熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

JST北澤宏一理事長:「第四の価値」を目指して

2010年12月07日 | イノベーションと経営
   JST戦略的創造研究推進事業の特別シンポジウムが開かれ、iPS細胞の京大山中伸弥教授や超伝導の東工大細野秀雄教授が講演を行うなど、日本の科学技術の最高峰を集めて、「世界を魅せる日本の課題解決型基礎研究」について語られた。
   このシンポジウムの冒頭の基調講演を、標記演題で、JSTの北澤理事長が行い、当日配布された著書「科学技術は日本を救うのか」を読んで、非常に重要な問題提起をされていたので、私なりに、感じるところを論じてみたいと思う。

   北澤さんは、高温超電導セラミック研究で国際的に有名な元東大教授で、科学技術振興機構の理事長であるから、私のように経済や経営を学んできた文系とは違った発想で語り書かれているので、非常に興味深いのだが、共感するところは多い。
   特に、冒頭から、日本経済の成長が止まったのは、20年間も技術革新がうまく回らなかった、有効に起こってこなかったからであると論破し、更に、物質主義の時代に分かれを告げるべきだ、GDPが伸びなくても良いと言う議論に対して、GDPの伸び率が2%を切ると、生産の合理化分をカバー出来なくなり、失業者が増えるので、絶対経済成長は必要である。輸出拡大は望めないので、内需を増やすために、イノベーションを誘発して「大きなビジョンの下に初めて実現できる夢」とも言うべき「第4の価値」を作り出す「第4次産業」を興すべきだと、説いている。

   ユニークなのは、第4次産業と言う発想で、これまでの第3次産業までは、その作り出す価値は大きなビジョンがなくても生産出来るような個人の欲求を満たすものであったが、これでは不十分であって、もっと、人類にとって大切な、地球、環境、社会正義、安全、美しさ、幸せと言った社会的・精神的に価値のあるものを経済的にペイするように生み出せるような第4次の産業を起こすべきだと言うのである。
   尤も、この第3次産業までは、経済学的に理論的根拠があってそれなりの位置づけがあり、北澤さんの主張する産業が、第4次と呼べるのかどうかは大いに疑問だが、しかし、言わんとしていることは良く分かる。

   イノベーションを促進して、日本を活性化すると言うのは、科学技術を振興するJSTの当然のミッションであるが、パルミサーノ・レポートの経済成長の85%はイノベーションによるとした見解を基に、北澤理事長は、プロセス・イノベーションとプロダクト・イノベーションの螺旋ループ展開を説きながら経済成長論を展開している。
   イノベーションを技術革新と言う誤った日本語(むしろ新機軸の方がベター)で話を進めているので多少誤解を招くのだが、何故、技術革新が回らないのかは、技術革新投資が不足している為であり、それは、企業が海外企業のM&Aや生産拠点の海外移転などに投資して国内で新規技術の開発努力が低調であること、国民の資産が貯蓄に向かって政府に貸し出されて財政赤字を生み出し、消費や株式投資に回らないからだとしている。
   もう一つ面白い指摘は、毎年、貿易黒字が10兆円と海外からの利子・配当などの所得黒字が10兆円で合計20兆円の超過所得が円高を引き起こしており、世界を買い始めているとんでもない国になっていて、このカネを国内に持ち込んで第4次産業を起こすべしと言うのである。

   多少、コメントしたい気持ちはあるが、国家も企業もその成長は、悉く、イノベーションにあると主張し続けている私には、仰ることに殆ど異存はない。
   消費の低迷による巨大な需給ギャップの存在が、日本の経済不況とバブルの原因だと言われているが、私は、グローバル経済の大潮流に乗り遅れて、新しい経済産業社会にキャッチアップ出来なかった成熟した日本の体質に問題があったと思っているが、いずれにしろ、イノベーションと言うか、クリエイティブな革新なり新機軸を打ち出せなかったことが、日本の悲劇を生んだのだと思っている。
   イノベーションについては、日本の場合、なかったのではなく、生まれ続けてはいたけれど、その殆どが既存技術の深追いと言うか持続的イノベーションであって、革命的かつクリエイティブな破壊的イノベーションを生み出せずに、グローバル経済に大きなインパクトを与えられなかったし、世界をリード出来なかったと言う方が正確であろうと思う。

