昨日書店へ行った時、目にとまったテキストがあった。
NHKのE-テレで放送される「100分で名著」だ。
9月からの放送予定のハンナ・アーレントの「全体主義の起源」だった。
トランプ大統領登場前後から、なんとなく世界各地で感じる「自国ファースト志向」に、息苦しさのようなものを感じているのは、私だけではないと思っている。
その「息苦しさ」の要因の一つが、「全体主義」と言われる「排他的社会」なのでは?という、気がしている。
何より私に興味を引かせたのが「エルサレムのアイヒマン」の著者であった、という点だった。
ご存じの方も多いと思うのだが、「アイヒマン」という人物は、「全体主義」の象徴ともいえるヒットラーを支えたナチス親衛隊の中佐だ。
ヒットラーの命令に従い、ユダヤ人大虐殺を行った中心的人物でもある。
南米へ逃亡するも、逮捕をされエルサレムの裁判で死刑を言い渡され、絞首刑となるのだが、エルサレムで行われた裁判では、常に冷静で凡庸な普通の人物であり、「自分は命令に従ったまでである」という主張をした人物でもあった。
テキストを読み進めていく中で、今感じている「排他的社会」が「全体主義」へと発展していく過程の一つであり、それを推し進めるのは、政治家ではなく大衆である、ということに気づかされる。
それは「国の成り立ち」とも大きく関係し、第二次世界大戦以前から続く「民族と国、あるいは帝国主義」による、異質な人(人種、宗教、イデオロギーなど)を排除し支配関係をつくりあげる、という視点で書かれている。
それがいまだに解決することなく続き、今のシリア問題、場合によってはダーイッシュ(IS)の台頭を生み出す結果となっているのでは?という、気がしてきたのだ。
ただ、昨日ミサイルを打ち上げた北朝鮮については、「全体主義」的な体制であるとは思うのだが、アーレントが指摘しているほどの複雑さを持つ「全体主義」的なモノは感じてはいない。
単なる「気まぐれな独裁者」が、国内においては恐怖政治をしき対外的瀬戸際外交を続け、言葉での主張(=外交)ができない為に、力で自分を誇示しているように見える。
随分前にも取り上げた「カミナリグモ」の「王様のミサイル」という、楽曲そのものが今の北朝鮮の姿なのでは?という気がしている。
もちろん、共通している点はある。
それが、アーレントが指摘した「考えることをやめるとき、凡庸な「悪」に囚われる」ということだ。
その象徴であり具現化した人物こそが「アイヒマン」その人であり、今の社会は「第二のアイヒマン」を生み出す環境が整い始めているのでは?と、感じる部分でもある。
「考えること」の一つは、他者との関係から生まれてくることだと思う。
「異質なモノ・コト、何よりも人を受け入れる」ということはエネルギーだけではなく、自分自身を考える力が必要になる。
「自国ファースト」が声高に言われる今だからこそ、「考えること」が必要だと思う。