犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

法律は言葉の意味を決められない

2007-04-14 20:18:04 | 言語・論理・構造
実体法である刑法の犯罪構成要件は、人間の外形的な行動と、故意・過失という内面とを分離して捉える。これがデカルトに始まる心身二元論のパラダイムであり、主観客観二元論である。ここでは、人間の故意・過失という内面については、別の人間が直接に認識することはできない。そこで、例によって捜査官による自白の強要という政治的な問題に流れてしまう。

言語哲学から見てみれば、故意・過失という内面も、言語共同体で共有される規範にすぎない。故意とは言葉である。主観も客観も言葉である。故意・過失という言葉は、人間の行為に理由を与えるものとして要請される解釈上の契機である。実際に行為者の心の中でそのような状態が生じているか否かとは関係がない。そもそも、行為者の心の中の状態そのものが言語的にしか捉えられないからである。

デカルト以降の近代哲学は、意識を考察の出発点とした。これが故意・過失の認定という手法である。これに対して、20世紀の現代哲学は、言語を基盤にして展開されている。特にフレーゲ(Friedrich Ludwig Gottlob Frege、1848-1925)以後の分析哲学の興隆は、「言語論的転回」と称せられる。法律は言語でありながら、過度に専門化してしまった法律学は、この「言語論的転回」を無視している状態である。

被告人の内面には故意が存在したか否か、これが刑法学の問題の立て方である。このような問題を立てるためには、超越論的な視点が大前提となる。被告人の内面には「実際に」故意が存在したか否かを知りたくなるのが人間であり、それが証拠によって明らかになると考えがちである。しかし、言語論的転回を経た後においては、すべては言語の問題にすぎない。人間が「故意」という言語をどのように定義し、どのような意味を与えているかの問題である。

ここにおいては、正義や人権といった抽象概念も、すべては言語にすぎない。プラトンのイデア的なものは、正義や人権そのものではない。イデア的なものは、誰にとっても正義は正義であり、人権は人権であるという言葉の意味である。すなわち、「同じ」という言葉の作用である。言葉の意味は第三者的な視点によって与えられるものではなく、自己と他者による言語の使用の中に浮かび上がる。

言葉や文の真理条件を生み出す組織的な構造、体系的な構造が、言葉を言葉たらしめる。このような構造があって初めて、人間は法律を作ることができ、法治国家を建設することができる。これがデイヴィドソン(Donald Herbert Davidson、1917-2003)による「意味の理論」の体系である。意味の理論は言語に先立っている。そして、法律の条文は言語である以上、意味の理論は法律に先立っている。

佐伯啓思著 『自由とは何か』

2007-04-14 20:06:24 | 読書感想文
刑法の自由保障機能とは、恣意的な刑罰権の発動によって国民の自由が侵害されないようにするものであり、近代刑法の大原則である。刑法の教科書にはこのように書かれているが、どうにも世間の実感とは離れている。国民が安心して生活することができているのは、刑法の自由保障機能よりも、法益保護機能によるところが大きい。歴史はどうあれ、我々は18世紀のフランスに生きているわけではない。多くの国民にとって刑法の自由保障機能がピンとこないのであれば、それは紛れもない事実である。

法哲学においては専門的な「自由論」が盛り上がっているが、やはり世の中の関心とはかなりずれている。自分の生命・身体・財産に関して、他人に危害を及ぼさない限り、たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、自己決定の権限をもつとする立場をリベラリズムという。このように「社会的公正」にある程度の価値を置くリベラリズムに対し、個人に他の自由を侵さない限りにおいて最大限の自由を認めるべきであるとし、自由に最大の価値を置く個人主義的な立場をリバタリアニズムという。これは机上の空論としては盛り上がるが、社会問題を解決するための理論としてはあまり役に立っていない。

リバタリアニズムからすれば、「人に迷惑をかけない限り何をしてもいい」という理屈は非の打ち所がない。生真面目に考えれば考えるほど、この理屈を否定できなくなる。社会科学が机上の空論になりがちなのは、物事を客観的に対象化して捉えるあまり、大上段な視点を構えてしまうことである。そこでは自分自身が現にこの世に生きて生活していることと、抽象的な理論が別物になってしまっている。法哲学者が「人に迷惑をかけない限り何をしてもいい」という理屈の中に入り込んで大真面目に考えているとき、無意識のうちに自分を高みに立たせており、自分の身内や友人を抜かして考えている。

自由は大切な価値である。それでは、人間に自由が保障されるとして、人間は自由に何をすればいいのか。自由に自由を求めるというのでは意味がない。しかしながら、自由を求める行為は、自由の獲得を自己目的化しがちである。これが反権力の自己目的化という変形ニヒリズムである。このような変形ニヒリズムは、人間は自分の生死からは絶対に自由になれないことを隠蔽しようとする心理から生じる。自由を自己目的化すれば、それは不自由の対概念である以上、自由を侵害する悪者に登場してもらうしかない。近代刑法が刑事被告人中心の理論であり、犯罪被害者が見落とされてきたのも、このような変形ニヒリズムの理論が主流であったことが大きい。