人口の推移を通して世界史を説く、非常に興味深い本が、このリヴィーバッチの「人口の世界」、学術書でもある。
旧石器時代には100万人、新石器時代には1000万人、青銅器時代には1億人、産業革命時代には10億人であった人口だが、それが、
国連の推計では、2025年に80億人、2043年に90億人に達する。
2083年には、100億人に達し、2100年には、101億2,000万人となり、その時点で、ほぼ成長率ゼロの静止人口となる。と言う。
2010―50年の世界人口増加分のほぼすべてが発展途上国によるもので、人口がピークアウトした時点では、人口の3分の1以上はアフリカ人だとも言う。
さて、地球には「収容力」と言うべき持続可能な人口の限界があるとするのが、人口学者の通説だが、学者によって色々な推計値があり、楽観論では1,460億人と言った数字もあるが、
比較的バランスのとれたスミスの推計(1994年)によると、生産・配分・消費の体系に依存する非効率性や不合理性、そして無駄が現実的な割合で削減された場合には、現在の消費水準で20億人から25億人が追加的に生存可能となり、生産投入を増やせば――バイオテクノロジー分野で革命的な進歩が起きれば勿論のこと――さらに20億人から25億人が暮らせるようになると言い、著者は、21世紀には地球全体で100億人から110億人が暮らせるようになると考えるのが現実的であろうと言う。
宇宙船地球号が、どこまで。人口増に堪え得ることが出来るのか、マルサスの亡霊が現れては消え、消えては現れると言う歴史を繰り返しているのだが、経済学的観点から収穫逓減の法則に基づけば、遅かれ早かれ、生活水準は低下して行く。
人類が拠り所とする土地、水、大気、その他天然資源のいずれもが固定され量が限られた資源であって、代替できても一部に止まり、それ故に成長の制約要件となり、
更に、人口増による工業化による汚染や、農業、工業、住宅開発などの人間活動の活発化によって、生態系の破壊に繋がって行く。
また、人口成長によって、食料や資源需要に圧力がかかると、個人や集団や国家同士の競合と対立が避けられなくなり、更に、人間の健康や社会秩序にとっても脅威となって、永遠の人口増など望み得ないと言うことである。
このような悲観論に対して、人口の規模拡大を可能とする適応能力に全面的に信頼を置く学説もあり、これによると、技術革新によって天然資源の代替が可能となり、農業生産は拡大するなど生活環境の制約条件はクリアされて行くと言うのである。
現在、食料やエネルギー、天然資源などの物価水準は、歴史的には低水準にあり、供給が不足すれば価格が上がるが、技術革新が促されて、生産性が向上し、資源の代替や新製品が登場などで、生産の無制限な上昇が可能だとする。
たとえ、これらの営みが環境劣化を招いても、内部化が可能であり、世界人口が享受する物的および経済的豊かさは科学と経済の進歩によって絶えず向上しており、この状態が変わることはないと主張している。
さて、現状認識には、個人差があって断言はできないが、地球温暖化など深刻な環境の悪化を伴って人類の未来に対しては警告信号が点滅はしているが、科学技術の進歩と言うべきか、政治経済社会システムの好循環がそうさせるのかは疑問だとしても、どうにかこうにか、現在のところは、食糧事情も含めてマルサスの悲観論は、クリアして来ているように見える。
著者は、人口の歴史は、制約と選択の間の妥協の連続であったと言う。
制約要件とは、過酷な環境や疾病、食料確保上の制約、資源、危機に直面した今日の環境、選択の要素とは、結婚と出産、流動と移動と移住、病気からの自己保全で、これらを柔軟かつ戦略的に調整しながら、その相互作用によって生み出された人口の均衡点の変遷によって、人口は、成長と停滞および減退を繰り返してきたと言うのである。