   第4の価値を目指して、イノベーションを追及して、新産業を興して仕事と雇用を生み出して日本経済を再生させると言う提言は、非常に時宜を得ている。
   しかし、基礎科学の充実によって生まれ出た科学的なシーズを、如何に、テクノロジーと直結させて製品化してマーケットに乗せてイノベーションとして開花させて行くのかは、また、別問題で、死の海やダーウインの谷など大きな試練を乗り越えなければならない。
   日本は、目的や使命がはっきりした問題解決や改革を得意としているのであるから、政府の支援策も、エコ減税やエコ補助金と言った既存産業分野のサポートだけではダメで、同じグリーン革命志向政策でも、ヨーロッパに遅れじと、小宮山先生が説くような課題先進国としてのブレイクスルーを目指した根本的な問題解決への高度な目標設定と積極的な支援が必要であろう。
   グリーン革命を目指したオバマ政権も、経済の悪化と保守勢力の台頭で、COP16でも大きく後退してしまって益々宇宙船地球号を窮地に追い込むことになってしまっているが、今こそ、他国がどうだと言う前に、日本が、なりふり構わずに率先して、北澤理事長が説くように第4の価値を創造する第4次産業国家を目指すべきであろうと思う。
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中国は民主主義国家になるのであろうか~21世紀情報社会と民主主義

2010年12月05日 | 政治・経済・社会
   「グリーン革命」の最後で、フリードマンは、自由主義の民主国家であるアメリカでは、人類のために必須であり分かり切ったグリーン革命が、多くの抵抗にあって遅々として進まないのに痺れを切らして、「一日だけ中国になる(でも二日はだめ)」と言う章を設けて、
   中国の統治体制は、あらゆる面でアメリカの体制に劣っていると、私は思う――たった一つの点だけを除いて。それは、中国の今の世代の指導者たちが、やろうと思えば、旧来の産業や、しつっこく訴えかける特定の利権や、足を引っ張ろうとする官僚や、有権者の反発と言う心配事などを、すべて切り捨て、トップダウンで大々的な変化を命じられることだ。と書いている。
   この日、丁度、雨風の激しい時間が過ぎたかと思ったら強風が吹き荒れた日、東大の安田講堂で開かれた「21世紀情報社会と民主主義――日米欧と中国の今後―」を聴講していて、中国の民主主義や情報規制などの問題が議論されていたので、期せずして、中国の統治体制を考えてしまった。

   途中から参加したので、ミンシン・ペイ教授の基調講演をミスったので、シンポジウムの全体像は不明だが、中国が法治国家であるのかどうかと言う問題で、東大長谷部恭男教授が、中国には法律があるが、一党独裁の共産党を支配する法律はなく、共産党最高指導部そのものが法を制定支配していると言うような趣旨のことを説明した。
   実質的には、法治国家とは言えないし、共産党最高指導部の最重要課題は、自己保身と言うことであろうから、当然、民主主義の意識などはないと言うことである。
   私の勝手な解釈だが、共産党そのものが法律であるから、フリードマンの言うように、自分たちで決定すれば何でもできると言うことであろうか。

   プラトンの哲人政治論を多少こじつけて解釈すれば、現在の中国人社会は衆寓の寄り集まりであって、哲人たる共産党最高指導部に権力を与えて統治されているので、私心なき理想的な政治が行われている(?)と言うことかも知れない。
   しかし、悪法も法なりと言って毒杯を仰いで死んで行った師のソクラテスのギリシャにさえも、はるかに劣ると言うことである。

