犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小沢牧子著 『心の専門家はいらない』

2007-04-29 17:40:39 | 読書感想文
心理学によるカウンセリングの目的は、専門的な手続きに基づく相談によって、悩みや不安などの心理的問題を解決することである。そこでは、必然的に「犯罪からの立ち直り」というゴールが設定されることになる。解決とは被害者の立ち直りのことであり、それが究極的なゴールである。加害者を一生かけて恨み続けることを目的とするのであれば、わざわざカウンセリングを受ける必要はない。そのようなことを目的とするカウンセラーもいないだろう。カウンセリングにおいては、不可避的に「赦す被害者」が積極的に評価され、「恨み続ける被害者」は消極的に評価される。これは倫理的な上下ではない。未来志向や生産性、目的論的なパラダイムに合致するか否かの違いである。

被害者に対するカウンセリングの充実を求める意見は、加害者への厳罰化を阻止すべきとする立場や、死刑廃止論の中からも積極的に起きている。これも不純さを感じさせる原因である。このような立場は、被害者は心のケアを受けられない反動として加害者への厳罰を求めているのだと考えている。これも、犯罪被害者の多くが直感的に気付いているとおり、問題点が本筋からずらされている。すべての原因である加害者からスポットを外し、苦しんでいる被害者という存在のみにスポットが当てられることになるからである。そもそも加害者が罪を犯さなければ、すべては始まらなかった。この単純なことを見落とす理論は、どこかに不自然なものを隠蔽することになる。

カウンセリングという体系にとって、犯罪被害はそのうちの1つにすぎない。トラウマやPTSDの原因としては、災害、病気、離婚、子育て、近親者の自殺、就職、転職、進学、別離など様々なものがある。その中の犯罪被害も、事故、DV、虐待、ストーカー被害など多岐にわたっている。このような状況の中で、法律学が「心のケア」だけを心理学に押し付けることは、犯罪被害という特殊な経験を正面から捉えようとしていない。犯罪行為という切り離せない加害者の行為の一部を切り離して、被害者の心の傷をケアするという発想に収まるならば、法律学は再び被害者の存在を忘れることになる。

「犯罪からの立ち直り」というゴールを設定するならば、被害者は事件のことを忘れることが求められてくる。現に、被害者が事件のことを思い出したくないと考えることは当然である。しかしその反面、被害者はとにかく犯罪の真実を詳しく知りたいと思う。裁判を傍聴し、裁判所に対して情報公開を求める。そして、裁判が終わっても、事件の風化を防ぐために語り継ぐ。これは実存の必然である。事件の残酷さを思い出したくないということと、事件そのものを忘れたくないということとは、相反するようで全く別問題である。安易な「犯罪からの立ち直り」というゴールの設定は、事件そのものを忘れたくないという被害者の心情を逆撫でし、事件の風化を促進させる危険性も有している。