熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場十二月文楽公演・・・盛綱陣屋と八百屋お七

2009年12月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立劇場の文楽は、大坂冬の陣を舞台にして、敵味方に分かれた真田昌幸と真田幸村兄弟の悲劇を主題にした「近江源氏先陣館」と八百屋お七の「伊達娘恋緋鹿子」であったが、この年末真冬の東京の公演には、恒例で国宝級の大夫たち三業の出演はなく、次代を背負うスター選手以下のスタッフで演じられている。
   前者では、やはり、「盛綱陣屋の段」がメインで、桐竹勘十郎が盛綱、その母微妙を和生、和田兵衛秀盛を玉女が遣い、浄瑠璃と三味線は、前が千歳大夫と清ニ郎、後が文字久大夫と錦糸で、非常に迫力のある気合の入った舞台を展開しており、楽しませてくれた。

   昔の武士の世界では、天下の体制がどちらに転んでも、子孫が生き長らえられるように、子供たちを敵味方両方に割り振って仕官させる場合が多く、この場合も、大坂方と家康側に別れて戦った兄弟の悲劇がテーマで、幼い子供が犠牲となる。
   あの菅原伝授手習鑑の松王と梅王・桜王の物語も、敵味方に分かれた兄弟の悲劇が描かれているが、義理人情と血を分けた兄弟の思いが錯綜して、物語や芝居には格好のテーマである。
   この文楽では、敵を欺くために、子供に言い聞かせて、囮として生け捕りにされ、自分の偽首が届いたら切腹せよと言い含めて送り込まれた子供の物語が重要なサブテーマなのだが、その切腹話を狂言回しで展開する祖母微妙の心の疼きやその起伏など、盛綱より、こちらの方が主題だと思えるほど良く出来た物語だと思って見ていた。

   勘十郎の威厳と風格を備えた盛綱、玉女の豪快な荒武者和田、孫に切腹を迫らなければならない苦渋の祖母微妙を遣った和夫など実に感動的で、それに、はつらつとしてパンチの利いた浄瑠璃と三味線の冴えなど、今、芸に一番油の乗ったベテランの芸術家たちの躍動感溢れる舞台であった。

   これは、経営戦略論でも有効で、スライウォツキーの「ダブル・ベッディング論」の二股戦略などその典型であろう。
   例えば、ソニーの場合には、一世を風靡したウォークマンを、アップルがiPodを開発した時に、その方面にも経営資源を振り向けて、平行状態で技術開発戦略を打つなどダブル・ベッディングして置くべきだったのに、それをミスったためにアップルに負けてしまったと言った類である。
   同じことは、はるかに技術水準の高かった筈のプレイステーションが、任天堂のWiiにコテンパンにやられているにも、このダブル・ベッディング戦略の失敗である。
   昔、中央アジアの小国などでは、絶えず強国の蹂躙や戦争で滅ぼされる危機的状態にあったのだが、たとえ男どもが皆殺しにあっても、女さえ残っておれば、血が繋がると考えていたと言うのを、何かの本で読んだのだが、無性に複雑な気持ちになったことを覚えている。

   新鮮な感慨を覚えたは、後半の「伊達娘恋緋鹿子」の方だが、お七を遣った清十郎が実に上手い。
   私が知った最初の八百屋お七は、自分たちの家が焼けて近くの寺に避難していたお七が、寺小姓に恋をして、会いたいばっかりに、家が焼ければ寺に行って会えると思って自家に火をつけたと言う実話に近い話であった。
   もう何十年も前になるが、英国からのお客さんの接待で、京都の柊屋に宿泊した時に、省略版のミニ日本古典芸能ショーの切符をもらって出かけたのだが、その時の人形浄瑠璃の場が、このお七が火の見櫓の梯子を上るシーンで、初めて見た文楽の世界であったので、赤い衣装が鮮明に脳裏に残っている。
   
   この江戸に起きた絶世の美女お七を真っ先に取り上げて「好色五人女」を書いたのが井原西鶴で、ここでは、まだ、お七の自家放火の話が残っているのだが、今回の「伊達娘恋緋鹿子」では、歌舞伎の舞台同様に、お七が放火するのではなく、暮六つで閉まる木戸を開けて貰うために、火の見櫓に駆け上がって禁止されている鐘を打って火あぶりの刑に処せられるのである。
   天国の剣を、恋しい吉三郎に届けなければ切腹せざるを得なくなるので、それを届けたい一心で、火刑覚悟で、火の見櫓に登って鐘を叩き、閉まってしまった木戸を開けさせて、吉三郎へ向かって突進すると言う話になっているのである。
   いくら絶世の美女と天下を騒がせても、所詮は16歳の幼い乙女。お上は15歳なら許すと温情を示したが、16歳だと言い張って火炙りになったと言うのが如何にも哀れだが、後の話では、その幼い一途の思いが、一寸知恵の回った女になってしまって、物語としては面白いが、感慨を欠く。

   歌舞伎の場合には、火の見櫓の梯子は、下手側の側面にあるのだが、文楽では、正面に梯子があって、人形遣いが背後に回って人形を遣うので、あたかも人形が梯子に張り付いて登って行く姿が、実にリアルで美しく演じられており、非常に感激する。
   このシーンでは、人形遣いの姿が全く見えないので、人形が自力で生きているように梯子を上って行く感じで、やはり、生身の役者が演じる歌舞伎とは違った文楽の良さである。
   このシーンも勿論だが、最初の物思いに沈んだお七から徐々に変身して行く恋する乙女の表情を、実にいききと遣い続ける清十郎の芸の冴えは特筆すべきで、今、一番脂の乗り切った女形人形遣いであると思う。
   歌舞伎の場合には、この火の見櫓の場は、お七が人形振りで、ぎこちなくギクシャクした格好で演じられるのだが、実際には、人形の動きは、実に真に迫って生き生きしているのである。
コメント
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