   私などは、民主的な日本に生活していて、とにかく、時空を超えて、本当に幸せだと思っているが、地球温暖化や環境破壊などの宇宙船地球号の危機的な状況については、フリードマンが心配するように、日米欧の民主主義制度が良いのかどうか、すなわち、民主主義的な手法や手段の遂行によって解決されるのかどうか疑問であって、煮えがえるの状態になって時間切れとなり、人類が滅びてしまうのではないかと心配している。
   科学的には、既にチッピングポイントを過ぎてしまっていると言う議論もあるのだが、毛頭、中国が正しい統治を行うとも思ってもいないし、民主主義が不十分だと言うつもりもないが、場合によっては、プラトンの説く哲人政治による統治がなければ、人類の明るい未来を保証できなくなってしまったと言う時点に差し掛かったのではないかと感じて、複雑な気持ちである。

   中国の民主化について、ペイ教授は、今後、中国社会の成長発展によって、中産階級が増加し、高等教育を受けた人間が増加して行くので、民主化が進んで行くと説いたが、ハーバード大イアン・ブルマ教授は、1930年代において、日本とドイツが最も中産階級が台頭した国だったがファッシズムに走ったように何の保障にもならないと反論し、長谷部教授も、現在の共産党支配体制が大きく変わることはないと否定的であった。
   この議論については、これまでの歴史においても、豊かになればなるほど、人間は保守的になり既存の特権や地位に固守する傾向が強くなるであろうし、中国のように、格差社会で、巨大なヒンターランドを抱えた社会では、容易に変革は難しいであろうが、既に、ブルマ教授が説くように、インターネット社会の発展で、スキャンダル暴露的な報道の増加などでポピュリズムが中国社会も同様に揺さぶり始めており、とにかく、一枚岩を誇る(?)鉄壁の共産中国でも、良くも悪くも、グローバリズムの進展が巻き起こす巨大な潮流には、抗しきれないであろうと思う。

   ところで、これも21世紀情報社会の大きな特質だが、ウイキリークスの報道で、嘘か本当かは別にして、中国高官の発言とかで、生々しい隣国に対する見解や情報がリークしたり、グーグルのハッカー攻撃に最高指導部の命令があったとか報道され始めるなどを見ても、少しずつ中国の実像が見え始めて来ている。
   何かの拍子に、世界的な経済社会情勢が大きく変われば、今日の情報革命社会では、瞬時にグローバルに伝播して影響を与え、場合によっては、巨大な革命的なインパクトを与えるのであるから、この潮流からフリーである国家や社会の存立など有り得ないので、中国が日欧米の政治経済社会システムへの接近は、当然有り得る話であり、逆に、発展途上国から、一気にテイクオフした中国の政治経済社会システムが、アジア・アフリカ・中南米などの新興国・発展途上国への影響などを通じて、民主主義そのものを変質させることもあるのではないかと思ったりもしている。
   中国が分裂なり空中分解しなければ、問題は、アメリカの覇権なり存在が、中国へのカウンターベイリング・パワーとして、どこまで維持できるかに掛かっているような気がしている。
   
(追記)当日の東大安田講堂前の銀杏並木
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本好きの電子書籍時代の到来への思い

2010年12月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ソニーからのメルマガで、12月10に、日本でも、電子書籍Readerが発売されると言うことを知った。
   アメリカでは、アマゾンのKindleに先駆けて発売されていたのだが、日本でも、何種類かの電子書籍が発売されるなど、愈々、電子書籍時代の到来のようである。
   クルーグマンが、来日した時に、Kindleを必需品だと語っていたので、便利だろうとは思ったのだが、いつでも好きな時に読みたい本を読めると言う極めて便利なものだが、パソコン依存の激しい私が、携帯電話さえ持たないのであるから、今のところ、それ程、魅力的だとは思っていない。

