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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

桂文治襲名披露公演、そして、能・観世流「玄象」

2012年11月17日 | 今日の日記
   芸術鑑賞を、一日に纏めて鑑賞することが多くなったのだが、この日は、昼に国立劇場の寄席・中席の「十一代目桂文治襲名披露公演」と夜の国立能楽堂での定例公演であった。
   両方とも、満席の盛況で、実に充実した舞台の連続で、芸術の秋を堪能させて貰った。

   いつものように、銀座で一仕事をして、三宅坂の国立演芸場に出かけたのだが、少し、開演まで間があったが、威勢の良い前座が始まっていた。
   遅く切符を手配したので、最前列の端の方だったけれど、臨場感があって良かった。

   
   この日、文治が語ったのは、「鈴ヶ森」。
   間抜けな追剥の話で、親方の指導で、初めて鈴ヶ森に出かけて、泥棒デビューを果たすのだが、当然へまをすると言う滑稽噺。鈴ヶ森は刑場の跡だが、今、隣の国立劇場の歌舞伎で、白井権八と幡随院長兵衛とが遭遇する「鈴ヶ森」の場を演じており、引っかけて聴衆を笑わせる。
   豊かな声量と大きな構えが文治の長所だと言われているが、実に愛嬌のある顔をフルに生かして、迫力十分のスケールの大きな語り口で、引き込まれて行く。


   面白かったのは、三遊亭小遊三の「崇徳院」。
   「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢わんとぞ思う」と言う崇徳院の歌を巡っての若い男女の恋煩いの噺である。
   和歌が主題で、面白かったのは、在原業平の「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」をテーマにした「千早振る」なのだが、この三遊亭小遊三が得意とする演目のようで、『小遊三の千早か、千早の小遊三か』と言われた程だと言う。ぜひ聞いてみたとと思っている。

   
   ところで、襲名披露にも登場した桂右團治(女性初の真打 早大法学部の出身)が、次の披露は、高砂や~で文治と並ぶ時だと言っていたが、嘘か本当か、三遊亭小遊三が、襲名披露でプロポーズは初めてと語っていた。
   文治がダメでも、もう一人独身がいて、春風亭 昇太だが、最近、ハムスターと結婚したと、何か訳の分からないことを言って、笑わせていた。

   とにかく、来月は、この演芸場の改装で、休みとなるのだが、桂伸治の「片棒」、夢太郎の「絹の袈裟」など、非常に充実した中席で、非常に面白かった。
   しかし、鈴ヶ森もそうだし、子供をテーマにした「子ほめ」や「初天神」などにしてもそうだが、まだ、落語に通い始めて間もないのに、同じ演題の落語を聞く機会が多いのには、いくら噺家によってバリエーションがあるにしても、一寸、閉口している。

   いつものように、神保町で時間をつぶして、6時半からの国立能楽堂の定例公演に出かけた。
   狂言・大蔵流の「梟」と能・観世流の「玄象」であった。
   「梟」は、修業が足らない山伏が、梟の霊が乗り移った弟を救うために兄に調伏を頼まれるのだが、ボロロンボロロン、いろはにほへとと怪しげな祈祷をして、兄は勿論のこと、自分まで梟に憑りつかれると言うしまらない話である。
   家の中に、茸が生えて困っているのを、山伏に頼んで解決しようとするのだが、未熟ゆえに、どんどん茸が増えてしまう狂言「茸(くさびら)」と同じような話で、どうも、狂言の世界では、ろくな山伏が出て来ないようである。
   この話は、あのディズニーの「ファンタジア」の魔法使いの弟子と同じで、どんどん箒の数が増えていって困るミッキー・マウスの魔法使いの弟子とそっくりで面白い。

   さて、能「玄象」は、琵琶の名手ツレ/藤原師長(観世清和)が修業のために唐へ渡ろうとするのだが、その前に須磨を訪れて名月を鑑賞する。そこに現れた後シテ/村上天皇(梅若元祥)と梨壷の女御の霊が素晴らしい演奏を奏でるので、恥じいった師長が都に帰る話である。
   観世流の頂点とも言うべき長老能役者玄祥が素晴らしいシテを舞い、観世流の宗家清和がツレにまわって、ワキ/師長の従者に人間国宝の宝生閑、アイ/師長の従者としてアイ狂言を語るのが人間国宝の山本東次郎と言う、非常に素晴らしい役者たちが演じる充実した舞台であった。

   能楽鑑賞一年の私には、シテの舞や地謡や囃子の音色で、越天楽の楽の音や素晴らしい琵琶の演奏などをイメージしろと言われても一寸無理な話で、奥深い能の素晴らしさは、まだまだ、殆ど分からないのだが、後シテの終幕の早舞の優雅さなど、少しずつ、瞬間瞬間だが、はっとする感動を覚えるようになってきた気がしている。
   白洲正子の「お能の見方」に、福原麟太郎の「能の秘密」の一文を引用して、理屈抜きの美しさへの感動について書いてあったような気がするのだが、多くを理解しようと思っても無理なので、少しずつ年季を積んで、美しさに感動する瞬間を重ねて行きたいと思っている。

   私は、どうしても、女性の美しさ優雅さを探し求めながら能を観ているところがあるのだが、前回の「普及公演」で見た「賀茂」の後ツレ/天女(武田宗典)の天女ノ舞は、本当に美しいと思って、感激しながら見ていた。
   もう一つ、この「賀茂」で感じたのは、アイ狂言に、人間国宝の野村萬が登場して、ワキ/室明神の神職の人間国宝宝生閑と対話するシーンで、このような脚光を浴びるような場面ではないところでも、全力投球している能舞台の凄さである。
   これまで、狂言方の演じるアイ狂言を、中つなぎの説明くらいにしか思っていなかったのだが、野村萬や山本東次郎の舞台を観ていて、狂言に対する認識を新たにした思いである。
   
   
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