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10月15日(火) 南京城の中華門と並ぶ明皇城への正門、光華門を見て、郊外、南唐2代の陵墓、戻って時間にあわせ、建康(三国時代呉の都、南京の呼称)時代の、守りの要、石頭城から台城(南京城修復の始まり、日本も協力)の予定で。
まずは近くで朝食、この小龍包は美味しかった。7元 バスに乗って光華門へ
着いたところでここは・・・、
皇城へ続く2キロの御道街の道。
見せ場じゃ・・・、この方が良いかな。。建物もこう迫ってたら・・・、でもここは中国、すぐ引っ越してもらえるのでしょうが、マ!イイカ。
公園でごまかされた感じ。
でも抗日戦での陣地跡はシッカリと。
創建時のレンガは残っています。
裏の家並みの中に紛れ込んだのですが、その中で使われていた石材、城壁基礎の石でないかな~。。
バスで地下鉄駅へ、1号線小行站(郊外)下車、155路で終点祖堂山まで、なぜか4,50分も乗って、ここは1元。優先席のお二人はお墓参り、降りる停留所を迷ってると皆で面倒見ていました。何処も同じ!
通った軟件(ソフト)大道の沿道開発区にある企業群一部。南京は4人に一人は大学生。だからではないでしょうが、でも稼がないことには。。そうこの10年株式会社中国共産党?はお金を求めて狂奔してきました。彼らの勤務評定?
そしてこの開発。
そして空き家の山。ここはいくらか入居していました。でもここじゃー生活が・・・。少し我慢すればそのうち・・・。今回の旅ではこの光景がしばしば入ってきます。
終点下車、オットすぐ横に・・・?警備員出てきて、ここは霊園。この先から入って行くとのこと。
その手の標識が見えます。
振り返った所。メジャーじゃないのかな~。
その霊園の中が見えます。私は15,6年霊園関係に携わっていたので・・・。
この塔は納骨堂ですね!下はまだ土葬区域?
裏の通用口少し開いていたので・・・、ゴメンナサイ~で。日本の霊園以上の規模と整備。
下の写真はカロート(納骨)仕様ですね。今はレーザーで墓石に写真転写できます。海外では結構故人の写真なんか飾りますね、個人墓的です。日本でも近頃はこの個人墓や夫婦墓が増えてきました。
そういえば20年ほど前に上海郊外で霊園の話があって、経営者のお供で・・・。そう、これだけの人口、亡くなってる数もそれ相当、当然墓所の用意ですね。近くには他にも何箇所か霊園(同乗のお年よりも他で降りました)、きっと風水がいいのでしょう(古刹?もあるようです)。このあと地方に入っていくと、畑の中に土饅頭でした。
確実に豊かにはなっているのです。話がそれています。。
と、霊園を出た所、南唐陵へ・・・、ヤギさんのお通り。でもヤギ飼いがいませんが・・・、行き先わかってるのかな~。
南唐二陵到着。当然老人票、近頃日本人が来ないのでもてる?
今から1100年程前、宋に滅ぼされる南京に都を構えた国、唐を名乗っていたのでこの名称。中国の歴史では、南は常に北に隷属、明といえども、3代(実質2代)には都は北京に移っています。北の腕力、南の財力、これは今も??。。
途中で中学生の課外授業が引き上げて行きましたが、他に見学者はいません。撮影禁止の表示・・・、でもフラッシュは使用していませんのでご容赦!その影響かボケボケ、拡大しないほうが解りやすい。。
次は2代李�儲の墓、彼の代で実質滅んでいました。そう宋の前代、後周 柴栄の南征です。この後の旅で攻防の地を通過します。
入口を塞いでいた石だとか、無造作ですね。。
同じく園内にあった博物館!
これだけと言っていいかと。
11時半いい時間です、バスも丁度一往復?ここでの乗客は私だけ11:50発車。1元
この近く4,5キロの所に鄭和のお墓もありますがパス。
運転手さんアズマシクナイ!手上げて来るお客は無視するは、お客居るのに通過するは!日本なら問題だぞ!
戻ったバス停付近のお店の包子、美味しそうでしたがお昼時で並んでいます。並べばよかったな~。。
お金の引き出しや宿でのメールもあるので、一旦宿へ。オ、イチジクだ!途中の露天で、三つか食べたところ、12元?やはり露天は相手で少し吹っかけますね、悪いとは言えないのが中国です。
昼食は牛肉拉面8元、場所によってインフレ。
地下鉄で石頭城へ、地下鉄2号線漢中門下車、歩きで・・・。ところが道路は工事中、工事中だと道は寸断!工事囲いに沿って目指していたのですが、諦め戻り、迂回します。中国の地図は、スケールがない(どこでも一枚に収める)ので思わぬ距離を!
岩崖の上に城壁か~、といった感じ。
城門の一つ、明末閉鎖されていたのを、2003年に再開したと書いています。
過っては長江(揚子江)に面していた?その流れでえぐられた跡?崖の地層は礫交じり堆積岩。
諸葛亮孔明がここを称して云々と書いています。三国時代呉の都 建康の守りとしてこの石頭城は利いていた。。
南京城では城壁として完璧に取り入れています。崖が後退している所は、基礎から城壁。
ここからクライマックス!
日本人観光客も過ってはそこそこいたのか、日本語表記もあります。
石頭城路を抜けた所でバス移動。台城に向かいます、ただ現在地図には台城の表記は無く鶏鳴寺の北に城壁博物館、台城公園等表記あるので、鶏鳴寺目指します。下図は明代南京城。台城について興味のある方はこちらを。。http://www2.lib.yamagata-u.ac.jp/elib/serials/hgca/011/hgca-11-00290033.pdf#search='%E5%8D%97%E4%BA%AC+%E5%8F%B0%E5%9F%8E'
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