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楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

玄奘の悲願(インド紀行8)

2021年01月16日 04時23分12秒 | 海外旅行1

(玄奘の悲願)


(ラン展より1)

玄奘三蔵は17年の歳月を経て、
故郷の唐の国へ帰るが、
出国の際 禁を破って脱出したため入国するに当たって、
国に入る許しを得る手紙を皇帝に送っている。


(ラン展から2)

切々と訴える手紙の一部を紹介したい。

【沙門玄奘は申し上げます。
(昔から、学者は知識を求めて遠方まで出かけていることを、
例を挙げて説明している、だから玄奘も天竺へ赴いたと説く。
その一部を省略。)
インドにおいて釈迦が衆生に利益を与えた神々しい跡とか、
教えに深く通じた高僧たちが明らかにされた、
類まれな高説にいたっては、これらが大変遠方にあるからといって、
手をこまねいて慕い訪ねないでおられましょうか。
釈迦が西域にお生まれになって教えをおこされ、
残された教えは中国に伝わり、優れた経典がやってきました。
しかし、それでもなお、十分というわけではなく、
欠けたところがあります。

わたくしは身も命もかえりみず、
以前から常にこの方面の学問を訪ねようと思っておりましたが、
とうとう貞観三年四月(630年)をもって、
国の決まりをおかし、
ひそかにインドへ旅立ってしまったのであります。
みはるかすかぎりの砂漠を踏み渡り、
切り立った雪深い高山を越え、
ウズベキスタンの山間を抜け、
イシクルコのような波濤に洗われた道を通過し、
長安の都からはじめ、王舎城の町に終わる旅でありました。

その間に通った道は二万キロ以上。
風俗は千を持ってかぞえるほど異なり、
困難危険は万を持ってかぞえるほどでありました。
しかし、人間の知恵でははかり知れない天の威力によりすがって,
もっぱらこれをたのみといたしましたので、
どこに行ってもわずらいもなく、てあつくもてなされ、
身も苦しまず、みな望みどおりになったのであります。
とうとう思いをとげて「霊鷲山」を見、
釈迦が悟りを開いた菩提樹を礼拝いたしました。


(ラン展から3)

見ることがかなわなかった仏跡を見、
聞くことがかなわなかった経を聞きました。
全世界の不思議を見尽くし、
自然のはぐくみを見極めもいたしました。
陛下の徳が行き渡っていることを述べたたえ、
異なったふうぞくのひとびとの陛下に対する思いを啓発いたし、
へめぐり歩いて17年。(以下省略)】

トルファンまで来てこの手紙を出した。
なぜ皇帝に手紙を出したかと言うと、
持ち帰った経典を翻訳するには、
国の力が必要であったからといわれる。


(インドの夜景)

当時、翻訳するのに記載する紙が高価であったことと、
657巻の経典を翻訳するには、
記録係、翻訳者、書き写す者など大勢の手が必要であったのと、
657巻にわたる膨大な経典の翻訳が、
一生かけて完了させるのは時間的に余裕がなかったからである。
玄奘の悲願である、仏典の翻訳はこうして始まり完成した。

二十世紀に入り、戦火による焼失を免れるため、
敦煌の石窟の壁に塗りこめられた経典が発見されたいきさつは、
井上靖の小説「敦煌」に詳しく掲載されているが、
一部はイギリスの探検家オーレル・スタインが、
また一部はフランス人のぺリオが、
残りを中国の軍隊が没収していった。
経典類は全部で四万点余であったという。

世紀の宝物であろう。


(インドの夜景)

しかし、こうして仏典は中国語に翻訳され、
日本に伝わった。

偉大な事業であった。

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玄奘も学んだナーランダ仏教大学遺跡(インド紀行7)

2021年01月03日 04時21分57秒 | 海外旅行1

(玄奘も学んだナーランダ仏教大学遺跡)

ツアーの三日目は、
いよいよ待ちに待ったナーランダ仏教大学遺跡を訪ねる。
七世紀に中国を脱出し、長い困難な道のりを越え、
仏教の経典を求めてやってきた玄奘三蔵が、
抱いていた仏教への疑問を解決し、学僧数千人を集めて、
講義をした大学跡である。

ナーランダ仏教大学遺跡は、石で建造された巨大な礎石だけが残る。
講義室、学生の宿舎は四人一室で起居し、勉学に励んだ跡が残る。



(講義室の教壇は一段高くなって居る)

部屋の4隅には、四人分の本箱といわれる場所があるが、
当時の本は一体どんな形をしていたのであろうか?
すでに紙が発達していたのか、
絹に書き込んだものだろうか、
もし木簡であったとすれば、本箱が小さすぎる。
絹であればなおのこと、紙で作られた本でも高価すぎて、
学僧の手に入るものではない。

