熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言「ふろしき」・能「綾鼓」

2017年05月26日 | 能・狂言
   この日は、国立能楽堂の5月主催公演の最終日で、「新作から古典-男心の内側へー」と言う興味深い演目であった。
   要するに、男と女の恋と言うか、微妙なLOVEの物語りである。
   尤も、狂言の方は、一寸した恋心の行き違いで夫婦喧嘩を回避するコミカル話だが、能の方は、なさぬ恋に陥った老庭掃きが狂い死にすると言う悲惨な物語で、狂言と能のコントラストが面白い。

   狂言の「ふろしき」は、落語の「風呂敷」を脚色した茂山千之丞の新作で、いわば、狂言のスタイルを借りた現代喜劇と言った趣の舞台で、徹頭徹尾笑わせる。
   独り者の若い男(童司)が、兄貴分の家に立ち寄り、日頃から憎からず思っている女房(千五郎)が酒を勧めて持成しているところへ、遅く帰って来る筈の亭主(あきら)がへべれけに酔って帰って来る。人一倍焼き餅焼きの亭主なので何をするか分からないのを恐れて、女房は若い男を押し入れに押し込む。ところが、亭主は、酔い潰れているのに更に酒を求めて押し入れの前にどっかと座って飲み始める。困った女房は、亭主が一目置く知人にとりなしを頼むこととし、頼まれた男(七五三)は、やって来て、酒飲みの嫉妬深い男の話を仕方噺で語りながら、亭主に持ってきた風呂敷を被せて、若い男を逃げさせる。

   結構通って居ながら、まだ、落語の風呂敷を聞いていないのだが、落語は、このあたりのオチで終わっているようだが、この狂言は、更に、女房が亭主に奥に寝間が敷いてあるのでそこで寝るように促すのだが寝込んでしまったので、これ幸いと頼まれた男が、女房を口説いて寝間へと誘うのだが、若い男ならまだしもと、振られてくたびれ儲けで幕となる。

   この女房、茂山千五郎家の若き当主千五郎が、コミカルに演じるのだが、相当、魅力的な色気のある女性のようで、男心をくすぐるところが面白いし、年甲斐もなく助平心を覗かせる七五三のニヤケぶりも秀逸である。
   いくら美人で素晴らしく魅力的な奥方でも、勿体ない話であるが、四六時中一緒に住んでいると、亭主にはその有難味が薄れてしまうのであろうが、世間の男には、一寸でもお近付きになりたい、アタックしたい、スミに置けない気になる存在と言うアイロニー。
   こういう笑劇は、笑いと諧謔、人間の心の底から笑いを湧き上げる狂言の独壇場で、見ていて、にやにやほろっとしながら楽しめる、毒にも薬にもならない軽妙さが実に良い。

   能「綾鼓」は、よく似た能「恋重荷」の方がポピュラーだが、次のようなストーリー。
   しがない庭掃き老人(シテ香川靖嗣)が、垣間見た女御(ツレ友枝真也)に恋をし、池の畔の桂の木に掛けた鼓を打って、その音が皇居に聞えたら女御が姿を見せると言われて、必死に鼓を打つが、綾を張った鼓なので鳴る筈がなく、騙されて恥をかいた老人は池に入水して死ぬ。臣下(ワキ森常好)が女御にその旨を伝えたので女御は鼓の傍まで行き狂い始めるのだが、そこへ、老人の怨霊(シテ香川靖嗣)が現れて、女御に鼓を打てと強要し打擲して苦しめて消えて行く。

   この能は、今回は、喜多流で、昭和27年に土岐善麿喜多実によって改定された新作能だと言う。
   今年の1月に、復曲能「綾鼓」シテ浅見真州を観ているのだが、私には、その違いなどは分からなかった。
   全く、救いようのない陰鬱な物語であるが、かなり、動きがストレートに表現されていたので、ストーリーを追うのは易しかったし、それなりに、興味深かった。

   一方的な老人の片思いであり、身分の違い、老若の違いなど、本来なら、あこがれだけで終わる恋心なのだろうと思うのだが、何故か、ふっと、無法松の一生を思い出した。
   チャタレー夫人の恋人のケースなど、世の中にはいろいろな恋があるのであろうが、総て、プラトンが言っていたように、神によって引き裂かれた人間が、自分の片割れベータ―ハーフを求めての希求と言うことであろうかと思うと、笑ってもおれない気がする。
   しかし、恋は異なもの味なもの、生きていて良かったと思う。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「見えざる手」論は、A・スミ... | トップ | クリエイティブ時代のトラン... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

能・狂言」カテゴリの最新記事