(古河宿)
JR古河駅に降り正面に「万葉古河の歌碑」が建っている。
古河市教育委員会の説明に依ると、
「万葉集は日本最古の歌集で、その中で東歌として収録されている歌は、
作者不詳であるが、労働・土俗・性愛の表現に特徴があり、
東国の方言的要素を含んでいる。また地名を含む歌が多いのが特徴である。
その中に相聞歌として古河(許我)の地名を含む歌が二首ある。
・まくらがの 許我の渡りの からかじの
音高しもな 寝なへ児ゆえに
(まくらがの古河の渡りのからかじの音が高いように
高い噂が立ったなぁ あの子と共寝をしたわけではないのに)
・逢わずして 行かば惜しけむ まくらがの
許我こぐ船に 君も逢わぬかも
(あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう まくらがの
古河を漕ぐ渡し舟であなたにお逢いできないものかなぁ)
この二つの歌は、おそらく民謡のように語り歌い継がれたものであろう。
いずれにしても、歌の内容から渡し場であった様子がうかがえ、
この古河の地が古くからひらけ、渡良瀬川などの河川や沼を交通路として利用し、
河川交通の要所として発展していたことをうかがわせる。(後略)」(平成20年)とある。
(古河駅)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/4f/d81dc2f084faba31b44c149523a1d7f3.jpg)
(駅前の歌碑、逢わずしての歌が刻まれている)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/40/0da597870c73a2ca1e1eb7e66e2e1821.jpg)
駅前 正面に延びている道路を西に向かう。道路は旧日光街道にぶつかる信号に出る。
信号を左折し江戸方面に戻る感じで進むと次の信号に出るが、
その信号手前の左側に、小さくて見落としてしまう石碑がある。
「史跡古河宿高札場跡」と書かれているようである。
高札場は、宿場内での秩序を守るため、守るべき事や禁止事項がかかれていた。
旅人は笠を取ってこれを読み、文字の読めない人には、管理者が読み聞かせた。
(高札場の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/21/0dbbcf0254f7d7f7bf2339f7321ac0b3.jpg)
(高札場の碑2)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/c8/8f1ba7d02e1f7487d0bb56b4c5a99ceb.jpg)
その隣に古河市教育委員会の説明板があるが、風雨にさらされ薄れて読みづらい。
何でも、「日光街道の古地図によると、高札場がこの場所にあり、
斜め向かいに本陣と問屋のうち一軒があり、
その向いに脇本陣が二軒ならんで画かれている。」と言う。
そもそも本陣と脇本陣は参勤交代時の大名の宿泊場所で、
本陣に宿泊がある時は、本陣として脇本陣を利用する役目があった。
また、問屋は、宿場を通行する旅人の荷物の運搬を取りしきり、
運搬のための人足二十五人、馬二十五匹を常備していた。
宿場は延長十七町五十五間(約1850m)あり、
旅籠や茶店が軒を連ね飯盛り女(遊女)がことのほか多い街だったと言う。
高札場の道路向い側に「史跡 古河城下本陣址」の碑がある。
(本陣跡の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/28/b82cc30aed458c076e09152385009049.jpg)
この通りを日光方面に向かう、信号にして二つ目の右向こう側に、
「日光道中古河宿」の道標があり、歩道上には「左日光道」の案内もある。
ここで街道は鉤の手になっており、左折し百メートルにも満たないうちに右折する。
敵に攻撃された時、守りやすいための工夫である。
(古河宿の道標)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/7a/03155f225c465aa04a5a68dc90162c43.jpg)
(右江戸衛(え))
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/7c/fdb41a4b56d152c9d9da94ef32b88b2f.jpg)
(左面に右江戸衛(え)右面に左日光道とある道標)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/3c/c0fd4597620a2e11b7efdf90c8468cc3.jpg)
(歩道上の左日光道の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/3f/065cf7f43fdb88ff96ff4cc9f135ed67.jpg)
左日光道の案内を左折すると、神宮寺がある。
ここには古河市指定銘木の古木黒松があり、
室町時代の作である十一面観音菩薩坐像が有名だそうであるが、
拝観はできなかった。
この先、鉤の手で右折すると、正麟寺の案内があれば、
旧日光街道であることが確認できる。
(神宮寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/eb/61a31f99360560ce4a86f248f99c3780.jpg)
(黒松)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/e6/494041dabfe2546d6b223b57b18bcb04.jpg)