   歳を考えれば、もう、死ぬまでに読める本の数は、極めて限られているのだが、性懲りもなく、暇な時間が出来れば、必ず書店に足を運んで、若い時と同じように本を買って来ては、楽しんでいる。
   書棚は勿論、私の小さな書斎の応接セットの上や床さえも本の置き場がなくなってしまって、最近では、プリンターの上にまで本を積み上げているので、資料などをコピーする時には、その度毎に、それらの本を移動しなければならない。
   運動不足なので、それも良い運動になると言い訳をしているのだが、最近では、少し反省して、本の取得を抑えている。
   
   ところで、電子書籍だが、これに切り替えれば、膨大な場所を取って扱いに苦慮する紙媒体の書籍から解放されるのだが、如何せん、長年の習慣と言うか生活に染みついた思いが強くて、洞穴のような書斎の片隅に閉じ籠りながらも、この本に囲まれて過ごす、何となく落ち着いたしっくりした雰囲気からは、そう簡単に解放されそうにはなさそうである。
   読まなくても、本の背表紙を眺めながら、親しい友人に会ったり、懐かしい知人に久しぶりに会ったりしたような気持になって落ち着くと言うこともあれば、ああ、まだ、このあたりは勉強不足だから頑張ろうとかとか言った気持になるなど、その時の気分によっては区々だが、色々な思いを誘ってくれるのである。
   この思いは、私が育てている庭の花木を眺める時にも感じることがある。

   私は、昔から、通勤途次など電車の中でも必ず本を読んでいるので、外出時には、いつも何冊かの本を携帯している。
   本にもよるが、大体、ここぞと思ったところには、鉛筆で傍線を引いたり、ポストイットを張って、その後の参考にしているので、これは、今のところ電子辞書ではダメであり、それに、このブログなどで専門的なトピックスの記事を書く時には、何冊かの本を並行してオープンして使っているので、電子辞書では無理である。
   新聞などで読むニュース性の強い時限的な記事や文章は、結構、インターネットのお世話になることが多いのだが、知識情報の広がりや深さなど、質が問題になる時には、やはり、書籍の方が便利なような気がしている。

   この電子辞書だが、レコードや写真と同じような道を辿って行くのだろうと思っている。
   私の場合、まだ、主にクラシック音楽だが沢山のレコードを持っており、CD,レーザーディスク、MD,DVDへと移って来たが、まだ、iPodは持っていない。
   写真は、歳の所為か、銀塩フィルム用カメラは、10台以上も持っているのだが、これは、殆ど、生産消費者よろしく総て自分で処理できるのでデジカメに移ってしまっている。
   いずれにしろ、レコードも写真も、様変わりで昔の形態を殆どとどめない程変わってしまっている。
   印刷物も、文字情報の伝播手段が、石や木などから、紙に移り、グーテンベルグの印刷術の発展で、一挙に書籍媒体となって、人類の文化文明を至高の高みにまで導いてくれたが、それが、今や、デジタル化して電子書籍と言う革命的な媒体に変わってしまった。
   自分自身でも、簡単に、本を出版できるようになってしまったのである。

   私が気になるのは、電子書籍は、イニシャル・コストは掛かるけれど、紙の本と違って、一旦デジタル化してインターネットに乗せれば、殆どコストがゼロになるし、出版されている本をデジタル化するのなら、これよりはるかにコストは掛からなくなるので、既存の本との競合なり価格体系はどうなるのかと言うことである。
   現在、ネット上のデジタル新聞や雑誌などが、一部有料化して収入を得るビジネス・モデルを取り始めているが、グーグルが先鞭をつけるなど無料化の流れが常態となってしまっており、その上、いくらでも代替手段があり、新規参入が激しいので、ニューヨーク・タイムズが失敗したように、永続する筈がない。
   そうなれば、知や美の精華であり叡智の結晶である筈の著作物の価値がどのように評価され、扱われるのか、著作権の位置づけそのものが大きくクローズアップされて来るのだが、場合によっては、勿論、再販制度なども宙に浮いてしまうであろうし、学術や芸術の創造活動が危機的な状況に陥る心配も出てくる。