この本では、著者は、悲観論も楽観論も、どちらにもくみしないとは述べているのだが、これまでの推移を分析して、近い将来においては、食料供給が、人口の制約要因となることはないし、また、生産や生活水準維持に必要な再生産不可能資源についても、埋蔵量や価格の推移、技術革新による代替の確保等、懸念しているようには思えない。
私自身は、これまで、何度か、人類の環境破壊の問題をテーマにして論じて来たが、この宇宙船地球号は、このまま、永遠に人類の文化文明基地として永続し続けて行く筈がなく、どこかの時点で、プラトンの説いたアトランティスのアクロポリスのような運命を辿るような気がしている。
この本は、人口学の視点から、人口成長の歴史、先進国と貧困国の人口問題などを論じながら、南北問題、人口格差、経済格差などと言った分野にも言及し、例えば、エイズの流行にもスポットを当てるなど、多岐に亘った論述が興味深い。
さて、今日においても、シリアやイラクなどイスラム国の現状を見れば、人口の歴史の悪夢を見ているようである。
人類は、危機に直面した時に選択を誤り、人口の自己保全の力が損なわれるとして、1958-62年における中国の大躍進政策下で集団労働体制の強制が招いた壊滅的結果や、1932-33年にソ連で起きた農村地帯における集団農場下での被害の拡大などを上げているのだが、ポルポトもそうであろう。
戦争の悲惨さを思えば、胸が痛むが、今や、国家間の戦争ではなく、自国内で、自国人が自国人を弾圧し殺戮すると言う悲劇が、地球上を襲っている。
昔、フィリピンで、ベトナム・ボートピープルの難民キャンプを視察する機会があり、貧しくて悲惨な生活状況と木端のような木造の破船を見て、どうしようもない程ショックを受けて身につまされて茫然とした経験があるのだが、
今現在でも、シリアなど中東難民やアフリカ難民が、EUに向かって地中海上で漂流している。
アメリカ新大陸がオープンであった頃には、ヨーロッパから大挙して移民が、アメリカやブラジルなど新天地を目指したが、今や、先進国は必死になって移民難民を排除しようとしている。
グローバル時代と言っても、モノとカネと情報は、自由に国境を越えても、ヒトは、自由に国境を越えられないのである。
旧石器時代には100万人、新石器時代には1000万人、青銅器時代には1億人、産業革命時代には10億人であった人口だが、それが、
国連の推計では、2025年に80億人、2043年に90億人に達する。
2083年には、100億人に達し、2100年には、101億2,000万人となり、その時点で、ほぼ成長率ゼロの静止人口となる。と言う。
2010―50年の世界人口増加分のほぼすべてが発展途上国によるもので、人口がピークアウトした時点では、人口の3分の1以上はアフリカ人だとも言う。
さて、地球には「収容力」と言うべき持続可能な人口の限界があるとするのが、人口学者の通説だが、学者によって色々な推計値があり、楽観論では1,460億人と言った数字もあるが、
比較的バランスのとれたスミスの推計(1994年)によると、生産・配分・消費の体系に依存する非効率性や不合理性、そして無駄が現実的な割合で削減された場合には、現在の消費水準で20億人から25億人が追加的に生存可能となり、生産投入を増やせば――バイオテクノロジー分野で革命的な進歩が起きれば勿論のこと――さらに20億人から25億人が暮らせるようになると言い、著者は、21世紀には地球全体で100億人から110億人が暮らせるようになると考えるのが現実的であろうと言う。
宇宙船地球号が、どこまで。人口増に堪え得ることが出来るのか、マルサスの亡霊が現れては消え、消えては現れると言う歴史を繰り返しているのだが、経済学的観点から収穫逓減の法則に基づけば、遅かれ早かれ、生活水準は低下して行く。
人類が拠り所とする土地、水、大気、その他天然資源のいずれもが固定され量が限られた資源であって、代替できても一部に止まり、それ故に成長の制約要件となり、
更に、人口増による工業化による汚染や、農業、工業、住宅開発などの人間活動の活発化によって、生態系の破壊に繋がって行く。
