犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

語りえぬものには絶句するしかない

2007-04-06 19:29:01 | 言語・論理・構造
戦後50年の間、日本の法曹界は犯罪被害者の存在を見落としてきた。その原因を探るならば、「人間は語りえぬものについては沈黙しなくてはならない」というウィトゲンシュタインの断章に行き着くだろう。犯罪被害という経験は言語を絶するものであり、語ることができない。被害者は絶句するか、それでも必死になってその周辺を語るか、言語以前の何かを叫ぶしかない。対する法曹界は、語りうるもののみに注目して体系的な条文を作り上げ、その解釈と適用を至上命題としてきた。法律家においては語りえぬものが意識的に排除され、もしくは無意識的に見落とされたことは、当然の成り行きであった。

犯罪被害者が本当に語りたいことは、その周辺を語ることによって自然に示されるしかない。それは、語りえずに示されるものである。このような言語以前の何かは、聞く側が行間を読もうとしなければ、全く伝わらない。法律家が長きにわたって犯罪被害者の存在を忘れてきたのは、犯罪被害者はその経験を語ることができないという恐るべき事実を見落としたことによる。被害者は語れないことによって語っているが、法律家にとっては被告人側の黙秘権との区別がついていなかった。供述調書においては、どちらも「・・・」で表現するしかない。被告人の黙秘権は、語ろうと思えば語りうるのに語らない行動である。これに対して、犯罪被害者の沈黙は、語る言葉がなくて絶句している状態である。被告人の黙秘には行間がないが、犯罪被害者の沈黙には行間がある。

この行間を読もうとすることは、客観的な条文の論理操作を万能としている法律学にとっては、ある意味では無理な話である。この世の隅々まで法律が支配しているという建前の法治国家において、法律が語っているのはこの世のほんの一部であり、その背後には語りえぬものが無限に広がっていると認めることは、自らの体系の崩壊を意味するからである。法治国家が犯罪被害者の言葉を聞けなかったことには、このような内在的で必然的な理由がある。犯罪被害者の言葉は、理屈万能主義の法律用語とは噛み合わないし、哲学的な問題を述べようとしてもすべて政治的な土俵で戦っていることになってしまう。

犯罪被害者によって語りえずに示されるものとは、その被害者が自分の頭1つで探り当てた何かである。これに対して、法律家が法律の条文をぶつけて「世の中はそうなっていない」と言ったところで仕方がない。語りえぬものと語りうるものが語り合おうとしたところで、お互いに語れるわけがない。法律の条文は語りえないものを語ることができないが、語りうるものの網の目を細かくして膨大な体系を作ることによって、語りえないもの存在を気にかける余裕を人間から奪った。日本の法曹界が犯罪被害者の存在を見落としてきたのは、このような理由による。犯罪被害者は今でも沈黙するしかないが、法律家は語りうる言語を駆使して能弁に話している。

永井均・小泉義之著 『なぜ人を殺してはいけないのか?』 第2章

2007-04-06 19:23:32 | 読書感想文
犯罪被害者をめぐる議論に欠けていたものは、哲学的思考の可能性である。哲学的な問いを棚上げした犯罪被害者保護政策は、技術的な側面ばかりが肥大化して、大局観を失う恐れがある。犯罪とは人生であり、犯罪被害も人生であり、それは刑法や少年法の条文だけで語れるものではない。各自の人生の問題について、他人や条文に答えを教えてもらうことは背理である。

被告人の人権と犯罪被害者の人権との調整という問題について、哲学的思考の可能性を追求するならば、それは根底にウィトゲンシュタイン哲学における「独我論の伝達」の問題に突き当たる。人権とは、かけがえのない「個人」の尊厳に基づくものであるが、その「個人個人」にとって人権が保障されることによって、人権が一般化してしまう。世界でたった「一人」の人権が、「一人ひとり」の人権となることによって、哲学的な緊張感が失われてしまう。絶対的な単数形が、いつの間にか複数形に変形されているからである。

自分の人生は自分の人生であり、自分が他人の人生を生きることはできない。また、他人の人生は他人の人生であり、自分が他人の人生を生きることはできない。これと同じように、自分の人権は自分の人権であって、他人の人権が自分に保障されることはない。また、他人の人権は他人の人権であって、自分の人権が他人に保障されることはない。これはお互い様である。自分も他人も、お互いに「多くの人間の中の1人」であって、人間の数だけ人権がある。その反面として、自分も他人もお互いに「世界中でたった1人の人間」であって、世界でたった1つの人権が保障されている。

このような哲学的な「独我論の伝達」の問題は、超越的な視点を採ってしまえば、あっという間に消える。「自分と他人が生きているこの世界」を、客観的な視点に立って見下ろしてしまえば、自分の人権が他人の人権を存在させており、かつ他人の人権が自分の人権を存在させているという独我論の反転の構造は見えなくなる。「国民一人ひとりが、自分がかけがえのない存在であると同時に他人もかけがえのない存在であることを真に実感し、お互いの人権を尊重し合いましょう」といった論理を聞かされれば、何となく納得してしまう。

超越的な視点に基づいて被告人の人権と犯罪被害者の人権とを調整しようとすれば、どちらの人権も相対化されて、結局は政治的な政策問題に収まる。このような議論は、質の悪い水掛け論に終わる場合が多い。被告人の人権とは、伝統的に自分の人権は自分の人権であるという唯我独尊の人権論であって、それは哲学的な独我論の対極にある。唯我独尊とは自己中心であり、自己が中心となるためにはその周辺に他人が存在していなければならないが、独我論ではそもそも自己中心になることができないからである。