教壇は現在の小学校にあるほどの大きさはあるが、
講義室は小学校の半分程度の大きさであるが、
沢山の講義室、宿舎が並び、
学校の大きさは三平方キロに渡るというから、
相当な広さであったに違いない。

もちろん、講義室には机もなかったが、
学僧は地面に座って講義を聞いたのであろうか?
2006年のインドの田舎の村を訪ねると、
小さな黒板を日陰に立てて、
子供達十人ほどが車座になって、
教師らしき人の声に合わせ、なにやら復唱する声が聞こえたが、


(子供たちの授業風景)

ガイドの説明によれば、田舎の小学校だというから、
ナーランダ仏教大学でも、同じように学僧たちは、
地面に座って講義に聞き入ったに違いない。

玄奘三蔵は、経典657部を携え、唐の都に帰っていった。
中国脱出後17年の後であったという。
故郷に帰った玄奘は、
経典の翻訳に一生をささげるつもりであったが、
時の皇帝は国防のため、
当時明らかでなかった西域の国々
(中央アジアやインド)について知識が必要であったため、
玄奘に「西域記」の編纂を命じた。
これが有名な「大唐西域記」である。

話は変わるが、
その昔、ボクが子供のとき、絵本ではなく、
文字だけの本を初めて買ってもらったのが「西遊記」であった。
三蔵法師に孫悟空、猪八戒、沙悟浄の活躍に
胸躍らせた記憶が焼きついている。

玄奘三蔵法師の伝記「慈恩伝」を面白おかしく物語にしたのが,
この「西遊記」である。
いつか、孫悟空の歩いた道を歩いてみたいと思った夢が,
実現できるとは思っても見なかった。
玄奘が学んだナーランダ仏教遺跡を訪ねることが出来たことは、
実に感慨深い。



(ナーランダ仏教大学遺跡)

なお、余談であるが、
玄奘の遺骨は第二次世界大戦中に南京で発見され、
その頭骨が日本に持ち帰られて、
さいたま市岩槻区(元の岩槻市)にある、
慈恩寺に埋葬されており、
その一部は、ノーベル平和賞を受賞した 時の首相 佐藤栄作氏により、
台湾の玄奘寺(慈恩寺)に分骨された。


(岩槻区の慈恩寺)


(玄奘の遺骨が埋葬されている場所)
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釈迦が悟りを開いたブッダガヤ(インド紀行6)

2020年12月26日 04時20分31秒 | 海外旅行1
(釈迦が悟りを開いたブッダガヤ)

ブッダとは、悟りを開いた人をさす。
ガヤはヒンズー教の聖地を意味する。
つまり釈迦が悟りを開いた場所をさす。

この地には、美しいマハーボーディ寺院があり、
その裏手に釈迦が悟りを開いたという場所がある。
菩提樹の下である。


(菩提樹の木)

(インドの仏教徒の白装束)

現在の菩提樹は4代目といわれる。
この菩提樹は石の玉垣に囲まれ、
木の根元に、釈迦が座って瞑想をした。


(釈迦が座った台座)


(祈る修行僧)

インドは98%がヒンズー教で、
残り約2%が仏教徒と聞いていたが、
訪ねたときはAM8:30ころでも、
さすが仏教徒の聖地、大勢の白装束の信者が菩提樹を取り巻く
石垣の周りでお祈りをしていた。
考えてみたら総人口十億人の2%は2千万人であるから、
大勢の人がいるのもうなずける。

マハーボーディ寺院内には、
ガラス張りの箱の中に金色の釈迦が蓮台に座していた。
黄金で鋳造した(あるいは金箔かもしれない)
東大寺の仏像を小さくしたものを想像していただければよい。
その黄金の仏像の前で数人の僧侶が、
良く響き渡る声でお経を上げていたのが印象的であった。

(マハーボディ寺院1/工事中であった)


(マハーボディ寺院2/工事中であった)

建物の外、境内は広く石と芝生で仕切られた美しい庭園の様になっており、
あちこちで修行僧がお祈りをささげる姿を垣間見ることが出来た。

釈迦はここで悟りを開いたといわれる。
悟りとはどんなことであろうか?

いつ死んでも良い心構えが出来ていることであろうか?
もっと具体的にすると、
生きるうえで悔いの無いベストな生き方をし、
生きている間は自分がどんな状態であれ、
どこまでも他人を思いやることが出来、
死後は必ず極楽(または天国)に行けると信じることなのだろうか?