また、人口成長によって、食料や資源需要に圧力がかかると、個人や集団や国家同士の競合と対立が避けられなくなり、更に、人間の健康や社会秩序にとっても脅威となって、永遠の人口増など望み得ないと言うことである。
このような悲観論に対して、人口の規模拡大を可能とする適応能力に全面的に信頼を置く学説もあり、これによると、技術革新によって天然資源の代替が可能となり、農業生産は拡大するなど生活環境の制約条件はクリアされて行くと言うのである。
現在、食料やエネルギー、天然資源などの物価水準は、歴史的には低水準にあり、供給が不足すれば価格が上がるが、技術革新が促されて、生産性が向上し、資源の代替や新製品が登場などで、生産の無制限な上昇が可能だとする。
たとえ、これらの営みが環境劣化を招いても、内部化が可能であり、世界人口が享受する物的および経済的豊かさは科学と経済の進歩によって絶えず向上しており、この状態が変わることはないと主張している。
さて、現状認識には、個人差があって断言はできないが、地球温暖化など深刻な環境の悪化を伴って人類の未来に対しては警告信号が点滅はしているが、科学技術の進歩と言うべきか、政治経済社会システムの好循環がそうさせるのかは疑問だとしても、どうにかこうにか、現在のところは、食糧事情も含めてマルサスの悲観論は、クリアして来ているように見える。
著者は、人口の歴史は、制約と選択の間の妥協の連続であったと言う。
制約要件とは、過酷な環境や疾病、食料確保上の制約、資源、危機に直面した今日の環境、選択の要素とは、結婚と出産、流動と移動と移住、病気からの自己保全で、これらを柔軟かつ戦略的に調整しながら、その相互作用によって生み出された人口の均衡点の変遷によって、人口は、成長と停滞および減退を繰り返してきたと言うのである。
この本では、著者は、悲観論も楽観論も、どちらにもくみしないとは述べているのだが、これまでの推移を分析して、近い将来においては、食料供給が、人口の制約要因となることはないし、また、生産や生活水準維持に必要な再生産不可能資源についても、埋蔵量や価格の推移、技術革新による代替の確保等、懸念しているようには思えない。
私自身は、これまで、何度か、人類の環境破壊の問題をテーマにして論じて来たが、この宇宙船地球号は、このまま、永遠に人類の文化文明基地として永続し続けて行く筈がなく、どこかの時点で、プラトンの説いたアトランティスのアクロポリスのような運命を辿るような気がしている。
この本は、人口学の視点から、人口成長の歴史、先進国と貧困国の人口問題などを論じながら、南北問題、人口格差、経済格差などと言った分野にも言及し、例えば、エイズの流行にもスポットを当てるなど、多岐に亘った論述が興味深い。
さて、今日においても、シリアやイラクなどイスラム国の現状を見れば、人口の歴史の悪夢を見ているようである。
人類は、危機に直面した時に選択を誤り、人口の自己保全の力が損なわれるとして、1958-62年における中国の大躍進政策下で集団労働体制の強制が招いた壊滅的結果や、1932-33年にソ連で起きた農村地帯における集団農場下での被害の拡大などを上げているのだが、ポルポトもそうであろう。
戦争の悲惨さを思えば、胸が痛むが、今や、国家間の戦争ではなく、自国内で、自国人が自国人を弾圧し殺戮すると言う悲劇が、地球上を襲っている。
昔、フィリピンで、ベトナム・ボートピープルの難民キャンプを視察する機会があり、貧しくて悲惨な生活状況と木端のような木造の破船を見て、どうしようもない程ショックを受けて身につまされて茫然とした経験があるのだが、
今現在でも、シリアなど中東難民やアフリカ難民が、EUに向かって地中海上で漂流している。
アメリカ新大陸がオープンであった頃には、ヨーロッパから大挙して移民が、アメリカやブラジルなど新天地を目指したが、今や、先進国は必死になって移民難民を排除しようとしている。
グローバル時代と言っても、モノとカネと情報は、自由に国境を越えても、ヒトは、自由に国境を越えられないのである。