熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言の会

2011年11月28日 | 能・狂言
   先月、茂山会の狂言を見るために、初めて、国立能楽堂を訪れたのだが、今回も、狂言単独の舞台が公演されると言うことで、興味を感じて出かけた。
   狂言では、狂言師が幼少の砌、初舞台を踏み最初に拓く演目が、「靱猿」と言うことで、私の場合、狂言鑑賞には、全くの初歩でもあり、千五郎一門の舞台なので、非常に期待できそうだったし、それに、昨年亡くなった万之介に代わって万作が演じると言う「酢薑」や、祇園祭の出し物が主題だと言う「鬮罪人」も面白そうで、楽しみであった。
   
   「靱猿」は、遠国の大名が、遊山に出かけた途中で、猿引に出会い、その猿の毛並みに惚れて、矢を入れる靱を猿の皮で飾りたいと思ったので、強引に皮を貸せと猿引に強要するのだが、皮を剥げば猿が死ぬと断る。
   大名が矢を構えて脅すので仕方なく同意して、猿に言い聞かせて鞭を振り上げるのだが、その鞭を奪った猿が、船を漕ぐ芸を始めるので、猿引は可哀そうになって号泣する。
   大名も猿を哀れに思って思い止まると、猿引は喜んで、猿歌を謡って猿に舞を舞わせる。
   大名は、舞う猿の可愛らしさに引かれて、猿引に褒美を与えて、自分も、猿の舞を真似て一緒に舞う。

   こんな話だが、居丈高で傍若無人に振る舞っていた大名が、次第に、情愛に触れて心を入れ替え、猿の可愛いしぐさに惚れ込んで、無邪気になって自ら踊り出すと言う天真爛漫の人の良さと、猿引の猿への愛情が滲み出ていて、それに、猿を演じる子役が実に可愛くて、和ませてくれる。
   太郎冠者は、この猿引と大名の間を右往左往して取り持つ役割なのだが、中々、愛嬌があって面白い。
   大名を当主千五郎、猿引をその弟の七五三、太郎冠者は千五郎の長男正邦、猿を正邦の弟茂の長女莢が演じていて、親子兄弟3代の舞台である。

   猿を演じる莢ちゃんが女の子であることもあって、実に優しい仕種で、寝転がったり、ノミ取りで手足を掻いたり、それに、船漕ぎや後半の猿歌に合わせて踊る舞などは、どちらと言えば、多少たどたどしい感じなのだが、それが、実に、可愛らしさと健気さを増幅させて、ほろりとさせる。
   大音声で大見得を切る千五郎の大名の迫力と居丈高さは流石であるが、その千五郎が、猿引の猿への情愛に絆されたと思うと、今度は、幼稚園の児童よろしく、不器用な仕種で、小猿を真似て、床を転がったり遊戯(?)をする可笑しさ。とにかく、変わり身の鮮やかさが、流れるようで素晴らしい。
   その分、やや、スマートで灰汁のない七五三の猿引の実直さ真面目さは秀逸で、その対照の妙が面白い。
   正邦の太郎冠者は、非常にオーソドックスな感じで、シチュエーションの変化を微妙に感じながら、二人の間を上手く取り持っている。
   普通は、子供が猿になると親が猿引になり、祖父が大名になると言うケースが多いようだが、やはり、親子での協演の心の通いや、猿引よりは、大名の方が、芸の習熟度と年季が要求されると言うことからであろうか。

   次の「酢薑」だが、摂津の国の薑売り(石田幸雄)と、和泉の国の酢売り(万作)とが、都で出会って売り場争いをして、お互いに、夫々の由緒正しさを、洒落や言葉遊びを入れて言い争うと言う狂言だが、とにかく、系図に天皇が飛び出すなど話はあっちこっちに飛んで展開するのだが、殆ど、ふたりの言葉、すなわち、台詞の応酬なので、狂言初歩の私には、よく聞き取れないところがあって、まだ、その良さが分からず仕舞いであった。
   素囃子の「中ノ舞」は、囃子方の演奏だけなのだが、クラシック音楽を聞くと言った調子には行かず、私には、胡蝶の精や西王母の仙女だと言われても、良く分からなかった。

   最後の「鬮罪人」は、非常に面白かった。
   大蔵宗家の吉次郎が、シテ/太郎冠者を、彌太郎が、アド/主を演じ、善竹十郎他が立衆/客を演じる。
   主が祇園会の世話役になったので、祭礼の行列に出す山の趣向を決めるために、町衆を呼んで相談するのだが、色々な趣向が出るけれど、話の中に割り込んで来て、悉く、太郎冠者が潰してしまう。
   逆に、案を聞かれた太郎冠者が、山と広い河原を作って、地獄で鬼が罪人を責める趣向を提案し、主は反対するのだが、決まってしまう。
   主が、罪人のなり手は誰もいないと言うので、鬮で決めることにするのだが、運悪く、主が罪人になり、太郎冠者が鬼になる。
   早速、稽古が始まるのだが、日頃の憂さ晴らしにと、太郎冠者が、調子に乗って、主を杖で打ち据える。
   結局、怒った主が、逃げる太郎冠者を追いかけて幕となる。

   睨まれれば、袖で顔を隠して逃げ回る小心者の太郎冠者が、知恵を活かして、主に一矢報いると言うところだが、何かと言うと口を挟む太郎冠者を、あっちへ行っておれと主が怒って座を外させるのだが、遠くで聞いていて、何かと言うと即座にしゃしゃり出て決まりかけた話を壊してしまう。
   イライラして、主は睨みつけ遠ざけるのだが、「言わずばなるまい」としゃしゃり出る太郎冠者との、ミスマッチの人間模様が、二人のキャラクターや容貌の妙もあるのだが、兄弟とは思えない程対照的で、非常に面白い。
   
   これまで、シェイクスピアやその他の多くの喜劇を見て来たつもりだが、やはり、狂言の、非常に短時間の中に凝縮して、殆ど、舞台装置や道具類を使わずに、研ぎ澄まされた台詞と仕種だけで、人間の心の奥底に潜む笑いと諧謔、ウイットを浮き上がらせる芸の素晴らしさは、短歌や俳句にも通じる良質な芸術だと言うことであろうか。
   いずれにしろ、楽しむためにも、もっともっと、鑑賞の機会を重ねて勉強すべきだと言うのが、今の心境である。
   
   
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