楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
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残酷 (生きる 15)

2004年06月11日 08時32分00秒 | つれづれなるままに考えること
(残酷)
ラストサムライを見たとき、サムライのハラキリと
首斬りを思い出した。

動物の中で人間ほど残酷な生き物はないと思う。

源平時代でも、赤穂浪士の時代でも、切腹と首斬りは
付いて回っている。

腹を掻き切って、その上首を刎ねる。
罪人はその首をさらしものにする。
晒された親類縁者は、夜陰にまぎれて
首を引き取り、胴体を捜して埋葬する。

日本では、源平時代から(もっと前からかも知れない)
明治の初めまでそんなことをしていた。
新撰組の組長 近藤 勇も、最後は捕らえられ、
近藤 勇本人かどうか分からないので、
首を刎ねて京都まで運び、確認したという。
まだ100年そこそこ前のことだ。

ハラキリも首切りも、磔も火焙りも、
人間のやることは、残酷なことこの上もない。

中国の「三国志」「史記」など読んでいると
もっと残酷である。
馬に牽かせた車二台に、左右の足を縛りつけ、
車を左右に走らせる刑。股が裂ける。
鼻を削ぎ、耳を削ぎ、両手両足を切断して、
トイレに入れておき、トイレ掃除をさせる刑。
時には、お客様があると妻を殺して、
その肉を煮て食べさせる。これが最高の饗応だという。

動物という動物は全部食べてしまう。
挙句に「食は広州にあり」と嘯いている。
その広州のレストランの中庭には、
食材の蛙や蛇は勿論、ネズミから猿まで、
生きた食材が檻の中でうごめいている。

人間の残酷さは推して計るべしである。
そんな残酷さを、人間は誰でも持っている。
「いえ、私は持っていません」と、
もし反論する人がいたら、その人にあって見たい。

まず、人間の食べ物である。
野菜穀物はともかく、魚、鳥、獣の肉を
食べることを考えてもらいたい。

料理方法ついて、今はどのようにしているか知らないが、
ボクの子供の頃は、誰かお客さんがあると、
飼っている鶏を絞め殺して、
毛をむしりとり、腹からはらわたを取り出して、
足、手羽、胸と解体して野菜と一緒に煮て供応した。

朝晩、餌をやり、汚れると鶏小屋の掃除をして、
可愛がってきた子供心には、耐えられないことであった。
あるとき、学校から帰ったら、叔父さんが家に来ていた。
飯台の上には美味しそうな臭いのする鍋があり、
叔父さんが美味しい美味しいといって食べていた。
ボクもどうかといわれ食べてみるとなるほど美味しい。
たらふく食べて、叔父さんが帰った後、いつもの習慣で
鶏小屋に行くと、一羽足りないので、
「鶏が一羽居ないよ!どうしたの?」と聞くと、
「さっき、お前のお腹の中に入っただろ」と言う。

意味がやっと解かった。その途端
「ゲー」と吐いた記憶がある。

一度その体験をすると、以後は平気になってしまう。
お客さんがあると、鶏を絞め殺して、毛をむしって、
お腹から臓物を出して、解体を手伝っても、
口に入れることが出来る。

実に残酷だ。

魚のように動物が小さいとさほど気にならない。
しかし、我が家のカミさんにボクが釣ってきた魚を
さばかせる時、魚が生きているとさばけない。
女性は気持ちが優しいのであろうか?
ただ格好をつけているだけなのだろうか?

解からない!

しかし残酷なことには、変わりない。
動物が大きくなればなるほど、残酷さを感じる。

例えば豚、牛、馬。

殺す現場を見たことはないが、殺されてごろごろ
横たわっているところを、見かけたことはある。
あの大きな体がごろんと横たわっているところを見て、
これを食べていると思うと、その場ではいたたまれない。

でも食べてみると美味しくて、殺されて横たわっている
姿など思い出しもしない。

残酷この上ない。

この分では、人が人を食べるなんてことが、
何処かであるらしいが、
あるいは餓えているとそんな気持ちになるかもしれないが、

人間ほど残酷な動物はいない。







コメント
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