   新聞や週刊誌などの消滅は、時間の問題だと言われているのだが、そうなると、書籍のデジタル化によって、たとえ、紙媒体の本も、消滅は免れたとしても、殆ど電子書籍に駆逐されてしまうであろう。
   私の関心事は、デジタル化の進行によって、これまでと同様に、質の高い出版文化が維持されるのかどうかと言うことであるが、まあ、私自身は、このまま本を愛しながら、本に囲まれて生を終えるであろうから、私の心配することではないと言うことかも知れないと思っている。
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トーマス・フリードマン著「グリーン革命」(1)~原理主義化するイスラム

2010年12月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   遅ればせながら、積読のフリードマンの「グリーン革命」を読み始めた。
   グリーン革命については、色々な切り口から議論されているのだが、大方は、地球温暖化など宇宙船地球号の危機と言う意識から入ることが多いように思うが、フリードマンは、デイビッド・ロスコフの言を引いて、アメリカを最もグリーンな国にするのは、無私無欲の慈善行為でも、単純素朴な道義ばかりを追求することではなく、今やこれが国家安全保障と経済的利害の中心だとして、グリーンとは、電力を生み出す単なる方式ではなく、国力を生み出す新方式であり、未来を明るくする方法なのだと言う。

   先の著書「フラット化する世界」で論じた、テクノロジー革命が世界中の経済の競走場をフラットにすることによって生まれたグローバリゼーションの進展が、経済、政治、軍事、社会などの問題に大きな衝撃を与えたのだが、更に、温暖化と人口増加が我々の生活に根本的な影響を及ぼしていることも無視できなくなった。
   この二つを分析に取り入れると、温暖化、フラット化、人口過密化が重なっていることが、今日の世界を形作るうえで、最も重要な力学となっているとして、この結果、今現在、急速に深刻化しているとして、5つの問題を取り上げて詳細に検討し、過去から借りた時間や財産を食いつぶしてきた人類の贖罪を如何に清算して明るい未来を生み出すべきなのかを論じている。
   その5つの問題とは、★供給が細りつつあるエネルギーや天然資源への需要の増大、★産油国と石油独裁者への莫大な富の集中、★破壊的な天候異変、★電力を持つものと持たざるものを二分して起きている貧困、★動植物が記録的速さで絶滅し、生物多様性の破壊が急速に進んでいること、である。

   このフリードマンが指摘する5つの問題点の中で、フリードマンらしいと言うか、私が一番興味を持ったのは、「産油国と石油独裁者への莫大な富の集中」であったので、まず、第4章の「独裁者を満タンにしつづけるのか?――石油政治」について、考えてみたい。

   フリードマンの意識の中には、膨大な資金を投入して産油国から買い取った石油を湯水のように使って垂れ流してきたアメリカ人の石油中毒が、気候の仕組みだけではなく、4つの基本的な面で、国際社会の仕組みを根本的に変えてしまったと言う強い罪の意識がある。
   まず、エネルギー購入を通じて、イスラム世界の、異文化に不寛容で、現代的ではない、反欧米、反女権、反多元論的な性向を強めたこと、
   第二に、ロシア、中南米で、折角ベルリンの壁崩壊と共産主義の終焉で進み始めていた民主主義の流れを逆行させる資金源を提供したこと、
   第三に、グローバルな石油の奪い合いが煽られて、アメリカ政府がサウジアラビアの民主化弾圧への口出しを避けたり、中国のスーダンの残虐な独裁政権との外交促進など、国際政治に弊害が出て来ていること、
   第四に、テロとの戦いの敵と味方の両方に資金を与えているのだが、ぼろ儲けした湾岸の保守的なイスラム政府がばら撒いた資金が、アルカイダ、ハマス、ヒズボラ、イスラム聖戦機構などのテロ組織に間接的に流れている。

