「国際婦人年」を前に、毎年発表される「ジェンダーギャップ」。
今年の日本は、過去最低の125位だったようだ。
朝日新聞:男女平等、日本は世界125位で過去最低 ジェンダーギャップ報告
これまでも日本のジェンダーギャップについては、先進諸国の中でも低い順位にあった。
そして、毎年のように下がっていった、という印象を持っている。
順位が下がった理由は、おそらく諸外国の改善努力の結果なのでは?という、気がしている。
言い換えれば、この「ジェンダーギャップ報告」がされるようになってから、日本は男女平等について努力をさほどしてきていない、ということなのだと思う。
では何故、ジェンダーギャップ報告が毎年され、問題点の多くが指摘されながら改善されないのか?という点が、一番の問題なのではないだろうか?
その背景にあるのが「糟糠の妻」や「良妻賢母」という、結婚した女性に対する理想像を未だに社会が信じている、ということのような気がする。
「糟糠の妻」というのは、経済的に豊かではなくても、しっかり家計を運用する能力の高さを示す意味がある。
いかに少ない収入であっても、無駄を出さず、家計をやりくりできる、優秀な主婦像だ。
このような、少ない収入であっても家計をやりくりできる能力があれば、今の時代多くの企業の経営陣が必要としている能力のようなものだ。
それは、赤字国債を発行し続け、これと言った経済政策を打つことができない政治家や官僚についても、求められる能力かもしれない。
「良妻賢母」についても、良きパートナーであり、賢い養育者と考えれば、その能力は今の社会に求められている能力だと言えそうだ。
それらの言葉を家庭と結びつけ、縛り付けているのだとしたら、社会的損出だろう。
にもかかわらず、それらの優秀な能力を活用できないのは、ある種の固定観念に縛られているからなのでは?
一つは、主婦は社会参加の対象者ではない、という思い込みだろう。
もう一つは、これらの言葉の中には「無償」が含まれている、という点だろう。
それは「父権主義」という社会文化の中だったからこそ、暗黙の了解として、認められてきただけに過ぎない。
いずれにしても「糟糠の妻」も「良妻賢母」も、家庭という場に限定して使われる言葉だ。
確かに、社会経験のない主婦が、いきなり企業で仕事を始めても、戸惑うばかりで仕事にならない、ということは度々起こるだろう。
それは「企業で働く」という、経験の無さからきていることなのだが、年功序列的な感覚でいえば、「歳だけ取った未経験者」は労働力として下に見られても当然、という暗黙の了解があり、十分なスキルアップのチャンスさえ与えられていない、という場合も多々あるのでは?
上述したように、「糟糠の妻」や「良妻賢母」と言った能力は、むしろ性別を問わず経営者や政治家に求められる能力の一つ、なのではないだろうか?
男性優位、権力主義的「父権主義」に固執する思考が続けば、日本の力(特に経済面)が低下し続けるような気がするのだ。
まぁ、(か弱い)女性の一生を庇護し続けてくれる男性を求める女性がいる、ということも確かだとは思うのだが…。