犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

長谷川三千子著 『民主主義とは何なのか』

2007-04-16 18:56:24 | 読書感想文
近代刑法は、啓蒙思想に端を発している。本来、人間の罪と罰に関する問題は哲学的な深さを持っているはずであるが、近代刑法の理論はその深さを直視していない。罪刑法定主義のイデオロギーは、罪を犯した人間に実存的な反省を促すことを否定的に捉えている。近代刑法の罪刑法定主義は、あくまでも公権力による恣意的な刑罰の濫用を最大の悪として排除し、人間の罪と罰に関する哲学的な問題は後回しにしている。

近代刑法は、その思想的源流をロックやルソーの社会契約論に求めているが、これが1つの転換点である。近代刑法の源流は、ホッブズ(Thomas Hobbes、1588-1679)の社会契約論ではない。ロックはホッブズの理論を批判的に継承したが、その決定的な違いは、ホッブズが自然状態において自然法が不完全であるとするのに対し、ロックは自然状態においてすでに自然法が貫徹されていると想定していることである。ロックの社会契約論においては、人間は万人の万人に対する闘争を繰り広げているわけではない。人間が闘争すべき相手は、恣意的な刑罰の濫用をする公権力に限られてくる。

民主主義とは何なのか、自由主義とは何なのか、人権とは何なのかと問うことは、それを否定することではない。与えられた理論を安易に信仰せず、思考停止せずに考える作業である。人間とは間違いを犯す動物であり、民主主義が正しいとは限らない。このような哲学的懐疑は、右でも左でもない。保守でも革新でもない。哲学者である長谷川氏にとっては、神も自然法も歴史の教訓も安易に納得できない概念であることは当然である。それを懐疑することは、体制順応でも体制批判でもなく、厳しい自問自答である。

法律学においても、自分の頭で考えることが大切だと言われる。しかし、大前提として疑い得ない公理が多数存在している。それが民主主義であり、自由主義であり、人権である。犯罪被害者が見落とされてきた原因の1つはここにある。法律学において疑い得ない公理とされた概念は、人間が自分の頭で考え直すことが無意味となる。公理は疑うことが許されないからである。

「加害者の権利ばかりが尊重されて、被害者が軽視されているのではないか」という意見は、法律学にかかれば一笑に付される。それは民主主義や自由主義や人権を「正しく理解していない」からである。法律学において自分の頭で考えることとは、あくまでも公理を疑わず、それを実現する方法を考えることである。そのような絶対的な公理からすれば、長谷川氏の議論は単に保守的であり、右寄りの理屈だとみなされるだけであろう。