   アメリカの石油中毒が、地球温暖化を促進し、石油独裁者の勢いを強め、綺麗な空気を汚し、民主主義の勢いを弱め、過激なテロリストを富ませる。と言う訳であるから、ブッシュ政権の悪行の数々への反発は当然厳しい。
   石油利権塗れのブッシュは、京都議定書を完全に無視して地球温暖化を推し進めて地球環境を益々悪化させたのみならず、石油価格を高騰させるような政策ばかり進めて、世界中の石油独裁者にぼろ儲けさせて、更に、テロリストたちへの資金源を拡大させておきながら、逆に、テロ撲滅戦争を国是として最重要戦略として推し進めていたのであるから、分裂症の極みと言うべきか、信じられないようなことが行われて来たのである。

   しかし、この章では、ロシアや南米にも触れているが、殆どは、現在のイスラム教の問題点を掘り下げて、サウジアラビアの宗教政策の現状やアルカイダなどのテロリストとのリンクなどを究明していて、イスラム問題が那辺にあるのかを語っていて、非常に興味深い。
   サウジアラビアとアルカイダなどテロ組織とのリンクは、これまでにもメディアで報道されていたが、実際的にも、サウジアラビアのサウド王家とアルカイダの教義との間には大きな違いがなく、信奉しているのは、サラフィー主義で、初期イスラムの原則や精神の回復を目指したムハンマドの時代に実践されていた禁欲的な砂漠のイスラム教だと言う。
   基盤が現代以前のままで発展を拒むため、この現代的なものを受け入れない原理主義的な教義が、イスラム過激派に利用されて、17世紀のイスラム支配地域を回復することを目標とする暴力的な聖戦を、思想面で正当化し、アルカイダなどのイスラム過激派を勢い付かせている。

   このサウド王家も、最近では、イスラム過激派から距離を置き始めて、それに対抗する方策を講じているようだが、原理主義的な教義への固守はそのままで、宗教色の強い派閥に力を与え、ムッタウ(宗教警察)が圧倒的な権力を握ったために、国内で最低限度の宗教の自由をなくすだけでは満足せず、金に飽かせて、イスラム世界にそれを広め始めたと言う。
   イスラム文化の黄金時代には傍流であった砂漠のイスラムである石油によって富を得たサウジアラビアが、進歩的な都会のイスラムを攻撃して、衣服や素肌で個性を主張し、異性と戯れたり誘ったりする楽しみを消し去って、イスラム文化文明の華や精華を圧殺していると言うのである。

   イタリア・ルネサンスを誘発した大きな力は、ギリシャ文化文明を継承し、更に、高度に花開いたイスラム文化文明の精華をイタリアに伝播したイスラムの学者や芸術家や技術者であり、このイスラムの文化的芸術的な貢献がなければ、現在の西欧文化文明が、これほど豊かになったか疑問であるほど、イスラムの世界歴史に与えた影響は大きい。
   したがって、私は、アルカイダなどのテロリストの暗躍よりも、この都会の現代的ではるかにリベラルで進歩的なイスラムの公序良俗と言うか文化生活や経済社会の営みが圧殺される方が恐ろしいと思っている。

   余談だが、もう随分前になるが、私は何度かサウジアラビアを訪問したが、当時、パートナーの自宅には、立派なバーカウンターがあって色々な酒は飲み放題であったし、居る筈のないアル中もいたし、家の中では、婦人たちは胸の空いた艶やかなフランスモードの洋服を着て私たちとの会話に加わっていた。
   それに、一寸文化が違うかも知れないが、トルコのイスタンブールでは、凄いベリーダンスを鑑賞した。
   とにかく、私には、あのイスラムの細密画の魅力もそうだが、イスラムは、エロチックなアラビアンナイトの世界でもあり、文化文明の素晴らしい宝庫でもあると言う印象が強い。
   
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新宿御苑は、今や紅葉の真っ盛り

2010年12月01日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   もみじの紅葉が、真っ盛りの新宿御苑を訪れた。
   時間が少し遅かったので、日が陰り始めて居て、太陽に映える逆光の美しい紅葉を十分には楽しめなかったが、新宿門の入り口の大銀杏の鮮やかな黄色に感激しながら入場すると、真っ直ぐに伸びる管理事務所の方へ向かう遊歩道の、黄色い大銀杏をバックに、もみじや落葉樹の様々に変化する赤や燈や黄色の錦色のグラデュエーションの輝きが目に飛び込む。