(鉤の手で右折)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/ce/f9aac5f3ad6558c7cf8eec492a74d435.jpg)
(正麟寺の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/14/5cfc94f10f40045a37fd59989e97e25e.jpg)
鉤の手を右折しないで、直進すると右手に江戸時代が偲ばれる武家屋敷、
左手に大道山 隆岩寺がある。
ここは徳川家康の長男信康(岡崎三郎信康)の供養塔があることで知られるが、
境内に供養塔は見当たらなかった。
(鉤の手を直進)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/3f/542fb6b6662a2cf5cab9be705519ab16.jpg)
(武家屋敷?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/f5/00451330f5b46174737132ef5c8009b4.jpg)
(隆岩寺入口と三門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/c2/74cb97e1a22584bd766a43d871792fa8.jpg)
(隆岩寺本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/5d/047c711adba62e4c5a8da0dfd66f45ca.jpg)
本堂に向かって左側は福寿稲荷神社があり、その門前の道路を西にやや下ると、
道路を隔てて黒門が見える。
ここは利勝山 正定寺(しょうじょうじ)で、
江戸時代初期、家康・秀忠・家光に仕えた古河城主 土井利勝の開いた寺で利勝公のお墓がある。
(道を隔てた所にある黒門、門の両脇は塀になっている)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/58/56754438fb7d59870d157504ed9220ac.jpg)
「この黒門は、もと東京の本郷にあった、旧古賀藩主 土井家の下屋敷表門であったが、
昭和八年(1933)に土井家菩提寺である古河の正定寺(しょうじょうじ)に移築されたものという。
江戸時代の大名屋敷に用いられる藥医門と呼ばれる型式で、
両側に袖塀が付き、向かって左側にくぐり戸がある。
また、屋根瓦には、土井家の家紋の「水車」があしらわれている。」
と古河教育委員会が案内板に記している。
(土井家の家紋「水車」が屋根瓦に見えるでしょうか)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/50/6dd6c560290b529a0bdbc7472b25f266.jpg)
「また、黒門の脇にあるくぐり戸を、家臣の土岐と名乗る家来が、
本来、下馬して通らなければならない黒門のくぐり戸を、
緊急のため、乗馬のまま乗り入れて、無事務めを果たした。
臨機応変な働きぶりに利勝公より褒美に名馬を賜った。
以後、巷では、「とき門」と呼ばれ、(時に応じて敏なり)、
として立身出世門と称された。」(古河市教育委員会)
(とき門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/64/3ab5f29de5bbb98b9d8d95d0ad06e642.jpg)
(正定寺入口)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/3a/2ef2047b547d29aa1b4bb1a949b3a371.jpg)
(三門と鐘楼堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/64/fcc712c01ffde4a4ffbca71a329e00db.jpg)
(本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/39/c7d06e34c433a5b30a5efdda35494b74.jpg)
土井利勝公の墓所は本堂の裏手にあたり、
左手の墓地に、「古河城主 土井家墓所」の案内があるので、解り易い。
墓所はコンクリートの囲いの中に夫婦そろって建立されている。
左手が利勝公の墓で、
正面に「隠誉泰翁覚玄居士」の法号が刻まれている。
(古河城主 土井家墓所の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/09/20df306372faefbf9db1ae6b56f73167.jpg)
(土井利勝公ご夫婦の墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/22/9438481403db0198bd4f6690cb26b95b.jpg)
(前面の利勝公の法号)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/27/94a0ec9973105096cb7e1b6de95ca01a.jpg)
JR古河駅に降り正面に「万葉古河の歌碑」が建っている。
古河市教育委員会の説明に依ると、
「万葉集は日本最古の歌集で、その中で東歌として収録されている歌は、
作者不詳であるが、労働・土俗・性愛の表現に特徴があり、
東国の方言的要素を含んでいる。また地名を含む歌が多いのが特徴である。
その中に相聞歌として古河(許我)の地名を含む歌が二首ある。
・まくらがの 許我の渡りの からかじの
音高しもな 寝なへ児ゆえに
(まくらがの古河の渡りのからかじの音が高いように
高い噂が立ったなぁ あの子と共寝をしたわけではないのに)
・逢わずして 行かば惜しけむ まくらがの
