
学生時代に、東一条に行かずに、途中の桂で下車して、嵐山や嵯峨で古社寺散策に沈没していたので、桂川は、馴染みの川である。
1761年4月に、この桂川の川岸で、38歳の男性と14歳の女性の遺体が発見されて、これを題材にしたのが、浄瑠璃の「桂川連理柵」である。
この文楽では、心中話になっているが、実際は、殺人だとも言われている。
作者は、菅専助で近松半二も関わっていると言われているが、暗くて行き場のない近松門左衛門の心中物とはだいぶ趣を変えていて、ストーリーとしてはすっきりとして筋が通っていて分かり易い。
それに、必ずしも、明るい話ではないのだが、登場人物に適度なバリエーションもあって、チャリバで、人形が笑い転げるシーンもあって面白い。
信濃屋の娘お半が、伊勢参りから戻る途中に、遠州から戻る帯屋の跡取り長右衛門に出会い、同じ石部の宿屋出刃屋に泊まったのだが、丁稚長吉が夜這いを掛けて迫るので、困ったお半が、夜中に長右衛門の部屋へ逃げ込んでくる。子供だと思っていたので、自分の布団の中に入れて寝るのだが、不覚にも契ってしまう。
この噂が広まって、長右衛門を追い出して乗っ取ろうとしている帯屋の後妻おとせ(勘壽)と連れ子の儀兵衛が、お半が長右衛門にあてた手紙を証拠に、執拗に、紛失した金の詮議に託けて追及するのだが、妻のお絹が、宛名長さんまいるは、長右衛門ではなくて長吉だと言いくるめて、親・隠居繁斎(玉輝)が、金の話は主人は長右衛門なので長右衛門の勝手だと言って収まる。
苦しい胸の内を掻き口説くお絹の誠意に涙してうたた寝したところへ、身籠って切羽詰まったお半が死を覚悟して最後に会いたさにやってくる。労って返すが、気になって門口に出ると、書置きが落ちていて桂川で身を投げる覚悟であることが分かる。
長右衛門は、父繁斎やお絹への申し訳なさ、お半が自分の子を身籠っていること、お屋敷から預かった脇差が偽物にすり替わっていることを嘆き、自分に愛想がつき、15年前に芸子と桂川で心中を図って自分だけ助かったのを思い出して、お半が芸子の生まれ変わりのような気がして、桂川での心中を決心する。
ラストシーンが、お半を背負った長右衛門、二人が桂川を上ってゆく「道行朧の桂川」。
悲しくも切ない幕切れである。
帯屋長右衛門を玉男、お半を清十郎が遣い、「帯屋の段」を、呂勢太夫と清治、咲太夫と燕三の、実に感動的な義太夫と三味線が、更に感動を呼ぶ。
上質な西洋映画を見ているような感じがして、何故か、イギリスで通い詰めたロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台を思い出していた。
この帯屋の段の冒頭部分は、お半の長右衛門への手紙を手に入れた儀兵衛(玉佳)が、皆にその手紙を読んで聞かせて、お絹(勘彌)に、長さんは、長右衛門ではなくて長吉(文昇)だと言われて、鼻たれ小僧の長吉が、お半の相手である筈がないと思いながらも、呼び出してきて、笑い転げながら掛け合い、長吉は、お絹に言いくるめられているので、もじもじしながら、お半は自分の女房だと答える。
この舞台は、20分ほど続くのだが、太夫の語りも人形の遣い手も大変な熱演で、感動ものである。
YouTubeで、このシーンを、儀兵衛を先代の勘十郎、長吉を簑助、義太夫を住大夫と言う人間国宝そろい踏みの至芸を観ることができる。この舞台、長右衛門を初代玉男、お絹を文雀、これも人間国宝が遣っていた。
後半の長右衛門とお絹が二人で交わすしっとりとした人間模様、そして、貞女の鏡ともいうべきいい女のお絹のクドキなど秀逸で、長右衛門とお半の別れのシーンなども、しみじみと余韻を残す、咲太夫と燕三の名調子が胸に染みる。
