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浜田屋遼太

世の中のために何の役にも立たないブログ  お暇なお方は是非どうぞ(^^♪

ボケ防止

2021-04-15 | 定年波止場

最近物忘れがだんだん激しくなってきて、いつか認知症になるのではないかと不安である。

物忘れともうひとつ、度忘れというのもあります。

度忘れは若い人にも結構あって、物忘れとは違う。

誰でも歳をとれば認知症になる可能性がある。

どんなお金持ちでも、頭の良い人でも、人間であれば誰しもなる宿命みたいなものである。

一番の予防法は血圧のコントロールだそうですが、人との交流が一番大切みたいです。

人と話をするというのは、ものすごく高度な能力を使う。

相手の言うことをまず理解し、それに返事をする。

これを繰り返すことはとてもいい訓練になる。

納得です。

読むことも良い。

何かを読むことで温かい気持ちにさせてくれる。

雑誌でも文学書でも、とにかく読んだほうがいいらしい。

これも納得。

そして書くこと。

ブログネタを探して書くことは、その内容はともかく自分にとってはボケ防止に一役立っているのではないか、と思っている。

これも自分勝手に納得。

プロ野球で三割バッターは一流の証、ブログなら一割の確率でもいい記事が書けたらそれでいいのかなぁ…

なんて思って続けています。

かれこれ15年目になります。

 

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健康雑誌

2021-04-09 | 定年波止場

特に何を買おうという気はなくても、フラリと本屋に入ることがある。

本屋に入って、何気なく雑誌などを眺めているうちに、フト、健康関係の雑誌が目に入る。

「壮快」とか「安心」とか「わたしの健康」とか、そういったたぐいの雑誌…

そういったたぐいの雑誌の表紙には、「ドクダミで手足のしびれが治った」とか。

「スギナ茶で耳鳴りめまい不眠が治った」「根昆布で悩み続けた夜間頻尿が治った」などの「治った」関係の記事の見出しが大きく出ている。

そういう見出しに心をひかれ、「ホー」と感心してその中の一冊を取り上げる。

パラパラとめくって、「フム」とうなずく。

この「ホー」から「フム」に至る時間が短ければ短いほど、その人の高齢者率指数度は高いといわれる。

人間も若いうちは、「フト」もなにも、健康雑誌など視野の中に入っているはずがない。

ドクダミだの、スギナ茶だの、根昆布だの、朝鮮人参だのの文字に関心を持つわけがない。

そういうたぐいの健康雑誌ではなく、むしろ「脱いだ」とか「見えた」とかの身体の一部の部分的健康雑誌に関心が向かう方が、むしろ健康なのである。

ところがどういうわけか、人間も折り返し点を過ぎたあたりから、ドクダミ、スギナ茶、根昆布といった言葉に妙に懐かしさを覚えるようになる。

クロレラとか深海鮫エキスとかローヤルゼリーとか、そういった言葉にも心が躍るようになる。

耳鳴り、しびれ、めまい、といった言葉も身近で心やすいものとなる。

かすみ目、ぜんそく、腰痛、頻尿などの文字も、何だか心楽しく目に映る。

血糖値、コレステロール、GOT、尿酸値などの文字は、これはもう日常茶飯の会話そのものだ。

「バカ、ケチ、マヌケは酢を飲まない」と言われれば、これまで酢を飲まなかった自分を深く深く反省する。

このように健康雑誌には、表紙からすでに自分が待ち望んでいた文字、心が躍る文字、心楽しい文字ばかりが並んでいるのである。

 

 

