「黒船、敗戦、そして3.11」とサブタイトルのついた、3.11の陸前高田のレポートから始まる日本論とも言うべき本で、FT記者と言うジャーナリストとして恵まれた環境下での本なので、情報知識がぎっしりと詰まっていて、読み応えのある本である。
まだ、失われた20年を経て小泉時代までの、上巻のみの読後感なので、はっきりとは言えないが、私の正直な感想は、非常に網羅的でバランスのとれた素晴らしい本であり、日本人以外の読者には、大変有意義で役に立つ日本概説本であると言うことである。
日本に関する目ぼしい欧米の著作を殆ど(?)読破して、知的武装を施した上に、日本で取材しながら、ジャーナリストの特権を生かして、恵まれた知己との交流を活用し、必要となれば大臣であろうと誰であろうとインタビューして裏を取り情報を固めるなど、その筆致は微に入り細をうがち、痛快でさえある。
ジャーナリスティックでありながらも、学術書並の日本論の展開であり、現代日本がビビッドに浮き彫りにされているので、欧米では、評価が高い。
しかし、私には、殆ど既知の日本に関する知識情報を網羅羅列した秀才の書いた教科書のような感じがして、特に、感銘を受けるような記述には巡り合えなかった。
したがって、ここでは、私自身が読んでいて、多少なりとも引っかかった個所について感想を記して見たい。
まず、天皇および天皇制に関することで、「なぜ日本は戦争に向かったか」の項で、「日本が疑似ファシズム的天皇制カルトにかかってしまった・・・」として、福沢の期待に反する形で個人主義が徐々に弾圧され、階級社会が再び幅を利かせるようになって、・・・保守的な支配層が、天皇崇拝に包まれた国策プロジェクトの下に国民を結集させ、急速な工業化や植民地主義的政策を推進することを容易にした。と述べている。
問題は、「疑似ファシズム的天皇制カルト」と言う独善的でアロガントな表現である。
極めて危険極まりない欧米列強に虎視眈々と狙われながら、弱体な新興国日本を早急に対抗勢力として立ち上げるためには、この天皇制を核としてナショナリズムを高揚して国家を糾合して対処する以外にはなく、結果はともかく、選択の余地のない道であったと言うこと。
それに、同時代に、本国はともかく、イギリスが先頭に立って、アヘン戦争を仕掛けて欧州列強で中国全土を蹂躙して、壮大な文化の華・華麗な歴史的遺産である円明園を徹底的に破壊するなど人類の偉大さに真っ向から挑んだ野蛮極まりない暴挙こそ、植民地主義的王政カルトと言うべきではないのであろうか。
もうひとつ、戦後の天皇の人間宣言に触れて、今日においてさえ、天皇家に対する迷信は完全に抹殺されたと言えないとして、天皇の古墳を立ち入り禁止にして考古学者に調査させないのは、何らかの不愉快な真実が判明するのを恐れているのか、一つ考えられるのは、日本の皇室の起源が朝鮮半島にまでさかのぼると言う可能性だ。と書いている。
これは、日本の文化や社会に対する認識の欠如と言うべきか、
私自身は、特別ナショナリズムの強い人間だとは思っていないが、天皇制については、日本にとっては大切な体制だと思っているので、このような興味本位の憶測には抵抗を感じる。
イギリスの王室のように、歴史的にオリジンが、普通のイギリス人とは違って、欧州各地に亘っていると、国籍などどうでも良いのであろうが、日本人としての国民気質と言うのは重要なのである。
日本の明治以降の富国強兵政策について、”脱亜に成功し、入欧に失敗する”と言うのが、ピリングの見解だが、
日本が20世紀後半の成功によって、アジア域内の多くの国に勇気と刺激を与えた・・・とか、日本はアジアでは愛されることはなかったかもしれないが、非白人にも白人と全く同様に経済的・技術的成功を収める能力があると分かり切った事実を始めて証明して見せた。と述べている。
