お寺さんぽ Ver.03

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法金剛院 (京都)

2006年06月20日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はJR嵯峨野線の花園駅前と大変行きやすい、おすすめなお寺「法金剛院」です。
付近には妙心寺や太秦映画村もあるので、よかったら訪ねてみて下さい。


さて、京都にいた時のひでるさんは嵐山方面へ行く際、自転車でここの前を何度も通り過ぎています。
まぁ、実際入ったのは一度だけなんですが、そんな訳で親しみぶかいお寺なんです。
規模はそこそこながら重文の仏像がごそりとおられ、仏像好きな方もきっと満足できる素敵なお寺です。
是非どうぞ。

そんな「法金剛院」、ここは「京都十三仏第十番霊場」にして「関西花の寺第十三番霊場」だそうです。

前者はともかく、後者はいかにも観光地っぽいですよね。二つ折りパンフレットでもわざわざ1ページを使っているという力の入れようでした。
↓こんなんです。

■花見ごろ (※パンフより)
・蓮     7月初め~8月上旬 
・枝垂桜  4月上旬~中旬
・花菖蒲  6月上旬~中旬
・菩提樹  6月上旬~中旬
・あじさい  6月中旬~7月上旬
・紅葉   11月中旬~下旬

お好きな方はぜひ参考にして下さい。ひでるさんはこちらに関してはどーでもいいんですが。
ちなみに、寺ではおなじみの「蓮」はこちらメインでして、別名が「蓮の寺」とも呼ばれ、庭には世界中の蓮の花が集まっているそうです。
ほへー。
そういえば鉢がいっぱいあったような記憶があります。…あまり覚えてないですが。


法金剛院の起源は古く、平安時代のこと。
当時の貴族にして従二位右大臣「清原夏野(きよはらなつの)」という方がこちらに山荘を建てておりました。彼の死後には「双丘寺(ならびがおかでら)」というお寺になります。
誰かのアイデアなんでしょうか、そのあたりの頃から、珍花奇花を植えるちょっとした景勝地となっていたようです。なにしろ、それ見たさに天皇ら皇族がわらわらと訪ねてきた、ということなので、よほど凄かったんでしょう。

大治五年(1130)
時代は平安時代の末期です。
天皇家に支持され、天安二年(858)の頃には大伽藍と共に「天安寺」と呼ばれて勢力をもっておりましたが、二百年という間に何があったのか、すっかり荒廃。
大治五年になり、鳥羽天皇の中宮(※)「待賢門院(たいけんもんいん)」によってめでたく再建となりました。

この待賢門院さん。
崇徳天皇、後白河天皇の母なんですが、大そうな美貌で知られていたそうです。
七歳で実父を失い、白河院(白河天皇)に養われるんですが……この二人怪しい、というか”そのものの関係”であったらしく、子の「崇徳天皇」はどうやらその二人の子であるようです。
うっはー!
昼ドラマだか漫画だかの世界ですよ!世界不思議発見って感じです!!

その後当事者の一人「白河院」が崩御すると、後ろ盾を失った待賢門院は没落。この「法金剛院」にて晩年を静かに過ごしたそうです。

当時の歌人である西行(さいぎょう)は彼女のファンでして、身分違いながらもいくつか歌を残しています。
会ってみたいですねー、待賢門院さま。

さて、話を戻しまして、彼女に再建された際に名を「法金剛院」と改めました。
中央に池を掘り、東西南の各所に御堂や寝殿を建立、「青女の滝」を造った庭は極楽浄土を模したという、物凄い庭園だったようです。
この青女の滝は今も特別名勝としてそのまま残っておりますんで、見てみて下さい。
(※余談ですが、ひでるさん行った時は滝ながれていませんでした。るるる…なんでじゃー[写真参照])

しかし、復興もつかの間、震災や応仁の乱(←でたー)など、度重なる人災・災害で規模はすっかり縮小、荒廃。
元和三年(1617)になってようやく再建されますが、この時には壮観だった当時の面影はすっかり失われていたようです。

鎌倉時代の重文「十一面観世音菩薩」は珍しく坐像で四臂という大変珍しいもので、大きさもあるので迫力満点でした。(※通常は立像で二臂)
なににせよ、こういった仏像が無事に残ったのは不幸中の幸いですね。



(※)中宮(ちゅうぐう)
 天皇の奥様。皇后、皇太后などの総称。


[住所] 法金剛院 京都市右京区花園扇野町49

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※仏像で迫力あるって言えば「千手」かこの「十一面」ですよね!
 やっぱり大きい仏像はどきどきしますよ。

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