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旨いビールが飲みたい

2021-04-07 | 定年波止場

なにがうまいの、かにがうまいのといっても、結局のところお腹をすかせて食べるものが一番おいしいのである。

「すきっ腹に、まずいものなし」と昔の人も言っている。

「ウーン、このレストランのステーキの肉は、どうも旨くありませんな」

「そうですな、やはり○○レストランの松坂牛の炭火焼、あれは美味しいですからねぇ」

などと話しながら食べている人は、要するにお腹がすいていない人なのである。

山登りなどして、山頂で食べた梅干し入りのおにぎりが、いかに美味であったか。

大抵の人は記憶があると思う。

こういうときに、おにぎりを食べながら「ウーン、このおにぎりのコメはどうも旨くないですなぁ」

「やはり宮城県のササニシキか新潟県のコシヒカリで握ってくるべきだったですな」などという人はまずいない。

おにぎりの中身たる梅干しについて言及する人もまずいない。

山頂で食べるおにぎりは、とにかくうまいのだ。

とにかくうまいものを食べたいと思ったら、とりあえずお腹をすかすことだ。

それには、とりあえず運動をすることだ。

マラソン大会で走り終わった後、疲れた足を温泉につかってモミモミとほぐし、内と外がぽかぽかになった後、カラカラに乾いたノドに流し込む冷たい生ビールの旨さ。

あれこそまさに、アタクシのささやかな人生のなかでは、大きなヨロコビであったのだ。

ということで、まずは歩くことから始め、そして少しづつ走れる体制に持っていきたい。

BS3の旅ランを見てたら、急にそう思った夜であったのでした。

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年寄りの喜び

2021-04-07 | 定年波止場

昔は何の苦も無くスッと出てきた人の名前が、今はなかなか出てこなくなってきた。

特にタレントとか俳優、政治家とか小説家の有名な人ほど出てこない。

その人の風貌も、眉も、目も、声も、しゃべり方も、目の前にありありとクッキリ浮かび上がっているのに名前だけが出てこない。

ノドのところまで出かかっているのに出てこない。

同居ババと二人して、「ホラ、あの、その映画にあのもう一人のあの俳優と一緒に出ていて、ホラ、別の映画では渋い脇役で有名な…」

「うん、それ、その人」と全体として「ホラ」とか「あの」しか言ってなくて、特定しているのは「渋い脇役」だけなのだが、話は充分に通じているのだ。

なのに名前がどうしても出てこない。

二人がかりなのに出てこない。

昼頃こういうことがあって、夕方になっても名前が出てこず、夜になっても出てこず、フトンに入っても出てこない。

何だかノドにつっかえているようで一日中イライラし、寝ても眠れず、はなはだ身体によくない。

それが「あの映画に、あのもう一人のあの俳優と一緒にでていたあの人」の名前が分かったときの喜びは、はかりしれない。

余勢をかって、もう一人にとりかかり、ひょんなきっかけで名前が判明したとなれば、もう天にも昇る心境だ。

ノドのつっかえがいっぺんに取れ、頭のモヤモヤは消え去り、肩のコリは取れ、血圧は下がり、コレステロールは正常に戻り、γ-GTPは下がり、頻尿も収まる。

若い人では絶対に味わうことができない。

歳をとらなければわからない喜び、というものがあるのであった。

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今年のお花見

2021-04-06 | 定年波止場

人間、歳をとってくると頑固、偏屈、依怙地になる。

依怙地とは、そっちのほうがそうくるならこっちはその反対でいく、というイコジ。

じいさんの頑固、偏屈、依怙地とはどんなものか。

まずお上による最近の「許してやる」という態度、あれが気に入らない。

コロナ禍の緊急事態宣言を「解除してやる」という物言い。

「解除してやるかわりに、あんまりいい気になるなよ」というエラソーな言い方。

これに反発して依怙地になったじいさんがいます。

どこの誰とは言いません。

というか、すぐ身近、というかすぐ目の前、当人に近いけど当人ではないというじいさん。

時はあたかもお花見シーズン。

お花見に行ってもいいけどあんまり騒ぐなよ、歌うなよ、飲み食いはやるなよ、というお達し。

「盛大にやろうじゃないか、お花見を」とじいさんは依怙地になった。

もちろんこのじいさんは良識あるじいさんなので、あんまりヘンなことはしない。

でもちょっとだけする。

このシーズンになるとデパートあたりはお花見弁当を一斉に売り出す。

豪華、高価、2千円、3千円はザラ。

どれもこれも美味しそう。

だけどこのお花見弁当を素直に食べたのでは、依怙地じいさんの名が廃る。

部屋を暗くしてお花見弁当を食べる。

しかし何だか癪だ。

癪にさわる、というじいさん特有の心理である。

何とかして仕返しをしたい。

そうだ、いいこと考えた。

弁当を食べないお花見。

ざまあみろ的な心境になって気が晴れる。

弁当は写真で眺めることにする。

写真で眺めて食べたつもりにする。

人間その気にさえなれば、成し遂げられないものはないのだ。

時あたかも目の前にグルメ雑誌があった。

「キラリ」最新号の「春の贅沢弁当」

まあその美味しそうなこと。

これらの大御馳走が、なにしろ見るだけなのでタダ。

桜の花無し、食べ物一切無しだけど、じいさんの意地、じいさんの仕返し。

年寄りの依怙地には、怨念さえ感じるのであった。

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勾配に敏感

2021-04-05 | 定年波止場

