お寺さんぽ Ver.03

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修験道の開祖 「役小角」 (3)流刑されちゃった小角くん

2006年06月25日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も修験道の開祖として有名な「役小角(えんのおづぬ)」です。
嘘も真実もごちゃまぜにして、とにかく怪しい人なんですが、間違いのないことは当時は絶大な人気を誇っており、後の山岳修行者(山伏ですよ)らに多大な影響を与えたことでしょう。
そんな役小角の最終回です。


孔雀明王法を用いて次々に奇跡を起こす山岳仙人の小角。
助けられた、あるいは噂を聞きつけた彼を慕う人々が続々と集まり、いつしか一大宗教団体へと発展しつつありました。

小角はそんな慕う人たちと暮らすべく、道を開き土木工事をし、金銀などの資源を採掘するなどして生活をしていました。
やがて、その中には朝廷に追われた罪人なども混じるようになり、次第に勢力を増す彼らは朝廷にとって無視できぬ存在となっていくのです。

残る話によると、弟子の一人「韓国連広足(からくにのむじろひろたり)」という、没落しかけた物部氏(※いわゆる排仏派だったので没落してたのです)出身の優れた若者がおり、いつになっても呪法を授けてくれない小角を逆恨みし、ひそかに朝廷へと訴え出たそうです。

役小角は呪術によって人を惑わし、さらに朝廷に対しては謀反の志さえ持っています…

 …それが真実かどうかはまた置いといて、
 1) 役小角は様々な奉仕活動を通じて民衆の支持を集めていた。
 2) 葛木山に住む役小角を中心として、宗教勢力のように発展していた。
 3) 勢力を維持・発展させるため、役小角は山中にて社会を形成しようとしていた。
 4) 小角の協力者には罪人が混じっていた。 
 5) 妬んだ誰かが小角の行状を不利になるよう訴えた。
 6) 朝廷は勢力を増す小角に恐怖感を覚えていた。

…と、そんな感じだったのではないでしょうか。 
訴えを聞き入れた朝廷は軍を向けますが、どうやら地理に精通した役小角勢に一度は撃退されたようです。
まぁ、山城を攻めるようなもんですからね。そこそこの軍隊では敵わないでしょう。
いいように翻弄され、ますます捨てて置けなくなった朝廷側は小角の母親を人質に取り、ついには彼を捕らえることに成功するのです。 

文武三年(699)
”呪術によって人を妖惑する”という理由で、役小角は伊豆の地へ流刑となりました。当時六十五歳。

初めて年号↑をつけれました。
これは「続日本紀」という全四十巻もある奈良時代の基本史料にちゃんと記述があります。
続日本紀というのは、事件の要点のみ書かれた歴史書でして、若干の政治的配慮などもあるようですがかなり信憑性の高い史書だそうです。
とりあえず「役小角」というややこしい人は実際にいたんですね。

その後赦されて戻った小角は三から五年後に死去しています。

流刑地の伊豆大島では、暴風雨で荒れる海を呪法によって鎮めたとか、夜に富士山ほか関東・東北の各地を飛行して訪ねて修行道場を開いたとか、岩石を空中乱舞させたとか、鬼神を使役したとか、様々な伝説を生んでいます。

日本古来の霊峰に密教をミックスしたような「修験道」はそうした小角の伝説と共に、全国へ広まっていくのです。
まぁ単純に考えて、これは残った弟子たちが各地に行ってその教えを広めた結果なのてしょう。

あ、ちなみに「蔵王権現」という仏様はこの役小角オリジナルな仏様でして、釈迦・千手・弥勒の各如来、菩薩の徳を全て兼ね備えたという、パーフェクト仏なんですね。
大和吉野金峯山本堂には八メートルを越す巨像があるとか…。



[住所] 醍醐寺 京都市伏見区醍醐東大路町22

   ※写真は「醍醐寺」の行者さん。お酒がなんともイイ感じです。


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※タイトルが気に入ったのでこちら↓を紹介。
 「はじめての」…って(笑)
 あ、ちなみに本の表紙が噂の仏像「蔵王権現」さまです。あのぶったたくぞーというポーズが特徴。

はじめての修験道

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