犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『哲学者というならず者がいる』 その1

2007-04-20 18:49:10 | 読書感想文
哲学者の本は読者層が限られており、法律家とはあまり接点がなさそうである。しかしながら、犯罪とは本来哲学的な問題を根本に含んでいるはずである。中島氏は、自分は社会問題にまったく興味がないと公言しているが、そもそも社会問題が人間を離れて成立するわけがない。社会問題とは、個々人の哲学的な問題を底上げし、一般化したその先に浮かび上がる問題のことである。

中島氏の著作は、犯罪被害者の直面している哲学的な問題を的確に捉えている点において、法学者の著作とは異なった視角を与えてくれる。実用性を至上命題とする法律学には、「犯人が死刑になっても娘は帰ってこない」という遺族の言葉を掘り下げる力がない。そうであれば、これを掘り下げるのは哲学者の仕事である。法律の枠を外した哲学的な視点からの記述は、あくまでも鋭い。以下に引用する。


p.43~47より抜粋

哲学者の仕事は、「解けない問い」に答えようとすることなのだ。「生きることは、どう考えても意味はない。生きれば生きるほど辛く、虚しい、でも自殺することも禁じられている、では、どうすればいいのか?」。こうした問いに対して、安直な答えを持ってきてはならない。世の中の99.99パーセントの人間は(総理大臣も、社会科学者も、裁判官も、学校先生も、隣のオバサンも)安直な答えをもってきたがる。

われわれは責任追及をやめることはない。なぜか? 身に降りかかってきたある種の過去の事象(禍)がどうしても納得できないからである。でも、文字通り過去を「取り戻す」ことはできないことを知っている。殺された子供は返ってこない。強姦された妻は強姦されていない状態には戻れない。そこで、せめて、われわれは禍をひき起こしたものに対して復讐するのだ。

大体、私はこう考えていた。だが、これは哲学としてはあまりにもチャチである。これでは、なぜわれわれは、禍に遭遇する時、身を砕くほどに、もう生きていけないほどに、後悔するのかという、その「重さ」を説明できないように思う。わが子が誘拐されて虐殺された。これを知った親は、ただ犯人に対する復讐の念に燃えるだけではないであろう。「なぜ、よりにもよってうちの子が……」という大きな問いの渦の中に巻き込まれるはずである。だから、決まって犯人の死刑が確定しても、震える唇から「でも、娘は戻ってきませんから」という言葉が洩れる。つまり、この親の問いは、「復讐」という一点に集中するのではなく、「そもそも、なんでこんなことがわが娘に降りかかってきたのか?」という単純かつ根源的な問いなのである。

犯人自身、何が自分を殺人へと駆り立てたのか、釈然としないにちがいない。ただ、取調室で警官から尋問されると、一旦「殺そうと思った」と言ってしまえば、さらにその動機を追及され、「騒がれたので」と語ると、さらにそれをひき起こした動機を追及され、「このまま返すと逮捕されるから」と語ると、さらにさらに追及される仕組みになっている。こうして彼は「普通の人」が納得するまで、殺人をひき起こした諸原因を(取調官とともに)追及する作業に没頭させられるのである。これがまちがっているというのではない。このすべては社会的な取り決めであり、社会の大多数の人が納得するために儀式にすぎない。何を原因として認めるかは、ただそれぞれの社会の習慣に過ぎないのである。