余談になるが、この「桂川連理柵」で思い出すのは、落語の「胴乱の幸助」。
桂雀三郎の上方落語で、この「胴乱の幸助」を聴いて面白かった。
仲裁好きの幸助が、浄瑠璃「お半長」の稽古を聴いて、本当の話だと早合点して、京都の「帯屋」へ行って仲裁すると言う奇天烈な話である。
喧嘩の仲裁をするのが道楽の割り木屋の親父の幸助が、浄瑠璃の稽古屋の前で、「桂川連理柵」お半長右衛門「帯屋の段」の嫁いじめの所の稽古を聞いて、浄瑠璃を知らないので本当の話だと思って、大阪の八軒屋浜から三十石船に乗って伏見で降りて、尋ね歩いて、柳の馬場押小路虎石町の呉服屋に行って仲裁をしようとして、お半と長右衛門をここへ出せと言う噺で、桂川で心中したと言われて、オチが、「汽車で来れば良かった。」と言うとぼけた話。
丁度、「帯屋の段」で、長右衛門の継母・おとせが、長右衛門の妻・お絹をいびるシーンの稽古中で、思い余った幸助が、稽古屋に飛び込んで上がり込み、驚いた義太夫の師匠が、「ここのうちがもめてンのと違いまンねん。京都の柳馬場押小路虎石町の西側に『帯屋』いう家がおまンねん。・・・」と、「桂川連理柵」と言う浄瑠璃の話だと説明するのだが、熱心にメモを取った幸助はフィクションだと分からずに、「そうか。わしはこれから京へ行て、帯屋のもめごとを収めてやる」と宣言して、淀川の夜船で京へ向かう。 と言う噺である。
桂川で心中したと言われて、オチは、汽車で来れば良かった。
米朝の名調子を、YouTubeで見られるが、ここでは、いくら説明しても、浄瑠璃の話だと言うことが理解できないので、稽古屋の方でも、そやったら京へ行って下さいと煽っており、浄瑠璃ぶち壊しだが、幸助が「帯屋」を見つけて頓珍漢の話をするのも面白い。
、 「お半長」は、子供でも知っている話とか、浄瑠璃人気もホンモノであったようである。
1761年4月に、この桂川の川岸で、38歳の男性と14歳の女性の遺体が発見されて、これを題材にしたのが、浄瑠璃の「桂川連理柵」である。
この文楽では、心中話になっているが、実際は、殺人だとも言われている。
作者は、菅専助で近松半二も関わっていると言われているが、暗くて行き場のない近松門左衛門の心中物とはだいぶ趣を変えていて、ストーリーとしてはすっきりとして筋が通っていて分かり易い。
それに、必ずしも、明るい話ではないのだが、登場人物に適度なバリエーションもあって、チャリバで、人形が笑い転げるシーンもあって面白い。
信濃屋の娘お半が、伊勢参りから戻る途中に、遠州から戻る帯屋の跡取り長右衛門に出会い、同じ石部の宿屋出刃屋に泊まったのだが、丁稚長吉が夜這いを掛けて迫るので、困ったお半が、夜中に長右衛門の部屋へ逃げ込んでくる。子供だと思っていたので、自分の布団の中に入れて寝るのだが、不覚にも契ってしまう。
この噂が広まって、長右衛門を追い出して乗っ取ろうとしている帯屋の後妻おとせ(勘壽)と連れ子の儀兵衛が、お半が長右衛門にあてた手紙を証拠に、執拗に、紛失した金の詮議に託けて追及するのだが、妻のお絹が、宛名長さんまいるは、長右衛門ではなくて長吉だと言いくるめて、親・隠居繁斎(玉輝)が、金の話は主人は長右衛門なので長右衛門の勝手だと言って収まる。
苦しい胸の内を掻き口説くお絹の誠意に涙してうたた寝したところへ、身籠って切羽詰まったお半が死を覚悟して最後に会いたさにやってくる。労って返すが、気になって門口に出ると、書置きが落ちていて桂川で身を投げる覚悟であることが分かる。
