犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『人間自身 考えることに終わりなく』 第Ⅲ章「学者の魂」より

2007-04-28 18:59:29 | 読書感想文
アカデミズムを批判し、在野の文筆家で通した池田氏は、学問と学者について次のように述べている。「アカデミズムには、あまたの学者と呼ばれる人々が生息しているが、狂気を知る人、すなわち本物の学者など、おそらく指折り数えられるほどしかいない。学問すなわち知ることに命を賭けようとする精神のありよう、すなわち狂気は、生活至上の大衆化の時代において、忘れ去られてしまったのだ。」

法律学はもともと、生活至上の学問である。すなわち、形而下のトラブルを社会的なルールで丸く収めるためのものである。法律学は、どこまでも日常に密着していなければならず、正気でなければならない。狂気では社会のルールにならず、法律にならないからである。アカデミズムの法学者ですらこのような性質から逃れられないとすれば、実務家の法曹はそれにもまして正気でなければならない。これが生活至上の大衆化の時代における実学であり、日常に密着した法律学の性質である。

これに対して、犯罪被害とは、非日常の最たるものである。それは、被害者に狂気をもたらす。これは、凶悪犯罪が起きるたびに、被害者やその遺族のコメントによって如実に示される。そして、どこまでも正気でなければならない法律学は、被害者の狂気を問答無用で押さえつける。これが被害者にとっては「法律の壁」として感じられる。正気はどこまでも正気であって、狂気の経験に直面した人間の心情を理解することができないからである。

池田氏が述べているのは、狂気に留まれということではない。人間は狂気を知ることによって、初めて正気を知り得るということである。これが中庸と凡庸の差である。両極端を知ることによって、初めて真ん中の位置がわかる。初めから真ん中を知り得るわけがない。狂気を知るほど、正気に戻るという逆説である。そうであるならば、非日常の最たるものである犯罪被害の救済を学問的に確立しようとするならば、それは形而下学である法律学の枠を超えなければならないはずである。もはや実定法学と法哲学は分離してしまったが、被害者学を法律学から法哲学に移すことならば可能である。

被害者の狂気を問答無用で押さえつける法律学は、被害者を強制的に正気の文脈に取り込む。こうなると被害者遺族は、被害者の死に何らかの形而下的な意味を見出す方向に頼るしかなくなる。それは必然的に政治的な問題となる。しかしながら、それは政治的であるというそのことによって党派的になり、思うように行かなくなる。その先に解決があると思ってしまうと、政治的な意見は平行線となり、逆に解決は遠のいてしまう。

数学に近くなった刑法学

2007-04-28 18:55:07 | 言語・論理・構造
刑法とは、一般に人間臭いものだと思われている。このイメージは正しい。犯罪や刑罰というものは、極めて人間的なものである。しかしながら、刑法学の理論は、まったく人間臭くない。「犯罪とは悪いことである」という臭いがまったくしない。刑法学によれば、犯罪とは「構成要件に該当する違法・有責な行為である」と定義されて終わりである。これが功利主義のフォイエルバッハが確立した近代刑法のパラダイムであり、刑法から人間臭さを消した最初である。それは、被害者を見落とす最初の契機でもあった。

法律を理解するのは、数学の法則を理解するのと似た作業であると言われる。法律家の中には、数学や形式論理学が得意な人が多い。高度に技術化して細分化した法律の言語は、非常に数学の数式に近い。総論と各論という体系、準用や類推などの条文操作、「又は」「若しくは」「及び」「並びに」といった語の厳密な区別など、日常用語とはかなり異なっている。現代では、このような体系に美しさを感じて、細かい作業を面白い感じる人が、法律学には向いていると言われる。抽象的な人間臭い善悪の議論が好きな人は、現代ではあまり法律家に向いていないようである。

法律が数学に近いことは、条文や判決文を見ればすぐにわかる。「又は」「若しくは」「及び」「並びに」といった語で厳密につなげられた文は非常に読みにくく、悪文の典型であると言われるが、論理的には完璧である。括弧が何重にも積み重なる様子は、数学の展開や因数分解に似ている。裁判官は、このような厳密な論理式の一言一句に神経を使う。「又は」と「若しくは」の位置を1ヶ所でも間違えたら、全体の意味が変わってしまうからである。裁判官が何よりも恐れるのは、職務上の過誤である。被害者の悲しみといった人間臭い部分に付き合っている暇はない。

実証性、科学性を追い求めた近代刑法は、人工的な文字記号の確立による法的安定性を絶対視するあまり、刑法が本来持っているべき人間臭さを消してしまった。犯罪被害者の見落としの端緒は、この近代刑法のパラダイムに必然的に含まれていた。犯罪とは、あくまで「構成要件に該当する違法・有責な行為」であって、それが悪いことかどうかは考えようとしない。善悪は数字で表せるものではなく、実証性がないからである。

ウィトゲンシュタインが語り得ず沈黙すべきものとして挙げたのが、世界を超越し、世界の外にあるものとしての倫理であった。法実証主義による法万能論からすれば、抽象的な人間臭い善悪の議論などは、沈黙した上で捨てられてしまうであろう。しかしながら、ウィトゲンシュタインが述べていたのは、沈黙していることそれ自体を忘れてはならないということである。数学に近くなった刑法学が、被害者を見落としたのも当然である。