許我こぐ船に 君も逢わぬかも
(あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう まくらがの
古河を漕ぐ渡し舟であなたにお逢いできないものかなぁ)
この二つの歌は、おそらく民謡のように語り歌い継がれたものであろう。
いずれにしても、歌の内容から渡し場であった様子がうかがえ、
この古河の地が古くからひらけ、渡良瀬川などの河川や沼を交通路として利用し、
河川交通の要所として発展していたことをうかがわせる。(後略)」(平成20年)とある。
(古河駅)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/4f/d81dc2f084faba31b44c149523a1d7f3.jpg)
(駅前の歌碑、逢わずしての歌が刻まれている)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/40/0da597870c73a2ca1e1eb7e66e2e1821.jpg)
駅前 正面に延びている道路を西に向かう。道路は旧日光街道にぶつかる信号に出る。
信号を左折し江戸方面に戻る感じで進むと次の信号に出るが、
その信号手前の左側に、小さくて見落としてしまう石碑がある。
「史跡古河宿高札場跡」と書かれているようである。
高札場は、宿場内での秩序を守るため、守るべき事や禁止事項がかかれていた。
旅人は笠を取ってこれを読み、文字の読めない人には、管理者が読み聞かせた。
(高札場の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/21/0dbbcf0254f7d7f7bf2339f7321ac0b3.jpg)
(高札場の碑2)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/c8/8f1ba7d02e1f7487d0bb56b4c5a99ceb.jpg)
その隣に古河市教育委員会の説明板があるが、風雨にさらされ薄れて読みづらい。
何でも、「日光街道の古地図によると、高札場がこの場所にあり、
斜め向かいに本陣と問屋のうち一軒があり、
その向いに脇本陣が二軒ならんで画かれている。」と言う。
そもそも本陣と脇本陣は参勤交代時の大名の宿泊場所で、
本陣に宿泊がある時は、本陣として脇本陣を利用する役目があった。
また、問屋は、宿場を通行する旅人の荷物の運搬を取りしきり、
運搬のための人足二十五人、馬二十五匹を常備していた。
宿場は延長十七町五十五間(約1850m)あり、
旅籠や茶店が軒を連ね飯盛り女(遊女)がことのほか多い街だったと言う。
高札場の道路向い側に「史跡 古河城下本陣址」の碑がある。
(本陣跡の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/28/b82cc30aed458c076e09152385009049.jpg)
この通りを日光方面に向かう、信号にして二つ目の右向こう側に、
「日光道中古河宿」の道標があり、歩道上には「左日光道」の案内もある。
ここで街道は鉤の手になっており、左折し百メートルにも満たないうちに右折する。
敵に攻撃された時、守りやすいための工夫である。
(古河宿の道標)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/7a/03155f225c465aa04a5a68dc90162c43.jpg)
(右江戸衛(え))
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/7c/fdb41a4b56d152c9d9da94ef32b88b2f.jpg)
(左面に右江戸衛(え)右面に左日光道とある道標)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/3c/c0fd4597620a2e11b7efdf90c8468cc3.jpg)
(歩道上の左日光道の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/3f/065cf7f43fdb88ff96ff4cc9f135ed67.jpg)
左日光道の案内を左折すると、神宮寺がある。
ここには古河市指定銘木の古木黒松があり、
室町時代の作である十一面観音菩薩坐像が有名だそうであるが、
拝観はできなかった。
この先、鉤の手で右折すると、正麟寺の案内があれば、
旧日光街道であることが確認できる。
(神宮寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/eb/61a31f99360560ce4a86f248f99c3780.jpg)
(黒松)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/e6/494041dabfe2546d6b223b57b18bcb04.jpg)
(鉤の手で右折)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/ce/f9aac5f3ad6558c7cf8eec492a74d435.jpg)
(正麟寺の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/14/5cfc94f10f40045a37fd59989e97e25e.jpg)
鉤の手を右折しないで、直進すると右手に江戸時代が偲ばれる武家屋敷、
左手に大道山 隆岩寺がある。
ここは徳川家康の長男信康(岡崎三郎信康)の供養塔があることで知られるが、
境内に供養塔は見当たらなかった。
