
昼の部は、最後に福助と染五郎による「俄獅子」があるけれど、実質は「新薄雪物語」の重厚な舞台で終始する。
鎌倉将軍家の時代が舞台で、良く知っているのは名刀正宗の名前くらいで、その息子刀鍛冶団九郎(段四郎)が、大悪人秋月大膳(富十郎)の手下として、奉納された競争相手来国行(家橘)の刀に将軍調伏の為に鑢で鑢目を入れる。
自分の押した正宗ではなく国行が推薦されたのに恨みを持ち、奉納者の園部兵衛(幸四郎)を、その娘・薄雪姫(芝雀)をもものに出来ないので、貶めるべく大膳が企んだ罠だが、その調伏の罪を、薄雪姫と恋人園部左衛門(錦之助)に擦り付ける。
詮議に来た葛城民部(富十郎)の温情ある裁きにより、兵衛と伊賀守(吉右衛門)は、互いに交換して預かった若い子供たちの命を助ける為に逃がして、その責任を取るべく陰腹を切って、重体の身体をおして首桶を抱えて六波羅に向かう。
250年以上も前に舞台にかけられた芝居なので、随所に現代感覚では理解に苦しむシーンがあって、見せ場の多い歌舞伎なのだが、やはり、芝居と言う感じで観てしまう。
大体、子供の不始末、それも、清水寺への刀奉納の場で、恋心を語って結婚を約束したじゃらじゃらした二人の為に、重臣である筈の立派な武士が、代わりに腹を切ると言う設定自体が理解の域を超えている。
夜這いの誘いの為に薄雪姫が書いた判じ物のような手紙、出刃包丁の絵の下に心と言う字を書いて、「忍」を表して偲んで来いと読ませると言う、この幼稚な手紙を左衛門が落として、大膳に拾われて訴えられるのが悲劇の発端である。
私などは、どうしても、シェイクスピア戯曲のように、多少時空のずれがあっても理屈に合った欧米流の芝居に慣れているので、古典ものの歌舞伎を観る時には、特別な心の準備と意識の切り替えが必要となり、身構えて観ている。
序幕の「新清水花見の場」だが、清水の舞台と本堂、それに舞台上手にあしらった音羽の滝など、爛漫に咲き誇る桜をバックに華やかで豪華絢爛たる美しい舞台が設定されていて、薄雪姫一行の綺麗どころが揃うのだから、最初は目を見張るように美しいのだが、第二幕、第三幕と舞台後半に進むに連れて、暗く陰惨になってくる。
ところで、最初のところで、左衛門が登場するのに、腰元たちが当時珍しかった遠眼鏡見たり、秋月大膳の登場の派手さや、恋を取り持った左衛門の奴妻平(染五郎)と水奴たちとが非常に趣向を凝らした華麗な立ち回りを演じるなど、視覚的にも見せ場があって、結構楽しい舞台となっている。
ところで、第二幕の「寺崎邸詮議の場」は、左衛門が、約束どおりに薄雪姫の父寺崎伊賀守の館に偲んでくるところから始まり、二人のつかの間の逢瀬が中断され、上使の民部、秋月大学(彦三郎)、園部兵衛が登場して、濡れ衣を着せられた二人の詮議が始まる。
序幕はお伽話のような虚構の物語だが、このあたりからは、左衛門と薄雪姫が途轍もない重罪人としての嫌疑がかかって詮議されると言う設定となり、忠君愛国、封建武士道の精神が動き出し、夫々の登場人物の運命を締め上げて行く。
錦之助の優男風の若殿の清々しさと芝雀の初々しくて一途な薄雪姫が、実に爽やかで素晴らしく、陰鬱で暗くて重厚な舞台に、一服の清涼剤のような雰囲気を醸し出していて中々良い。
将軍調伏の鑢目を入れたかどうかを説明できる国行が、殺害されてて戸板で登場するが、民部は手裏剣による致命傷を見て大膳の仕業と悟って、二人に温情を示すが、どこの世も同じで、「悪い奴ほど良く眠る」で権力に居る大悪には手が付けられず、両方の親に子供の詮議を託す。結局、罪人として扱う以外に道は残されていない。