これは、極めて短期的な見方で、同じイギリス人の経済学者アンガス・マジソンが、19世紀中葉まで、中国とインドが世界の経済の半分以上を押さえており、今日の経済的台頭は、19世紀への回帰に過ぎず、欧米が経済的覇権を握っていたのは、ほんの最近の100年一寸だといみじくも述べている。
ガルブレイスが、1958年の「豊かな社会」で、「世界の中でヨーロッパ人の住む比較的小さな地域」として、日本を「豊かな社会」に入れていないと書いているが、この本は、アメリカ社会を主体にしてソーシャル・バランスの欠如を論じた本であって、「豊かな社会」を定義したわけでもなく、まして、ヴォ―ゲルが「Jaoan as No.1」を書いて日本が頂点に上り詰めて豊かになったのはもっと後の1980年代であり、1958年には、日本は、まだ、戦後の復興期であった。
念のために記しておくと、1970年代のイギリス経済の酷さは目も当てられない状態で、ロンドンの街路は収拾不能のゴミが舞いあがり、ストストストで失業者がたむろして、経済的な悪化は総て英国病と揶揄されていたほどで、その後、サッチャーが組合つぶしなど大ナタを振るって大改革を断行せざるを得なかった。
この頃、ライシャワーが、先の「Jaoan as No.1」を日本人には禁書にすべきだと言った時期で、イギリス人の方が弱気で元気なく、俄か成金のアロガントな日本人ビジネスマンが、ロンドンの街を闊歩していた。
ヨーロッパに居て、つぶさに、現状を見ているので、良く知っている。
わき道にそれてしまったが、イギリス人ジャーナリストの、現在の日本を見る、多少上からの目線が気になる記述が、時々顔を覗かせる。
そんな感じが、良くも悪くもイギリスなり欧米を多少とも知っている自分には、気になるところであると言えようか。
いずれにしろ、非常に緻密に精査された記述で、日本人の類書よりはるかに充実しており、外人の視点と言うことからも大変勉強になり、最近の日本の歴史を反芻するような思いで読むと、現代日本が浮かび上がってくる。
まだ、失われた20年を経て小泉時代までの、上巻のみの読後感なので、はっきりとは言えないが、私の正直な感想は、非常に網羅的でバランスのとれた素晴らしい本であり、日本人以外の読者には、大変有意義で役に立つ日本概説本であると言うことである。
日本に関する目ぼしい欧米の著作を殆ど(?)読破して、知的武装を施した上に、日本で取材しながら、ジャーナリストの特権を生かして、恵まれた知己との交流を活用し、必要となれば大臣であろうと誰であろうとインタビューして裏を取り情報を固めるなど、その筆致は微に入り細をうがち、痛快でさえある。
ジャーナリスティックでありながらも、学術書並の日本論の展開であり、現代日本がビビッドに浮き彫りにされているので、欧米では、評価が高い。
しかし、私には、殆ど既知の日本に関する知識情報を網羅羅列した秀才の書いた教科書のような感じがして、特に、感銘を受けるような記述には巡り合えなかった。
したがって、ここでは、私自身が読んでいて、多少なりとも引っかかった個所について感想を記して見たい。
まず、天皇および天皇制に関することで、「なぜ日本は戦争に向かったか」の項で、「日本が疑似ファシズム的天皇制カルトにかかってしまった・・・」として、福沢の期待に反する形で個人主義が徐々に弾圧され、階級社会が再び幅を利かせるようになって、・・・保守的な支配層が、天皇崇拝に包まれた国策プロジェクトの下に国民を結集させ、急速な工業化や植民地主義的政策を推進することを容易にした。と述べている。
問題は、「疑似ファシズム的天皇制カルト」と言う独善的でアロガントな表現である。
