楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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古河宿(日光・奥州街道ひとり歩る記 38)

2015年11月02日 17時01分39秒 | ひとり歩き旅
(古河宿)
JR古河駅に降り正面に「万葉古河の歌碑」が建っている。
古河市教育委員会の説明に依ると、

「万葉集は日本最古の歌集で、その中で東歌として収録されている歌は、
作者不詳であるが、労働・土俗・性愛の表現に特徴があり、
東国の方言的要素を含んでいる。また地名を含む歌が多いのが特徴である。
その中に相聞歌として古河(許我)の地名を含む歌が二首ある。

・まくらがの 許我の渡りの からかじの
        音高しもな 寝なへ児ゆえに
(まくらがの古河の渡りのからかじの音が高いように 
     高い噂が立ったなぁ あの子と共寝をしたわけではないのに)

逢わずして 行かば惜しけむ まくらがの
        許我こぐ船に 君も逢わぬかも

(あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう まくらがの
     古河を漕ぐ渡し舟であなたにお逢いできないものかなぁ)

この二つの歌は、おそらく民謡のように語り歌い継がれたものであろう。
いずれにしても、歌の内容から渡し場であった様子がうかがえ、
この古河の地が古くからひらけ、渡良瀬川などの河川や沼を交通路として利用し、
河川交通の要所として発展していたことをうかがわせる。(後略)」(平成20年)とある。

(古河駅)

(駅前の歌碑、逢わずしての歌が刻まれている)


駅前 正面に延びている道路を西に向かう。道路は旧日光街道にぶつかる信号に出る。
信号を左折し江戸方面に戻る感じで進むと次の信号に出るが、
その信号手前の左側に、小さくて見落としてしまう石碑がある。
「史跡古河宿高札場跡」と書かれているようである。
高札場は、宿場内での秩序を守るため、守るべき事や禁止事項がかかれていた。
旅人は笠を取ってこれを読み、文字の読めない人には、管理者が読み聞かせた。

(高札場の碑)

(高札場の碑2)



その隣に古河市教育委員会の説明板があるが、風雨にさらされ薄れて読みづらい。
何でも、「日光街道の古地図によると、高札場がこの場所にあり、
斜め向かいに本陣と問屋のうち一軒があり、
その向いに脇本陣が二軒ならんで画かれている。」と言う。

そもそも本陣と脇本陣は参勤交代時の大名の宿泊場所で、
本陣に宿泊がある時は、本陣として脇本陣を利用する役目があった。
また、問屋は、宿場を通行する旅人の荷物の運搬を取りしきり、
運搬のための人足二十五人、馬二十五匹を常備していた。
宿場は延長十七町五十五間(約1850m)あり、
旅籠や茶店が軒を連ね飯盛り女(遊女)がことのほか多い街だったと言う。

高札場の道路向い側に「史跡 古河城下本陣址」の碑がある。

(本陣跡の碑)


この通りを日光方面に向かう、信号にして二つ目の右向こう側に、
「日光道中古河宿」の道標があり、歩道上には「左日光道」の案内もある。
ここで街道は鉤の手になっており、左折し百メートルにも満たないうちに右折する。
敵に攻撃された時、守りやすいための工夫である。

(古河宿の道標)

(右江戸衛(え))

(左面に右江戸衛(え)右面に左日光道とある道標)

(歩道上の左日光道の案内)


左日光道の案内を左折すると、神宮寺がある。
ここには古河市指定銘木の古木黒松があり、
室町時代の作である十一面観音菩薩坐像が有名だそうであるが、
拝観はできなかった。
この先、鉤の手で右折すると、正麟寺の案内があれば、
旧日光街道であることが確認できる。

(神宮寺)

(黒松)

(鉤の手で右折)

(正麟寺の案内)


鉤の手を右折しないで、直進すると右手に江戸時代が偲ばれる武家屋敷、
左手に大道山 隆岩寺がある。
ここは徳川家康の長男信康(岡崎三郎信康)の供養塔があることで知られるが、
境内に供養塔は見当たらなかった。

(鉤の手を直進)

(武家屋敷?)