(寺院内のガラス内の金の釈迦像)


(釈迦像お前で祈る人達)

人は生まれると、
その瞬間から「死」に向かって歩いていく。
しかし、人によりその時期だけが明白でない。
時には生まれてすぐ亡くなる人、
生まれて数ヶ月で心臓を取り替えなければ生きて行けないことが判る人、
難病で死期を宣告された人、
100歳を越える人、人それぞれである。

しかし、人生は全うしなければならない。
釈迦は、8万四千通りの極楽への道筋を記し、
それをお経にした。
そのお経が中国に断片的にもたらされていたので、
不明な点が多く、
仏教を学んだ玄奘には理解できない部分があり、
どうしてもその不明な部分を解明したくなった。

中国の高僧を訪ね歩いても、
玄奘の持つ疑問を解決することが出来なかった。
玄奘は、法を犯して天竺へ渡り、
釈迦が悟りを開いたブッダガヤの菩提樹の下を訪れた。

また、釈迦が教えを説いた
「竹林精舎」「王舎城」
「霊鷲山」にも訪れ、自らの疑問に答えを出し、
657巻の経典を持ち帰った。
どうやらインドのボクの旅は、
西遊記の玄奘三蔵法師の足跡を訪ねる旅でもあった。


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インドの紅茶(インド紀行 5)

2020年12月19日 04時48分40秒 | 海外旅行1
(インドの紅茶)

インドの南端のスリランカをはじめ
インドの紅茶は有名である。
イギリス領であったインドからイギリスに紅茶は輸出され、
英国でティータイムが発達した。
イギリスではお茶(Tea)と言えば紅茶(red tea)を指し、
日本では緑茶(green tea)をさす。

British Airways(英国航空)に搭乗すると、
日本人に分かりやすいように、紅茶を緑茶と区別して、

「English tea or Japanese tea ?」
(英訳:英国のお茶にしますか?それとも日本茶にしますか?)

あるいは
「Red tea or Green tea ?」
(紅茶、緑茶、どちらにしますか?)

とCA(キャビンアテンダント)に英語で訊かれる。

違いは、紅茶は発酵させて作るのにたいして緑茶は蒸して作る。
インドの紅茶は産出する地名により名前がつけられているが、
香りが異なり人によって好き好きがある。

ダージリンはヒマラヤ山脈の麓にあるダージリン地方で取れる紅茶を指し、
ボクはこの紅茶はレモンティーにしていただくのが好きである。
もう一つはアッサム州で採れる紅茶をアッサムティーと呼び、
この紅茶は香りが強くミルクティーでいただくのが、
ボクは好きだ。
インドでは上質の紅茶はすべて英国に持っていかれるので、
残りもののくず紅茶をインド人は戴く。
お茶の入れ方を工夫していただくが、
これをチャイと呼んでいる。

インドを旅して、
最初にチャイをいただいたのが、
観光名所での土産物屋さんの中であった。
やや大振りのぐい飲み様の器にミルクティーが入っており、
少し甘味が入っていて生姜の味がして美味しい。
ちょうど喉が渇いていた時間帯でもあったので、
美味しくいただいた。
ぐい飲みのような、土器を返そうとすると差し上げますというので、
日本に持って帰り、お酒を飲むのにちょうど良いと思い、
ティッシュペーパーに包んでバッグに入れた。

プロフィールページにかいてあるが、
ボクは焼き物に大変興味がある。
蔵書の中で、一冊で一番高価な本が焼き物(陶器)の本であるし、
各窯場の焼き物(陶器)を収集する悪趣味も持っている。
お茶碗では高価すぎるし、置場所をとるので、
もっぱらぐい飲みを買い集めている。
それぞれ違った窯場のものが、70個前後あると思う。
また、外国では、陶器でなく磁器かボーン・チャイナになるが、
コーヒーカップかティーカップを買ってしまう癖がある。

高価なものは、
デンマークのロイヤル・コペンハーゲンのティーカップは数種類あるし、
イギリスのウェッジ・ウッドや

(ロイヤル・コペンハーゲン1)


(ロイヤル・コペンハーゲン2)

(ウェッジ・ウッド)

ドイツのマイセン、
オランダのデルフト焼き、
ハンガリーのヘレンドなどなど。
一客でうん万円するものばかり。
これらの器で紅茶をいただき、至福の時間を過ごす。

話がそれてしまった。
焼き物についてはまたの機会にお話したい。

元に戻して、
チャイは強い紅茶の香りのする牛乳であることを知ったのは、
インド旅行中、トイレ休憩のときであった。
インド人のトラック運転手が一休みするという、
いなかの茶店に寄った。


(いなかの茶店)

用を早めに済ませて茶店でうろうろしていたら、
厨房らしきところで小さな鍋に
牛乳をタップリ入れたところから見ることになった。
牛乳を火にかけ煮立てると、紅茶の葉をタップリ入れる。
その後お砂糖を適宜入れて終わり。
チャイの出来上がり。