   私は、躊躇うことなく、右に折れて、日本庭園に向かった。
   茶室楽羽亭を越えて、上の池を見下ろせる高台に出て、周りを展望するのを常としていて、ここから、新宿御苑のその時の季節感や自然の営みを感じるのであるが、紅葉の時もそうである。
   まず、展望所の周りに、もみじが数株植わっていて、今最盛期で、実に美しく真っ赤に萌えていて、逆光に輝いている。
   このもみじの赤は、濃赤色ではなく、やや橙色がかっていてグラデュエーションには欠けるが、木陰に入って、木の間から池を望むと、遠くのススキや淡い緑色の柳の木などが白く浮かび上がって美しい。
   この口絵写真は、手前のもみじの間から、やや、千駄ヶ谷門の方を望んだ池畔の風景だが、人が多くて、人物のない写真を撮るのに苦労するのだが、時々、鴨が行き来するのんびりとした風景を眺めながら、しばしの休息を楽しむのも悪くはない。

   この上の池の周りには、比較的沢山の木が植えられていて、綺麗に剪定された松の木や玉造のつげなどに象徴されるように、典型的な日本庭園の風情が漂っているのだが、中国風の旧御涼亭のある方に出ると、大分、オープンな空間が広がる。
   やや、茶室翔天亭に近づいた林間の外れにも数株のもみじが植えられていて、イロハモミジであろうか、ここのもみじの方が、一本の木の紅葉が、枝の位置によって、緑から黄、橙、赤と徐々に色の変化を現出していて、正に錦織りで美しい。
   ただ、惜しむらくは、傷のない綺麗な手形のような葉が殆どなくて、クローズアップで写真が撮れないのが残念である。

   この新宿御苑には、ところどころに、巨大な銀杏が植わっていて、どの木も、大体今が最盛期で、実に美しく、背が高いので、あっちこっちから遠望できて、その木を目指して歩いて行こうと言う気にさせてくれる。
   中の池へ向かう途中の林の中にも巨大な銀杏の木があり、この方は、ぼつぼつ散り始めているが、上を見上げる真っ黒な幹から複雑に沢山の枝が出ていて、すっくと伸びた樅状の木に似つかわしい雰囲気でないのが面白い。

   イギリス風景式庭園のオープンな空間にも、1本、鮮やかに黄色に色づいた銀杏の大木があり、東芝のコマーシャルの巨木のように、真っ黄色の独特な空間を作り出していて、非常に面白い。
   東大の銀杏並木のように一列に並んだ真っ黄色の空間も魅力的だが、単植の銀杏の巨木の孤高な風情も別な趣があって良い。

   東京には、六義園や後楽園など、紅葉の美しい公園はたくさんあるので、歩けばもっと秋の風景を楽しめるのではあろうが、私の場合には、一寸した雰囲気を味わえれば良いので、この新宿御苑にも、ほんの小一時間居ただけで、外に出た。
   京都や奈良だと、あまり有名ではない鄙びた古寺などを訪れれば、心行くまで気の遠くなるような懐かしい秋の気配を満喫できるのだが、東京近辺の場合には、私の経験だけだが、気候の所為でもあろうが、紅葉の鮮やかさや見事さには、幾分欠けるし、それに、どこも人出が多い。

   ところで、自然を愛して自然との共生をこよなく愛する日本人なのだが、この新宿御苑を歩いていると、外国人客の方が目につく。
   欧米に生活していて、欧米人の森林好きは良く知っているのだが、しかし、何となく、今の多くの日本の人々には、私のような暇人は少なくなって、ゆっくりと自然と対話しながら季節の移り変わりを感じ、しみじみとした時間を楽しむ余裕がなくなっているのかも知れないと思ったりしている。
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