(隆岩寺入口と三門)

(隆岩寺本堂)


本堂に向かって左側は福寿稲荷神社があり、その門前の道路を西にやや下ると、
道路を隔てて黒門が見える。
ここは利勝山 正定寺(しょうじょうじ)で、
江戸時代初期、家康・秀忠・家光に仕えた古河城主 土井利勝の開いた寺で利勝公のお墓がある。

(道を隔てた所にある黒門、門の両脇は塀になっている)


「この黒門は、もと東京の本郷にあった、旧古賀藩主 土井家の下屋敷表門であったが、
昭和八年(1933)に土井家菩提寺である古河の正定寺(しょうじょうじ)に移築されたものという。
江戸時代の大名屋敷に用いられる藥医門と呼ばれる型式で、
両側に袖塀が付き、向かって左側にくぐり戸がある。
また、屋根瓦には、土井家の家紋の「水車」があしらわれている。」
と古河教育委員会が案内板に記している。

(土井家の家紋「水車」が屋根瓦に見えるでしょうか)


「また、黒門の脇にあるくぐり戸を、家臣の土岐と名乗る家来が、
本来、下馬して通らなければならない黒門のくぐり戸を、
緊急のため、乗馬のまま乗り入れて、無事務めを果たした。
臨機応変な働きぶりに利勝公より褒美に名馬を賜った。
以後、巷では、「とき門」と呼ばれ、(時に応じて敏なり)、
として立身出世門と称された。」(古河市教育委員会)

(とき門)


(正定寺入口)

(三門と鐘楼堂)

(本堂)


土井利勝公の墓所は本堂の裏手にあたり、
左手の墓地に、「古河城主 土井家墓所」の案内があるので、解り易い。
墓所はコンクリートの囲いの中に夫婦そろって建立されている。
左手が利勝公の墓で、
正面に「隠誉泰翁覚玄居士」の法号が刻まれている。

(古河城主 土井家墓所の案内)

(土井利勝公ご夫婦の墓)

(前面の利勝公の法号)



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8 コメント

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こんばんは (ytakei4)
2015-11-02 21:00:44
いつも丁寧な解説、ありがとうございます。
返信する
ytakei4さん コメント有難うございます (hide-san)
2015-11-03 10:45:13
旧街道のたたずまいは面白いですか?
何か、面白みもないことを津図っているように思えて仕方がありません。

日光へは、江戸城から将軍が進んだ「御成道(おなりみち)」があります。
杉並木道が出てくると、なるほど日光街道と思えるのですが。
返信する
日光道の道標 (更家)
2015-11-05 10:16:34
古河宿の道標の上に乗っている洞?は、ロウソクを灯すためのものでしょうか、色々な道標を見ましたが、これは珍しい形ですね。
返信する
更家さん コメント有り難うございます。 (hide-san)
2015-11-05 16:37:07
灯篭の火袋ですね。
夜でも、道標の場所が解るようにでしょうね。
返信する
お早うございます~♪ (鉄ちゃん爺や)
2015-11-07 09:45:10
JR古河駅は見覚えがある姿のままですね。

私が大阪から出張中していた昭和の頃の古河駅は地上でしたが
平成になってから高架式の駅舎に変わったんだったかな?

平成18年に花桃を見るために一度だけしか古河の街は歩いてませんが
土井利勝のお墓があるんですね、機会があれば日光街道をもう一度歩いてみたい気もしますね。

リニア新幹線の体験も楽しみにしています、トンネルばかりで外の景色は一部だけなんだろうな。

でも時速500kmの体感はどんな気分でしたか?
返信する
鉄ちゃん爺やさん  コメントありがとうございました (hide-san)
2015-11-07 10:36:23
日光街道も杉並木がないと、気分半減ですね。

時速500kmも飛行機と変わりありませんね。

リニアの構造上トンネルが90%でも仕方ありませんね。
返信する
見返り仏 (iina)
2015-11-20 08:16:05
hide-sanさんも、更家さんのように古道を歩く旅がお好きなのですね。

正定寺入口の仏さまは、珍しい見返り仏さまでした。そういえば、京都の永観堂には、「見返り阿弥陀」さまがいました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/1ba5ab10bf2ac87cfe15b3cd0247da21

返信する
iinaさん コメント有難うございます。 (hide-san)
2015-11-21 22:14:13
永観堂阿弥陀と言うのですか?
一度よく見てみたいです。

正定寺の入口の仏、ボクは気にもなりませんでした。
うかつですね。
返信する

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