極めて危険極まりない欧米列強に虎視眈々と狙われながら、弱体な新興国日本を早急に対抗勢力として立ち上げるためには、この天皇制を核としてナショナリズムを高揚して国家を糾合して対処する以外にはなく、結果はともかく、選択の余地のない道であったと言うこと。
それに、同時代に、本国はともかく、イギリスが先頭に立って、アヘン戦争を仕掛けて欧州列強で中国全土を蹂躙して、壮大な文化の華・華麗な歴史的遺産である円明園を徹底的に破壊するなど人類の偉大さに真っ向から挑んだ野蛮極まりない暴挙こそ、植民地主義的王政カルトと言うべきではないのであろうか。
もうひとつ、戦後の天皇の人間宣言に触れて、今日においてさえ、天皇家に対する迷信は完全に抹殺されたと言えないとして、天皇の古墳を立ち入り禁止にして考古学者に調査させないのは、何らかの不愉快な真実が判明するのを恐れているのか、一つ考えられるのは、日本の皇室の起源が朝鮮半島にまでさかのぼると言う可能性だ。と書いている。
これは、日本の文化や社会に対する認識の欠如と言うべきか、
私自身は、特別ナショナリズムの強い人間だとは思っていないが、天皇制については、日本にとっては大切な体制だと思っているので、このような興味本位の憶測には抵抗を感じる。
イギリスの王室のように、歴史的にオリジンが、普通のイギリス人とは違って、欧州各地に亘っていると、国籍などどうでも良いのであろうが、日本人としての国民気質と言うのは重要なのである。
日本の明治以降の富国強兵政策について、”脱亜に成功し、入欧に失敗する”と言うのが、ピリングの見解だが、
日本が20世紀後半の成功によって、アジア域内の多くの国に勇気と刺激を与えた・・・とか、日本はアジアでは愛されることはなかったかもしれないが、非白人にも白人と全く同様に経済的・技術的成功を収める能力があると分かり切った事実を始めて証明して見せた。と述べている。
これは、極めて短期的な見方で、同じイギリス人の経済学者アンガス・マジソンが、19世紀中葉まで、中国とインドが世界の経済の半分以上を押さえており、今日の経済的台頭は、19世紀への回帰に過ぎず、欧米が経済的覇権を握っていたのは、ほんの最近の100年一寸だといみじくも述べている。
ガルブレイスが、1958年の「豊かな社会」で、「世界の中でヨーロッパ人の住む比較的小さな地域」として、日本を「豊かな社会」に入れていないと書いているが、この本は、アメリカ社会を主体にしてソーシャル・バランスの欠如を論じた本であって、「豊かな社会」を定義したわけでもなく、まして、ヴォ―ゲルが「Jaoan as No.1」を書いて日本が頂点に上り詰めて豊かになったのはもっと後の1980年代であり、1958年には、日本は、まだ、戦後の復興期であった。
念のために記しておくと、1970年代のイギリス経済の酷さは目も当てられない状態で、ロンドンの街路は収拾不能のゴミが舞いあがり、ストストストで失業者がたむろして、経済的な悪化は総て英国病と揶揄されていたほどで、その後、サッチャーが組合つぶしなど大ナタを振るって大改革を断行せざるを得なかった。
この頃、ライシャワーが、先の「Jaoan as No.1」を日本人には禁書にすべきだと言った時期で、イギリス人の方が弱気で元気なく、俄か成金のアロガントな日本人ビジネスマンが、ロンドンの街を闊歩していた。
ヨーロッパに居て、つぶさに、現状を見ているので、良く知っている。
わき道にそれてしまったが、イギリス人ジャーナリストの、現在の日本を見る、多少上からの目線が気になる記述が、時々顔を覗かせる。
そんな感じが、良くも悪くもイギリスなり欧米を多少とも知っている自分には、気になるところであると言えようか。
いずれにしろ、非常に緻密に精査された記述で、日本人の類書よりはるかに充実しており、外人の視点と言うことからも大変勉強になり、最近の日本の歴史を反芻するような思いで読むと、現代日本が浮かび上がってくる。