長右衛門は、父繁斎やお絹への申し訳なさ、お半が自分の子を身籠っていること、お屋敷から預かった脇差が偽物にすり替わっていることを嘆き、自分に愛想がつき、15年前に芸子と桂川で心中を図って自分だけ助かったのを思い出して、お半が芸子の生まれ変わりのような気がして、桂川での心中を決心する。
ラストシーンが、お半を背負った長右衛門、二人が桂川を上ってゆく「道行朧の桂川」。
悲しくも切ない幕切れである。
帯屋長右衛門を玉男、お半を清十郎が遣い、「帯屋の段」を、呂勢太夫と清治、咲太夫と燕三の、実に感動的な義太夫と三味線が、更に感動を呼ぶ。
上質な西洋映画を見ているような感じがして、何故か、イギリスで通い詰めたロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台を思い出していた。
この帯屋の段の冒頭部分は、お半の長右衛門への手紙を手に入れた儀兵衛(玉佳)が、皆にその手紙を読んで聞かせて、お絹(勘彌)に、長さんは、長右衛門ではなくて長吉(文昇)だと言われて、鼻たれ小僧の長吉が、お半の相手である筈がないと思いながらも、呼び出してきて、笑い転げながら掛け合い、長吉は、お絹に言いくるめられているので、もじもじしながら、お半は自分の女房だと答える。
この舞台は、20分ほど続くのだが、太夫の語りも人形の遣い手も大変な熱演で、感動ものである。
YouTubeで、このシーンを、儀兵衛を先代の勘十郎、長吉を簑助、義太夫を住大夫と言う人間国宝そろい踏みの至芸を観ることができる。この舞台、長右衛門を初代玉男、お絹を文雀、これも人間国宝が遣っていた。
後半の長右衛門とお絹が二人で交わすしっとりとした人間模様、そして、貞女の鏡ともいうべきいい女のお絹のクドキなど秀逸で、長右衛門とお半の別れのシーンなども、しみじみと余韻を残す、咲太夫と燕三の名調子が胸に染みる。
余談になるが、この「桂川連理柵」で思い出すのは、落語の「胴乱の幸助」。
桂雀三郎の上方落語で、この「胴乱の幸助」を聴いて面白かった。
仲裁好きの幸助が、浄瑠璃「お半長」の稽古を聴いて、本当の話だと早合点して、京都の「帯屋」へ行って仲裁すると言う奇天烈な話である。
喧嘩の仲裁をするのが道楽の割り木屋の親父の幸助が、浄瑠璃の稽古屋の前で、「桂川連理柵」お半長右衛門「帯屋の段」の嫁いじめの所の稽古を聞いて、浄瑠璃を知らないので本当の話だと思って、大阪の八軒屋浜から三十石船に乗って伏見で降りて、尋ね歩いて、柳の馬場押小路虎石町の呉服屋に行って仲裁をしようとして、お半と長右衛門をここへ出せと言う噺で、桂川で心中したと言われて、オチが、「汽車で来れば良かった。」と言うとぼけた話。
丁度、「帯屋の段」で、長右衛門の継母・おとせが、長右衛門の妻・お絹をいびるシーンの稽古中で、思い余った幸助が、稽古屋に飛び込んで上がり込み、驚いた義太夫の師匠が、「ここのうちがもめてンのと違いまンねん。京都の柳馬場押小路虎石町の西側に『帯屋』いう家がおまンねん。・・・」と、「桂川連理柵」と言う浄瑠璃の話だと説明するのだが、熱心にメモを取った幸助はフィクションだと分からずに、「そうか。わしはこれから京へ行て、帯屋のもめごとを収めてやる」と宣言して、淀川の夜船で京へ向かう。 と言う噺である。
桂川で心中したと言われて、オチは、汽車で来れば良かった。
米朝の名調子を、YouTubeで見られるが、ここでは、いくら説明しても、浄瑠璃の話だと言うことが理解できないので、稽古屋の方でも、そやったら京へ行って下さいと煽っており、浄瑠璃ぶち壊しだが、幸助が「帯屋」を見つけて頓珍漢の話をするのも面白い。
、 「お半長」は、子供でも知っている話とか、浄瑠璃人気もホンモノであったようである。