歳をとってくると、いろんなところの感覚が鈍ってくるものだが、逆に鋭敏になってくる感覚もある。

その一つに勾配に対する感覚がある。

昔は全然気がつかなかった勾配に、とても敏感になってきた。

特に上り坂の勾配に敏感になってきた。

ほんのちょっとした上り坂でも、「あぁ、坂だな」とすぐ気づく。

昔は上り坂だか下り坂だか、多少の勾配など気づかずに歩いていたものだ。

これからの世の中では「勾配に敏感」は貴重な才能となる。

老齢化社会は車椅子社会の到来を意味する。

車椅子は勾配に敏感に反応する。

行政はその対策を迫られるようになる。

そのときに備え、いまから勾配感知の才能をさらに磨きをかけ、何とかお金につながらないものか…

などと欲深い考えでいる自分が情けない、と思うのであります。

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昭和の匂い

2021-03-26 | 定年波止場

時代色という言葉があるように、時代にも匂いがある。

だが令和には何故かあまり匂いを感じない。

昭和となると俄然匂いを感じる。

インクの匂い、鉛筆の匂いなんか懐かしい。

学生時代はまだ万年筆があって、ボールペンより万年筆のほうが好きだった。

パーカーやセーラーの万年筆を使っていたと記憶する。

鉛筆は折りたたみ式のナイフで削った。

鉛筆の木の部分を削っていくと木材の匂いがし、芯のところになると工業の匂いがした。

筆箱の中は鉛筆の匂いでいっぱい。

いい匂いだなぁ、と思いつつ「昭和は遠くりにけり」でした。

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おかあさんといっしょ

2021-03-20 | 定年波止場

そうだ、童心だ。

童心は貴重だ、童心は大切だ、ときどきは童心に返ろう、童心に浸ろう、急にそう思いたった。

人生を全部童心でやっていこうとすると大変だが、ときどきならいいのではないか。

某日、テレビで「おかあさんといっしょ」を見た。

2歳から4歳児を対象としたNHKの教育エンターテイメント番組である。

朝起きたばかりの幼児がこれから衣服を身につける、という躾のところをやっている。

幼児の目の前に、シャツとセーターとズボンが折りたたんで置いてある。

さあ、この子はうまくそれらを身につけることができるでしょうか。

幼児がシャツのボタンを上から順に止め始めるが難航している。

上から2番目のボタンを1番目の穴にはめている。

それを続けていくと最後に全部やり直さなくちゃならなくなるぞ。

見ていて気が気じゃない。

いつの間にか自分が幼児の気持ちになっている。

セーターを頭から被って首のところでひっかかってもがいている。

ひっかかると顔全体が覆われて急に周りが見えなくなるので焦る。

焦ってもがいて、前のめりになって…

幼児なんとか窮状を脱す。

よかったよかった、と還暦を過ぎたじいさんはいつの間にか幼児と同じ心境になっている。

心が純情になっていたのだろうか。

孫のような幼児と一心同体になっている。

最近歳のせいか、ふと気がつくとこんな風に童心に返っていることが多いような気がする。

ここで急に不安になる。

自分は今、危なくなっているのではないか。

認知という言葉が急に浮上してきた。

そっちのほうと童心は関係があるのではないか。

思いあたるフシばかりだったりして…

困った。

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終活

2021-03-18 | 定年波止場

終活は無視できない問題である。

いちおう考えておかなくてはならないのだが面倒くさい。

だいたい自分の寿命がわからないのが困る。

わかったら、どれくらい生活費がいるかがわかり、その分だけお金を残せばいいのだが、手持ちのお金をどれくらい使っていいのかわからないのが厄介なのだ。

そのためにまず貯金という人もいるけれど、老後のために貯金をするなんて、まるで人生が老後のためだけにあるようで、つまらない。

確かに全然ないのは辛いけど、それよりも分相応に楽しく生活したほうが、人生は充実するような気がする。

無理しない生活を心がけているが、それでも老化は訪れる。

生老病死は自然の摂理なのである。

入院しなければならなくなったら、延命治療は不要にしてもらいたい。

痛みがあればとってもらいたいが、それ以外は必要ない。

素直に状態を受け入れて、悪あがきはしたくない。

人生の終わりはなるべく簡単に済ませてもらいたいと、残った方々にお願いする次第である。

 

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肝が据わった

2021-03-16 | 定年波止場

還暦を過ぎて感じるのは、自分を取り巻くすべてのものに対して「来るなら来い」

という気持ちになったことだろうか。

どんな人でも、良い時もあれば悪い時もある。

仕事やプライベートで、どうなるのだろうかと心配になった時期もあったのだが、結局は「なるようにしかならない」のである。

なので無用の心配や、取り越し苦労はしない。

それらは確実に身体に悪い影響を与える。

悩んで事態が好転するのならばいいけれど、多くの場合そうではない。

何かしら問題が発生したら、うろたえないでその時に考える。

「なるようにしかならない」を受け入れることである。

でもねぇ…

今後の家族のことや、何か嫌なことに巻き込まれないか、或いは他人から攻撃されたりしないか…

考えたらキリがない、悩みは尽きない、霧は晴れない。

困った。

やっぱり死ぬまで苦労は絶えないのでしょうかねぇ。

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