熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

プラトン:「ソクラテスの弁明」「クリトン」

2015年03月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   久しぶりに、私が大学生になって初めて手にした懐かしい田中美知太郎のプラトンに出合ったので、早速読み始めた。
   これは別の新しい本だが、当時、哲学でも勉強しようと思ったものの、知っていたのはソクラテスやプラトンと言った名前くらいで、「ソクラテスの弁明」と「クリトン」が目についたのである。
   確かに、読んだと思っており、教養の授業も取って、「哲学」の講義を受けたのだが、良く分からなくて途中で止めてしまい、何故か、「ヘン・パンタ・アエナイ」と言った教授の言葉だけは覚えている。

   田中教授が、まだ、大学におられたのかどうかは分からなかったが、湯川秀樹教授や桑原武夫教授の講演を学内で聴いていたので、あの頃は、偉大な先生が目白押しであったし、田中先生のご高名は、夙に存じ上げていた。

   さて、この口絵写真は、私が、ニューヨークのメトロポリタン美術館で撮ったソクラテスが毒盃を仰ぐ寸前の絵の写真である。
   随分前に、アテネに行った時に、スーニオン岬に沈む夕日を見たくて、タクシーで向かう途中、運転手が、あれがソクラテスの独房だと教えてくれたのだが、それは、簡素な岩壁の洞穴のような感じだったので、このような絵になるような最後ではなかったように思っている。

   この本の「ソクラテスの弁明」は、ソクラテスが裁判にかけられて死刑を宣告させる一連の裁判の模様をプラトンが弁明風に展開したもので、
   「クリトン」は、プラトンの友クリトンが、獄中のプラトンを訪ねて、必死になって脱獄を説得するのだが、ギリシャを愛するが故に悪法も法であり、それに従うのが正義だと突っぱねる感動的な対話を綴ったものである。

   ソクラテスの告発者は、反対派のアニュトスが、危険人物としてソクラテスを排除しようとして若いメレトスなど3人を直接の訴人に立てたもので、
   ソクラテスの罪状は、「国家の認める神々を認めず、別の新しいダイモンを祭るなど、青年に対して、有害な影響を与えている」と言うものである。

   デルポイに出かけて神託を受け、自分より知恵のあるものがいるかと尋ねたら、巫女は、より知恵のあるものは誰もいないと答えた。
   この神託の理解に苦しんだソクラテスは、各界の代表的な知者たちを調べて歩いた結果、
   彼らも自分も、善美にかかわる重要時について何も知っていない。しかし、彼らは「知らないのに知っている、知っていると思っている」のに対して、自分は「知らないから、そのとおりに、また、知らないと思っている」。このちょっとした違いで、自分の方がより知者だということらしい。(無知の知)神ならぬ人間の望み得る精一杯の知なのだ。と悟る。
   
   ソクラテスは、政界はじめ高名な人物を相手にして問答しながら仔細に観察して、多くの人に知恵のある人物だと思われており、自分自身もそうだと思い込んでいる人物が、実はそうではないと言うことを、はっきり分からせてやろうと行脚し続け、ソクラテスに傾倒した若者たちにも、そうするように勧めた。
   こうした厳しい対話や詮索の結果、やり玉に挙がってコテンパンに論破されて遣り込められた人物たちが、ソクラテスはけしからんと腹を立て、多くの者たちからも、嫉妬や憎しみを受けることになった。

   それにまた、「クリトン」で明言しているのだが、
   ”「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ。」その「善く」というのは、「美しく」とか、「正しく」とかということと同じだ。”と言っており、アテナイ人に対する告発も容赦がない。
   ”世にもすぐれた人よ、君はアテナイ人であり、知と強さにおいて最も偉大な、最も名の聞こえた国の一員でありながら、金銭を出来るだけ多く得ようととか、評判や名誉のことばかりに汲々としていて、恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂を出来るだけすぐれたものにすることには無関心で、心を向けようとしないのか。”

   金と評判と名誉への志向と、知と真実と魂を優れたものとすることへの志向との、平明にまた力づよく語られたこの対比は、プラトン哲学の基底をなす明確な構図を形づくることになると、藤澤令夫教授は言う。
   息のつづくかぎり哲学することを止めない。たとえ幾たび殺されようとも、決してこれ以外のことをすることはありえない。と、死刑判決を必然の成り行きとして見定めて、「死」でもって、彼が守り通した哲学を成就させたのである。

   ソクラテスが毒盃を仰ぐ臨終での対話を綴った「パイドン」では、
   ”死に臨んで嘆き悲しむ人を君が見たら、それは、その人が知の求愛者(ピロソポス)ではなく、身体の求愛者(ピロソーマトス)だったことの十分な証拠ではないだろうか。そして、その同じ人は、金銭の求愛者でもあり、名誉の求愛者でもある。”
   自然万有を、「知の求愛者=善く生きる」の「精神」原理と、「身体の求愛者=ただ生きる」を導く「生き延び」原理によって、プラトン哲学における基本路線の構図の見取り図が完成するのだと言う。

   「生き延び」原理が、世の大勢だとしても、科学技術との合体によって、人類の歴史は、大変な進歩発展を遂げて、今日の人類の生存を高みに導いて来た。
   しかし、その科学技術万能の営みが、地球船宇宙号を窮地に陥れて、人類の生存そのものを危うくし始めている。
   善く生きると言うことは、地球船宇宙号の運命とともに死を迎えることであろうか。
   
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