連日のように報道される「新型コロナウイルスの自宅療養中の死亡」。
この「自宅療養中の死亡者」が増えている中、政府は「入院拒否者に対し懲役刑」という趣旨の政策を出している。
この「入院拒否者に対し懲役刑」に、違和感を感じられた方は多いと思う。
入院をしたくても「自宅待機による療養」を指示されている方が、多いからだ。
政府が「入院拒否者に対して懲罰」と考えたのは、「新型コロナ」が感染拡大し始めた1回目の「自粛要請」中に、相次いだ「俺、コロナ」と言って出歩き、感染者を増やした人がいたためだろう。
しかし、この「俺、コロナ」の人たちが問題になったのは、半年以上前の話だ。
しかもこの時は、病院そのものも今より余裕があった頃だった。
今のように「医療崩壊」さえ指摘されるような状況に陥っているのに、「入院拒否者」に対して懲役というのは、いかにも的外れな政策だと、感じるのは当然かもしれない。
それだけではなく「懲役刑」というのは、重すぎるのでは?と、感じている。
確かに「俺、コロナ」のオジサンたちによって、亡くなられた方がいらっしゃるのは、事実だ。
遺族の方からすれば、懲役刑も当然という気持ちだろう。
であれば、命を脅かすような行為全般が懲役刑の対象となっているのか?という、疑問も出てくる。
「新型コロナ」に限って「懲役刑」というのは、他の刑事罰に比べてどうなのか?という、検討がされたような気配が無い。
唐突にこの政府案が出てきて、可決するような勢いなのだ。
このような、唐突な政府の政策を見るたびに「何故、後手後手の政策」が誇らしげに提出されるのだろう?と、疑問に感じている。
特に「新型コロナ対策」に関しての政策は、「後手後手×4」位の「後手後手さ」を感じている。
その理由の一つとして考えられるのが、「経済を動かす」という言葉だ。
確かに「経済」を動かさなくては、国民生活が危ぶまれる。
「国民生活が危ぶまれる」ということは、企業の収益をはじめ税収が減ってしまう、ということを示している。
残念なことに、国が考えているのは「企業の収益と税収が減る」ということばかりのような気がするのだ。
本来の「経済を動かす」ということは、「国民が安心して生活できるようになり、経済活動に参加できる環境」にならなければ「経済を動かす」ことはできないはずなのだ。
にもかかわらず、政府が考えているのは「企業の収益と税収」だけなのでは?
そのため、的外れな「Go Toキャンペーン」に1兆円以上の予算を、計上したりできるのではないだろうか?
上述したように、国民の生活や実態を見ようとしないために、後手後手の政策を次々と打ち出し、全く成果が上がらず、最終的には「国民一人ひとりの良心ある行動」に頼らざる得ないのだ。
そしてこの1年、何とかやり過ごしてきたのでは、ないだろうか?
今や「国民一人ひとりの良心ある行動」に限界がきている、という認識も理解もできていないし、自民党の派閥の領袖・石原伸晃氏が陽性者となり入院するまで、危機感すら無かったのでは?
毎日新聞には、「国民の命と生活を守る機能的な政治」という見出しの、有料会員向け記事がある。
今求められているのは「国民の命と生活を守るということは?」という、一人の国民目線で社会を見た危機感と問題点を知ることが、政治家にもビジネスパーソンにも求められているのではないだろうか?
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