威風堂々、威儀を正した富十郎の上使民部の威厳に呼応するかのように、兵衛と伊賀守も、幸四郎・吉右衛門兄弟の熱演であるから、ハイテンションで、正に火花が散るような舞台だが、フッと詰らない封建時代の運命の揺らめきによる事件に過ぎないのにと思うと、急に隙間風が吹いてきた。
何故だか分からないが、当時の高級官僚は、これだけの威厳と高潔な使命感をもって命を全うしていたのだと感に堪えなくなってしまった。
最近、幸四郎と吉右衛門との共演が多くなって来ているが、幸四郎の方は、理知的に頭で考えながらじっくりと噛み締めながら役作りをして芸を展開している感じであり、一方、吉右衛門は、十分に考え抜いた上で、自分のパーソナリティを前面に押し出して、非常に自然体で演じている感じがして、その対照の妙が面白い。
この舞台で、感激したのは、兵衛の奥方梅の方を演じた芝翫で、風格のある演技のみならず、夫兵衛に命じられて、「夫の命令が聞けないのか。笑え。」と言われて、夫が陰腹で腹を切って切腹しているのに笑わなければならない「三人笑」の走りの演技が秀逸で、あれだけ僅かな瞬間に悲喜こもごもと言うか苦衷を滲ませながら真に迫った泣き笑いの表情を見せるのなどは神業だとしか思えないと思って見ていた。
それに、伊賀守の奥方松ヶ枝を演じた魁春の風格のある堂々とした姿を仰ぎ見て、その芸の伸張の著しさを感じた。押しも押されもしない重厚な女方役者になりきったのである。
この舞台だが、二人の仲を取り持つ恋人同士の腰元籬の福助と奴妻平の染五郎や、団九郎の段四郎、秋月大学の彦三郎等脇役にも人を得て、勿体ないほど豪華な舞台になっている。
鎌倉将軍家の時代が舞台で、良く知っているのは名刀正宗の名前くらいで、その息子刀鍛冶団九郎(段四郎)が、大悪人秋月大膳(富十郎)の手下として、奉納された競争相手来国行(家橘)の刀に将軍調伏の為に鑢で鑢目を入れる。
自分の押した正宗ではなく国行が推薦されたのに恨みを持ち、奉納者の園部兵衛(幸四郎)を、その娘・薄雪姫(芝雀)をもものに出来ないので、貶めるべく大膳が企んだ罠だが、その調伏の罪を、薄雪姫と恋人園部左衛門(錦之助)に擦り付ける。
詮議に来た葛城民部(富十郎)の温情ある裁きにより、兵衛と伊賀守(吉右衛門)は、互いに交換して預かった若い子供たちの命を助ける為に逃がして、その責任を取るべく陰腹を切って、重体の身体をおして首桶を抱えて六波羅に向かう。
250年以上も前に舞台にかけられた芝居なので、随所に現代感覚では理解に苦しむシーンがあって、見せ場の多い歌舞伎なのだが、やはり、芝居と言う感じで観てしまう。
大体、子供の不始末、それも、清水寺への刀奉納の場で、恋心を語って結婚を約束したじゃらじゃらした二人の為に、重臣である筈の立派な武士が、代わりに腹を切ると言う設定自体が理解の域を超えている。
夜這いの誘いの為に薄雪姫が書いた判じ物のような手紙、出刃包丁の絵の下に心と言う字を書いて、「忍」を表して偲んで来いと読ませると言う、この幼稚な手紙を左衛門が落として、大膳に拾われて訴えられるのが悲劇の発端である。
私などは、どうしても、シェイクスピア戯曲のように、多少時空のずれがあっても理屈に合った欧米流の芝居に慣れているので、古典ものの歌舞伎を観る時には、特別な心の準備と意識の切り替えが必要となり、身構えて観ている。