(チャイ作りのインド人)

そこからが問題である。
そばにいた少年にあごをしゃくって、
土間に重ねて置いてあったドロだらけの土器
(ボクがぐい飲みと思った)を持ってこさせた。
汚れているので洗うのかと思ったら、
少年が汚れた指先で、その土器をこすり始めた。
土器からはドロやほこりがぱらぱら落ちていく。
これで清めたつもりなのだ。
15個ほどをお盆の上に並べると、
鍋に作ったチャイを次々と注いでいった。
注ぎ終わるや、少年が汚れた手で一個ずつお客に配っていく。
ボク達夫婦と若い添乗員さんとインド人のガイドがこれを見ていた。
添乗員さんがガイドになにやら聞いていた、
きっと(これ飲んでおなか壊さないだろうか?)
であったに違いない。

ガイドさんが首を縦に振るのが見えた。
添乗員さんが、
「チャイはいったん煮立ててありますので大丈夫です」と言う。
それを聞いてボクは飲んでしまったが、
カミさんは捨ててしまった。

さて、そのときも器は差し上げますと言う。
そんなに沢山いらないから返すと、
少年がそれをどんどん地面にたたきつけて壊して捨てている。
チャイの土器はそんな値打ちであったが、
この土器もやがて自然に帰る、
そんな仕組みになっているのかと感心した。

インドでは、排泄物も野外で、
これは鳥や動物の餌になり、あるいは植物の肥料になり、
やがて循環してまた人の役に立つことになっている。

ヒンズー教の教えの中に、
自然への回帰という教えでもあるのだろうか?
貧しい人たちが多いのに、盗まれないように鞄に気をつけろとか、
変な人に声をかけられたら注意してくれとか、
荷物を手から離さないようにとか、
治安にかかわる注意は何一つなかった。
インドでは子供のころから、
物乞いすることはあっても盗むことは恥辱とでも
教えられているのであろうか?

日本の中学までの義務教育がインドにあるというから、
貧しさから抜け出そうとする若い人たちが、
懸命に勉強し仕事をして、
近い将来のうちに、
ニートが多い日本を凌駕する日が
やってくるように思えてならない。


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ペナレスの沐浴(インド紀行4)

2020年12月12日 04時46分40秒 | 海外旅行1
(ぺナレスの沐浴)
ヒンヅー教の聖地ぺナレスで、ガンジス川の沐浴風景を見学した。
陽が昇る前の薄明かりの中を見学用の舟に乗る。
沐浴は、川岸で行われるので舟で流心まで出て岸のほうを見学する。

(沖に出た観光客の船)

ヒンヅー教では、死者は火葬され、
その灰をガンジス川に流されて終わる。
したがってインドには(ヒンヅー教では)お墓がない。
火葬場があるわけでなく、川べりに死者は運ばれてきて、
薪などを積み上げその上に死者を乗せて、
火をつけて燃やす、死者の体はのけぞり動き、
やがて灰になる。
そして灰はガンジス川に捨てられて終わる。


(煙立つ火葬のシーン/マイビデオから1)


(煙立つ火葬のシーン/マイビデオから2)

火葬のシーンにカメラを向けてはならないとされる。
沐浴シーンは、カメラに納めてよいが、
男性も女性も同じ場所で着替え、
インド更紗かと思われる薄い布地を身にまといガンジス川に入る。
日の出を狙ってお祈りをする。
合わせた両手を顔の中央にあて、
そのまま太陽に向かってお辞儀をする。
一回、二回、三回と礼をするとその都度、
体も顔も水にもぐってしまう。
何回繰り返すのか分からないが、
やがて金色の壷にガンジス川の水を汲んで終わる。


(ガンジス川の沐浴1)


(ガンジス川の沐浴2)


(三度水に潜って礼をする人達)


(一人で沐浴する、金色の壷にガンジスの水を汲み終わる。)

そうしている間に、真っ赤な太陽は昇り、
ガンジス川が赤く染まる。
舟に乗った観光客は、しきりにカメラのシャッターをきる。
団体を乗せた舟は、二人の屈強な男性がオールで漕いでいる。
その舟を狙って、商魂たくましい物売りがやってくる。

(観光客を乗せて漕ぐ二人)

精霊流しのように、ロウソクを立て火を灯したもの、
写真に撮ってはならない
死者の火葬シーンの絵葉書や
ヒンズー教の神シバ神像の人形もある。
ヒンズー教の聖地ぺナレス(インドの現地語でバナーラス)
の荘厳なシーンに圧倒されて、
ひたすら現世で生きている幸せに感謝し、
灰となって流される人の冥福を祈るばかりであった。


(真っ赤な太陽が昇る1)


(真っ赤な太陽が昇る2)


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