も保障されるのです。それを殺人が被害者の全ての人権を消滅させたのです。しかも、もはや回復することはできないのです」。全くもってその通りであり、当たり前のことである。しかしながら、法律学のパラダイムはすべてを政治的な文脈で捉えた結果として、人権と生命の地位を逆転させてしまった。二度と取り戻すことのできない生命という厳格さを直視するならば、修復的司法などそう簡単には実現できないことに気づくはずである。

人権意識や人権感覚は教育によって教えられるが、命を大切さや命の重さは簡単に教えられるものではない。これらは、最終的には自ら驚いて、自ら気がつくしかない性質のものである。そして、大人はそのためのきっかけを与えることができるのみである。宮田さんが行っている講演会は、このようなきっかけを与える役割を果たしている。

従来は「人権」といえば、厳罰化の反対や冤罪の救済という方向に決まりきっていたが、これも必然的な結びつきではない。二度と取り戻すことのできない生命という厳格さに気がついたならば、「人権」という概念も、命を大切さや命の重さとの関連で捉えられるしかないだろう。これは、人間存在においては論理の必然である。政治的な多数決で決める話ではない。