序幕の「新清水花見の場」だが、清水の舞台と本堂、それに舞台上手にあしらった音羽の滝など、爛漫に咲き誇る桜をバックに華やかで豪華絢爛たる美しい舞台が設定されていて、薄雪姫一行の綺麗どころが揃うのだから、最初は目を見張るように美しいのだが、第二幕、第三幕と舞台後半に進むに連れて、暗く陰惨になってくる。
ところで、最初のところで、左衛門が登場するのに、腰元たちが当時珍しかった遠眼鏡見たり、秋月大膳の登場の派手さや、恋を取り持った左衛門の奴妻平(染五郎)と水奴たちとが非常に趣向を凝らした華麗な立ち回りを演じるなど、視覚的にも見せ場があって、結構楽しい舞台となっている。
ところで、第二幕の「寺崎邸詮議の場」は、左衛門が、約束どおりに薄雪姫の父寺崎伊賀守の館に偲んでくるところから始まり、二人のつかの間の逢瀬が中断され、上使の民部、秋月大学(彦三郎)、園部兵衛が登場して、濡れ衣を着せられた二人の詮議が始まる。
序幕はお伽話のような虚構の物語だが、このあたりからは、左衛門と薄雪姫が途轍もない重罪人としての嫌疑がかかって詮議されると言う設定となり、忠君愛国、封建武士道の精神が動き出し、夫々の登場人物の運命を締め上げて行く。
錦之助の優男風の若殿の清々しさと芝雀の初々しくて一途な薄雪姫が、実に爽やかで素晴らしく、陰鬱で暗くて重厚な舞台に、一服の清涼剤のような雰囲気を醸し出していて中々良い。
将軍調伏の鑢目を入れたかどうかを説明できる国行が、殺害されてて戸板で登場するが、民部は手裏剣による致命傷を見て大膳の仕業と悟って、二人に温情を示すが、どこの世も同じで、「悪い奴ほど良く眠る」で権力に居る大悪には手が付けられず、両方の親に子供の詮議を託す。結局、罪人として扱う以外に道は残されていない。
威風堂々、威儀を正した富十郎の上使民部の威厳に呼応するかのように、兵衛と伊賀守も、幸四郎・吉右衛門兄弟の熱演であるから、ハイテンションで、正に火花が散るような舞台だが、フッと詰らない封建時代の運命の揺らめきによる事件に過ぎないのにと思うと、急に隙間風が吹いてきた。
何故だか分からないが、当時の高級官僚は、これだけの威厳と高潔な使命感をもって命を全うしていたのだと感に堪えなくなってしまった。
最近、幸四郎と吉右衛門との共演が多くなって来ているが、幸四郎の方は、理知的に頭で考えながらじっくりと噛み締めながら役作りをして芸を展開している感じであり、一方、吉右衛門は、十分に考え抜いた上で、自分のパーソナリティを前面に押し出して、非常に自然体で演じている感じがして、その対照の妙が面白い。
この舞台で、感激したのは、兵衛の奥方梅の方を演じた芝翫で、風格のある演技のみならず、夫兵衛に命じられて、「夫の命令が聞けないのか。笑え。」と言われて、夫が陰腹で腹を切って切腹しているのに笑わなければならない「三人笑」の走りの演技が秀逸で、あれだけ僅かな瞬間に悲喜こもごもと言うか苦衷を滲ませながら真に迫った泣き笑いの表情を見せるのなどは神業だとしか思えないと思って見ていた。
それに、伊賀守の奥方松ヶ枝を演じた魁春の風格のある堂々とした姿を仰ぎ見て、その芸の伸張の著しさを感じた。押しも押されもしない重厚な女方役者になりきったのである。
この舞台だが、二人の仲を取り持つ恋人同士の腰元籬の福助と奴妻平の染五郎や、団九郎の段四郎、秋月大学の彦三郎等脇役にも人を得て、勿体ないほど豪華な舞台になっている。