楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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     ・おくのほそ道を歩く

草加の千本松原(芭蕉の道を歩く 12)

2009年09月18日 08時35分00秒 | 芭蕉の旅


(草加松原)
草加松原といえば、ボクの脳裏をよぎるのは、
住宅公団が作った大規模団地である。
竣工当時東京のベッドタウンとしての役割を果たした
東洋一のマンモス団地であった。
総戸数5926戸。
東武伊勢崎線の駅名は「松原団地」駅。

脱線したが、芭蕉は弟子の曾良と千住宿を過ぎて、
「その日ようやく早加(草加)という宿へつけり」と奥の細道に書いている。
その草加に千本松原がある。

左手の国道49号線に平行して旧街道があり、
右手には綾瀬川が水をたたえ流れている。
街道の両側に大小の松の木が植えられ、
道路わきにはつつじなど低木が花を咲かせていた。

その松並木の中にひときわ高く望楼が見える場所が「札場河岸公園」(*)で、
公園に入るとすぐ芭蕉像があり「札場河岸公園」の入り口に当たる。
道路の先を見ると道が一本、長く続き、右手の綾瀬川の向こうは広場で、
大人も子供も一緒になってボール遊びなどしている。

(*)札場(ふだば)河岸
綾瀬川を利用した舟運に使われていた私(わたくし)河岸。
所有していた家が高札の立った場所にあり
屋号が「札場」であったことからそう呼ばれています。
(草加市)

今も昔も同じ景観なのかどうか良く判らないが、
とてもよく手入れされた街道である。
ガイドブックを見ると、前回述べた「東福寺」と共に、
この草加松原は「草加八景」の一つに数えられており、
「日本の道100選日光街道」の大きい顕彰碑も見える。

すぐ近くには、高浜虚子の句碑がある。

・順礼(巡礼)や 草加あたりを 帰る雁  (高浜虚子)

散歩を楽しむ人たちが歩き、遊歩道には矢立橋、
続いて百代橋が太鼓橋で造られており、歩道橋の役目をしている。
進むと松尾芭蕉文学顕彰碑があり、
ここには西村本「おくのほそ道」として、次のように刻まれている。

「ことし 元禄二とせにや 奥羽長途の行脚 
只(ただ)かりそめに思い立ちて
呉天に白髪の恨みを重ねぬといへ共 ――中略――
さすがに打ち捨てがたくて
路地の煩となるこそ わりなけれ」と。

その先に水原秋桜子の句碑、

・草紅葉 草加煎餅を 干しにけり  (水原秋桜子)があり、

その先に松原北端の碑で、1500メートル続く松並木の街道は終わる。
とても歩きよく、美しい手入れされた道で、
さすが「日光街道百選」に選ばれる道と思った。

ボクの一句、

・水恋し 陽射しの中に 子らの声  (hide-bach
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1 コメント

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Unknown (オオカワ)
2024-07-30 22:31:38
私は、奥の細道旅立ちの場面をずっと悩んでいます。作品全体の解釈には瑣末なことかもしれませんが。
①芭蕉は、千住から一人で旅立ったのではないか。
②曽良は先行し、春日部宿で合流したのではないか。
③千住宿での見送り人の名前を示さないのは、なぜか。大垣宿では、誰それが出迎えたと詳細であるのに。
④路通は千住で見送りをしたのではないか。だから、敦賀の港に出迎えに来たのではないか。
⑤曽良が山中温泉で、芭蕉と別れたのは病気が理由ではなく路通に遠慮したのではないか。
例によって根拠は薄いのですが、そんな想像をしています。
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