(鉤の手を直進)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/3f/542fb6b6662a2cf5cab9be705519ab16.jpg)
(武家屋敷?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/f5/00451330f5b46174737132ef5c8009b4.jpg)
(隆岩寺入口と三門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/c2/74cb97e1a22584bd766a43d871792fa8.jpg)
(隆岩寺本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/5d/047c711adba62e4c5a8da0dfd66f45ca.jpg)
本堂に向かって左側は福寿稲荷神社があり、その門前の道路を西にやや下ると、
道路を隔てて黒門が見える。
ここは利勝山 正定寺(しょうじょうじ)で、
江戸時代初期、家康・秀忠・家光に仕えた古河城主 土井利勝の開いた寺で利勝公のお墓がある。
(道を隔てた所にある黒門、門の両脇は塀になっている)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/58/56754438fb7d59870d157504ed9220ac.jpg)
「この黒門は、もと東京の本郷にあった、旧古賀藩主 土井家の下屋敷表門であったが、
昭和八年(1933)に土井家菩提寺である古河の正定寺(しょうじょうじ)に移築されたものという。
江戸時代の大名屋敷に用いられる藥医門と呼ばれる型式で、
両側に袖塀が付き、向かって左側にくぐり戸がある。
また、屋根瓦には、土井家の家紋の「水車」があしらわれている。」
と古河教育委員会が案内板に記している。
(土井家の家紋「水車」が屋根瓦に見えるでしょうか)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/50/6dd6c560290b529a0bdbc7472b25f266.jpg)
「また、黒門の脇にあるくぐり戸を、家臣の土岐と名乗る家来が、
本来、下馬して通らなければならない黒門のくぐり戸を、
緊急のため、乗馬のまま乗り入れて、無事務めを果たした。
臨機応変な働きぶりに利勝公より褒美に名馬を賜った。
以後、巷では、「とき門」と呼ばれ、(時に応じて敏なり)、
として立身出世門と称された。」(古河市教育委員会)
(とき門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/64/3ab5f29de5bbb98b9d8d95d0ad06e642.jpg)
(正定寺入口)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/3a/2ef2047b547d29aa1b4bb1a949b3a371.jpg)
(三門と鐘楼堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/64/fcc712c01ffde4a4ffbca71a329e00db.jpg)
(本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/39/c7d06e34c433a5b30a5efdda35494b74.jpg)
土井利勝公の墓所は本堂の裏手にあたり、
左手の墓地に、「古河城主 土井家墓所」の案内があるので、解り易い。
墓所はコンクリートの囲いの中に夫婦そろって建立されている。
左手が利勝公の墓で、
正面に「隠誉泰翁覚玄居士」の法号が刻まれている。
(古河城主 土井家墓所の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/09/20df306372faefbf9db1ae6b56f73167.jpg)
(土井利勝公ご夫婦の墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/22/9438481403db0198bd4f6690cb26b95b.jpg)
(前面の利勝公の法号)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/27/94a0ec9973105096cb7e1b6de95ca01a.jpg)
何か、面白みもないことを津図っているように思えて仕方がありません。
日光へは、江戸城から将軍が進んだ「御成道(おなりみち)」があります。
杉並木道が出てくると、なるほど日光街道と思えるのですが。
夜でも、道標の場所が解るようにでしょうね。
私が大阪から出張中していた昭和の頃の古河駅は地上でしたが
平成になってから高架式の駅舎に変わったんだったかな?
平成18年に花桃を見るために一度だけしか古河の街は歩いてませんが
土井利勝のお墓があるんですね、機会があれば日光街道をもう一度歩いてみたい気もしますね。
リニア新幹線の体験も楽しみにしています、トンネルばかりで外の景色は一部だけなんだろうな。
でも時速500kmの体感はどんな気分でしたか?
時速500kmも飛行機と変わりありませんね。
リニアの構造上トンネルが90%でも仕方ありませんね。
正定寺入口の仏さまは、珍しい見返り仏さまでした。そういえば、京都の永観堂には、「見返り阿弥陀」さまがいました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/1ba5ab10bf2ac87cfe15b3cd0247da21
一度よく見てみたいです。
正定寺の入口の仏、ボクは気にもなりませんでした。
うかつですね。