お寺さんぽ Ver.03

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ペリリュー島の戦い (大東亜戦争)

2006年06月10日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は現在ひでる学習中「大東亜戦争」の激戦「ペリリュー島の戦い」です。
こないだコメントでちらっと書いた時にこのネタを書こうと思いました。
先の戦争について、ひでるさんが認識を改める切っ掛けとなった文も共に紹介致します。だいぶ長くなっておりますが、ぜひお付き合い下さいませ。


昭和十六年(1941)
アメリカよりの執拗で陰湿ないじめ・嫌がらせに対し、
座して死を待つよりは乾坤一擲の勝負をせん
と立ち上がった日本は戦争へと突入していきました。

いいですか、日本は自らが裕福になるために、領土(植民地)を増やすために戦争を仕掛けたのではありません。
ここではテーマが違うので詳しく書きませんが、どうしても戦争に参加したかったアメリカの挑発にやむなくのったのです。


昭和十九年
初戦は勝利を重ねた日本軍ですが次第に旗色は悪くなり、サイパン・グアムなどマリアナ諸島が陥落。
米軍は矛先をパラオの「ペリリュー島」へと向けました。

このパラオ諸島は第一次大戦後に国際連盟より統治を求められ、日本の支配下とされていました。自ら進んで奪い取ったのではありません。
ここで日本は朝鮮や台湾でもやったように、たくさんの移民(※一時期は四倍の人口になった)をし、学校や病院を建て、道路を整備し、水道を敷くなど、インフラ整備・文化の発展に注力、大きな功績を残しました。
当時訪れた英国の記者は「内南洋の人々は、世界の列強植民地の中で最も丁寧に行制されている」と報じています。その恩恵を受けたのは、統治する移民してきた日本人だけでなく、もともと住んでいましたパラオの人も同様でした。

今でも日本名のパラオ人が多い(約八割だそうです)こと、いくつかの日本語が残っているだけでなく、公用語としている州があること、地元スーパーにあらゆる日本の食材が揃っていること、敗戦後に破壊された「南洋神社」を自ら再建したこと……。
それらの事実が、日本の統治というものがどのようなものであったかを物語っていると思います。
パラオの方々が「日本統治時代が最もよかった」と懐かしむのは、嘘でもおべっかでもないんです。
(※ちなみに大戦後にパラオを統治したアメリカが反日教育をしますが、年長者にあっさり否定され、まったく浸透しなかったそうです)

さて、そんなパラオに米軍が矛先を向けたのは、ペリリュー島には東洋最大といわれる日本の空軍基地があり、フィリピン奪回の支援として先に占領しておくよう定めたためでした。

米軍の上陸部隊は約四万二千(42,000)名。
それに対する日本守備隊は約九千八百(9,800)名。
単純に兵力差は四倍。
さらには制海権・制空権を奪われ、完全に孤立しているという絶望的な状況でした。

そんな圧倒的な物量で攻める米軍に対し、中川州男大佐率いる日本軍は天然の洞窟を要塞化し、ゲリラ戦を展開、補給のないまま長期にわたって徹底抗戦を行いました。
「こんな島は四日で占領できる」
当初そんなことを言っていた米軍は猛烈な反撃を受け、史上稀に見る損傷率(四十パーセント)を出し、占領にはなんと二カ月(※七十三日)を要することとなるのです。

そんな「ペリリュー島の戦い」にこんな話が残っております。

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 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
 「あそこでみんな死んでいったんだ……」
 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

 やがて戦況は日本に不利となり、
 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという

 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

 日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。

 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

 その瞬間、彼は悟ったという。
 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。
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→引用「韓国はなぜ反日か
 【3】誤解はなぜなくならない より(※元々は毎日新聞のコラムだそうです)


米軍兵士に「悪魔の島」と言わしめたほどの激戦だったにもかかわらず、パラオ民間人の死傷者はゼロでした。日本軍は戦いの始まる前、資源が乏しい中にもかかわらず島の住民全てを戦火の及ばぬ島へと疎開させていたのです。
先の話のように、玉砕覚悟の戦いに彼らを巻き込むべきではない、と配慮したのでしょう。


…どうですか。
今の我々がよく耳にする日本軍の非道な行い、振舞い。当時は戦争をしていたのですから、そういった非人道的な行為がゼロであったとは思いません。
ただ、私らのおじいさん達が当時そんなことをしていたと本気で信じますか?
日本を、家族を守るため、自ら犠牲となった人達が無抵抗の人間をわざわざ殺めると考えますか?

小泉首相が先日こんなことを言ったそうです。

●小泉首相:「遊就館見た方がいい」 [毎日新聞] 2006年6月9日

小泉純一郎首相は8日夜、首相公邸で尾辻秀久前厚生労働相らと会食した際、出席者の一人が靖国神社併設の戦史展示館「遊就館」を訪れて感動したという知人の話を紹介すると、「そうだろう。見た方がいいんだ」と述べた
遊就館は太平洋戦争を「わが国の自存自衛のための戦い」と位置付けており、「戦争を正当化している」との批判も強い。首相は韓国の盧武鉉大統領が3月に「遊就館に行ってみたい」と発言した際も「ぜひとも行ってほしい。歓迎する」と語っていた。
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その通りですね。
何が真実であるのか、ぜひ自分の目で確かめてほしいと思います。
また、こういった”今の人達が知るべき逸話”をもっと広めるべきだと思います。

ひでるさんは上に引用した文を見て、すぐに靖国神社(遊就館)へ行きました。
あれが戦争賛美だのと言う連中の気が知れません
ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました。



[住所] 靖国神社(※写真) 東京都千代田区九段北3丁目1番1号


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