戦後50年の間、日本の法曹界は犯罪被害者の存在を見落としてきた。その原因を探るならば、「人間は語りえぬものについては沈黙しなくてはならない」というウィトゲンシュタインの断章に行き着くだろう。犯罪被害という経験は言語を絶するものであり、語ることができない。被害者は絶句するか、それでも必死になってその周辺を語るか、言語以前の何かを叫ぶしかない。対する法曹界は、語りうるもののみに注目して体系的な条文を作り上げ、その解釈と適用を至上命題としてきた。法律家においては語りえぬものが意識的に排除され、もしくは無意識的に見落とされたことは、当然の成り行きであった。
犯罪被害者が本当に語りたいことは、その周辺を語ることによって自然に示されるしかない。それは、語りえずに示されるものである。このような言語以前の何かは、聞く側が行間を読もうとしなければ、全く伝わらない。法律家が長きにわたって犯罪被害者の存在を忘れてきたのは、犯罪被害者はその経験を語ることができないという恐るべき事実を見落としたことによる。被害者は語れないことによって語っているが、法律家にとっては被告人側の黙秘権との区別がついていなかった。供述調書においては、どちらも「・・・」で表現するしかない。被告人の黙秘権は、語ろうと思えば語りうるのに語らない行動である。これに対して、犯罪被害者の沈黙は、語る言葉がなくて絶句している状態である。被告人の黙秘には行間がないが、犯罪被害者の沈黙には行間がある。
この行間を読もうとすることは、客観的な条文の論理操作を万能としている法律学にとっては、ある意味では無理な話である。この世の隅々まで法律が支配しているという建前の法治国家において、法律が語っているのはこの世のほんの一部であり、その背後には語りえぬものが無限に広がっていると認めることは、自らの体系の崩壊を意味するからである。法治国家が犯罪被害者の言葉を聞けなかったことには、このような内在的で必然的な理由がある。犯罪被害者の言葉は、理屈万能主義の法律用語とは噛み合わないし、哲学的な問題を述べようとしてもすべて政治的な土俵で戦っていることになってしまう。
犯罪被害者によって語りえずに示されるものとは、その被害者が自分の頭1つで探り当てた何かである。これに対して、法律家が法律の条文をぶつけて「世の中はそうなっていない」と言ったところで仕方がない。語りえぬものと語りうるものが語り合おうとしたところで、お互いに語れるわけがない。法律の条文は語りえないものを語ることができないが、語りうるものの網の目を細かくして膨大な体系を作ることによって、語りえないもの存在を気にかける余裕を人間から奪った。日本の法曹界が犯罪被害者の存在を見落としてきたのは、このような理由による。犯罪被害者は今でも沈黙するしかないが、法律家は語りうる言語を駆使して能弁に話している。
犯罪被害者が本当に語りたいことは、その周辺を語ることによって自然に示されるしかない。それは、語りえずに示されるものである。このような言語以前の何かは、聞く側が行間を読もうとしなければ、全く伝わらない。法律家が長きにわたって犯罪被害者の存在を忘れてきたのは、犯罪被害者はその経験を語ることができないという恐るべき事実を見落としたことによる。被害者は語れないことによって語っているが、法律家にとっては被告人側の黙秘権との区別がついていなかった。供述調書においては、どちらも「・・・」で表現するしかない。被告人の黙秘権は、語ろうと思えば語りうるのに語らない行動である。これに対して、犯罪被害者の沈黙は、語る言葉がなくて絶句している状態である。被告人の黙秘には行間がないが、犯罪被害者の沈黙には行間がある。
この行間を読もうとすることは、客観的な条文の論理操作を万能としている法律学にとっては、ある意味では無理な話である。この世の隅々まで法律が支配しているという建前の法治国家において、法律が語っているのはこの世のほんの一部であり、その背後には語りえぬものが無限に広がっていると認めることは、自らの体系の崩壊を意味するからである。法治国家が犯罪被害者の言葉を聞けなかったことには、このような内在的で必然的な理由がある。犯罪被害者の言葉は、理屈万能主義の法律用語とは噛み合わないし、哲学的な問題を述べようとしてもすべて政治的な土俵で戦っていることになってしまう。
犯罪被害者によって語りえずに示されるものとは、その被害者が自分の頭1つで探り当てた何かである。これに対して、法律家が法律の条文をぶつけて「世の中はそうなっていない」と言ったところで仕方がない。語りえぬものと語りうるものが語り合おうとしたところで、お互いに語れるわけがない。法律の条文は語りえないものを語ることができないが、語りうるものの網の目を細かくして膨大な体系を作ることによって、語りえないもの存在を気にかける余裕を人間から奪った。日本の法曹界が犯罪被害者の存在を見落としてきたのは、このような理由による。犯罪被害者は今でも沈黙するしかないが、法律家は語りうる言語を駆使して能弁に話している。