萬歳楽座は、能楽笛方藤田流宗家の藤田六郎兵衛が主催する観能の会で、「お客様に楽しんで頂ける「能楽」と「囃子音楽」ということをコンセプトにしてプログラムを組んでいると言う。
かんぜこむ によると、
今回の第9回萬歳楽座は、
平成26年4月10日(木)18時30分
国立能楽堂
能『恋重荷 古式』梅若玄祥
能『千手 重衣之舞』観世清和
庭掃除の老人が白河院の女御に恋をします。
その思いを諦めさせようと女御がさせたことは…?
能『恋重荷』。
平重衡と千手の美しくもはかない
別れの物語、能『千手』。
藤田宗家が、叶わぬ恋・束の間の愛 と銘打った公演であった。

式能をはじめ、かなり、正式の能楽協会主催の能の公演には出かけているつもりだが、この日の公演には皇室からの臨席もあり、終演後には、黒塗りの車が10台以上、狭い能楽堂の庭にひしめくと言う日頃とは違った一寸したお祭り気分の観能会であった。
さて、今回の2曲は、村上湛教授によって構成・再編成された、新小書バージョンで、これまでのとは違うと言う。
これまで、観世流と金春流の「恋重荷」の舞台を観ているので、この方の演出などの違いについては、多少分かったが、「千手」の方は、初めての鑑賞であったので、違いなどは勿論分からないし、舞台鑑賞について行くのがやっとであった。
「恋重荷」は、
白河院の女御(片山九郎右衛門)に恋をした庭番の老人・山科荘司(梅若玄祥)が、女御の戯れで、巌を綾羅錦繍で包んだ重荷を持って庭を百たび千たび廻れば、今一度姿を見せようと言うのを信じて、何度も必死になって持ち上げようとするのだが、精根尽き果て、弄ばれたことを怨み、死んでしまう。
臣下(宝生欣哉)の勧めで莊司が死んだ庭に姿を見せると、莊司の怨霊(梅若玄祥)が現れて、恨みを述べ激しく責め立てるのだが、亡き後を弔ってくれるのなら、女御の守護神になろうと言って消えて行く。
何回観ても、まだ、能鑑賞の経験が浅いので、記憶も定かではないのだが、今回の舞台で、大きく違っていたのは、後場での、莊司の怨霊の女御への恨み辛みへの対応である。
原曲でも因果応報と言うことで、莊司を憐み重荷に向かって跪きしおる女御が、「盤石に押されて」立ち上がれなくなるのだが、今回は、その後、怨霊が女御を橋掛かりに追い込んで威圧するように上から覆いかぶさったり、重荷を持ち上げて、正中でしおる女御の背後に回って、その重荷を背中へずっしりと載せて抑え込んで、「さて懲り給へや、懲り給へ」と、激しく折檻して責めつけるのである。
前回の「恋重荷」の項で、感想を書いたので詳しくは端折るが、私自身は、女御の重荷を持たせようとした意図は、老人の恋を諦めさせようとした試みではなく、徒然なるままの戯れであり、そして、守り神になると言う霊の意図は、女御への最高の愛ではなくて、仕返しではないにしても、未来永劫女御に付き纏って離れないと言う莊司の思いの実現であって、まして、自分の霊を弔って貰いながら、女御を守りつつ離れないと言うのは、現世では望み得なかった願ってもない結末ではないかと思っている。
能「千手」は、平家物語や吾妻鏡をベースにした南都焼き討ちで勇名を馳せた平重衡と、鎌倉に囚われの身となっていた時に、頼朝の計らいで遣わされた、政子付きの女房であった千手との儚い愛情物語で、重衡が勅命を受けて鎌倉から再び都へ上る最後の二人の別れの悲痛を謡った能で、運命が確定している重衡の極限状態での唯一の支えであった千手との束の間の恋が悲しい。
シテ/千手の前を観世流宗家の観世清河寿、ツレ/平重衡を大槻文藏、ワキ/狩野介宗茂を宝生閑と言う豪華な布陣で、橋掛かりを退場する二人を見送って、千手の前が、舞台正面に中座してしおるラストシーンが悲しくも美しい。
先日観た能「屋島」も、平家物語をベースにした義経の物語なので、稿を改めて、平家物語との思いを交えながら、考えてみたいと思っている。
かんぜこむ によると、
今回の第9回萬歳楽座は、
平成26年4月10日(木)18時30分
国立能楽堂
能『恋重荷 古式』梅若玄祥
能『千手 重衣之舞』観世清和
庭掃除の老人が白河院の女御に恋をします。
その思いを諦めさせようと女御がさせたことは…?
能『恋重荷』。
平重衡と千手の美しくもはかない
別れの物語、能『千手』。
藤田宗家が、叶わぬ恋・束の間の愛 と銘打った公演であった。

式能をはじめ、かなり、正式の能楽協会主催の能の公演には出かけているつもりだが、この日の公演には皇室からの臨席もあり、終演後には、黒塗りの車が10台以上、狭い能楽堂の庭にひしめくと言う日頃とは違った一寸したお祭り気分の観能会であった。
さて、今回の2曲は、村上湛教授によって構成・再編成された、新小書バージョンで、これまでのとは違うと言う。
これまで、観世流と金春流の「恋重荷」の舞台を観ているので、この方の演出などの違いについては、多少分かったが、「千手」の方は、初めての鑑賞であったので、違いなどは勿論分からないし、舞台鑑賞について行くのがやっとであった。
「恋重荷」は、
白河院の女御(片山九郎右衛門)に恋をした庭番の老人・山科荘司(梅若玄祥)が、女御の戯れで、巌を綾羅錦繍で包んだ重荷を持って庭を百たび千たび廻れば、今一度姿を見せようと言うのを信じて、何度も必死になって持ち上げようとするのだが、精根尽き果て、弄ばれたことを怨み、死んでしまう。
臣下(宝生欣哉)の勧めで莊司が死んだ庭に姿を見せると、莊司の怨霊(梅若玄祥)が現れて、恨みを述べ激しく責め立てるのだが、亡き後を弔ってくれるのなら、女御の守護神になろうと言って消えて行く。
何回観ても、まだ、能鑑賞の経験が浅いので、記憶も定かではないのだが、今回の舞台で、大きく違っていたのは、後場での、莊司の怨霊の女御への恨み辛みへの対応である。
原曲でも因果応報と言うことで、莊司を憐み重荷に向かって跪きしおる女御が、「盤石に押されて」立ち上がれなくなるのだが、今回は、その後、怨霊が女御を橋掛かりに追い込んで威圧するように上から覆いかぶさったり、重荷を持ち上げて、正中でしおる女御の背後に回って、その重荷を背中へずっしりと載せて抑え込んで、「さて懲り給へや、懲り給へ」と、激しく折檻して責めつけるのである。
前回の「恋重荷」の項で、感想を書いたので詳しくは端折るが、私自身は、女御の重荷を持たせようとした意図は、老人の恋を諦めさせようとした試みではなく、徒然なるままの戯れであり、そして、守り神になると言う霊の意図は、女御への最高の愛ではなくて、仕返しではないにしても、未来永劫女御に付き纏って離れないと言う莊司の思いの実現であって、まして、自分の霊を弔って貰いながら、女御を守りつつ離れないと言うのは、現世では望み得なかった願ってもない結末ではないかと思っている。
能「千手」は、平家物語や吾妻鏡をベースにした南都焼き討ちで勇名を馳せた平重衡と、鎌倉に囚われの身となっていた時に、頼朝の計らいで遣わされた、政子付きの女房であった千手との儚い愛情物語で、重衡が勅命を受けて鎌倉から再び都へ上る最後の二人の別れの悲痛を謡った能で、運命が確定している重衡の極限状態での唯一の支えであった千手との束の間の恋が悲しい。
シテ/千手の前を観世流宗家の観世清河寿、ツレ/平重衡を大槻文藏、ワキ/狩野介宗茂を宝生閑と言う豪華な布陣で、橋掛かりを退場する二人を見送って、千手の前が、舞台正面に中座してしおるラストシーンが悲しくも美しい。
先日観た能「屋島」も、平家物語をベースにした義経の物語なので、稿を改めて、平家物語との思いを交えながら、考えてみたいと思っている。