自由人の発信 おっさんの中国一人旅から国内旅。

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2013年12月での「私の中国考」

2013-12-10 13:51:43 | 旅行記

昨今の日中関係、世論調査?では反日、嫌中が70㌫だ80㌫だとマスコミが囃す?毎日です。そのような時に、近年偶然?一人でノウビザの範囲2週間を年に一度バックパックしている、66歳のおっさんが感じ、思う中国を少し纏めて記録したいと思います。

{概観}

中国国家権力その物の中国共産党は変われるか?。変われない!八千万の既得権益層を引きずっていく、彼らは分配を期待して厳しい選別に耐えている。

中国の人達は今為政に参加していないし、させられていない。よって人々にとって没関係。。全人代は共産党支配のカモフラージュ。

中国産党組織は日常生活の中まではり巡らされている。中国で人々は突出は出来ないししない。

中国の人達は本音と建前を使い分けて日々生活をしている(面従腹背もあり)、でも縮こまってはいない。当然、政府本音と建前でやってる。これを人治とも中国式社会主義とも強弁する。

中国の共産党以外の人達、12億の人達は、これからも共産党員8千万人とその寄生者を容認するのか?。前時代の飛行機もインターネットも無い時代ではない、早くて10年、遅くても20年以内には我慢の限界を超え、混乱をもたらす。

しかし一気に10年、20年を迎えるのではない、その間に何度も悶えがやってくるし、その度に近隣を巻き込む緊張状態をもたらす、暴力という事も含んで。

混乱は人民解放軍によってしか収束できない。人民解放軍民主化を支持する可能性がこの次は無きにしも非ず。共産党ではやっていけない状態だから、でも大多数の人々はそのトレーニングを受けたことが無い周りは見守る必要があるが・・・。

{中国近、現代史}

まず中国の今を理解するには、今に至る過去を知る事無くしては無理。今盛んに中韓から叫ばれている、歴史から学ぶ、過去を反省する的な事ではなく、歴史的事実を今を理解する糧にと思うだけ。

清代から近現代を私なりの偏見?で概略を纏めます。

[清代]

清朝とは、漢族(現在人口の92%)とは違って旧満州、現在東北部に居住していた数百万人規模の狩猟民族(当時は農耕不適地)が、17世紀前半に明末の混乱に乗じ、北に偏した都北京を明の将軍呉三桂の変節で一気に手に入れ、明朝の後継を称揚して、漢族を取り入れた軍隊組織で中国全土からチベット、新疆地方までを版図にした、専制君主国家

18世紀には、当時の世界のGDPの三分の一を占めるともいわれ、全盛を誇るが、全盛の後の衰退で19世紀を迎える。専制君主(独裁)の宿命。

片や一世紀遅れて産業革命による全盛期を迎えようとする欧米、そこには人の欲望を最大限利用した資本という化け物が出現し、一方では人間の知恵によって積み上げられてきた技術?で、地球規模的世界が作り上げられている時。

結果、衰退の見える中国に、欧米帝国主義がまず襲ったのが、1840年のアヘン戦争。この後100年以上に渉る翻弄が中国を襲う。

[中国の歴代統治制度]

中国の歴代専制集権国家の統治体制を構成してきたのは、6世紀後半の隋朝に始まる科挙による官僚の中央集権制度で、11世紀宋朝において完成を見る。

その制度は、国家構成員(以後人民と表記)はある意味、等しく政治に参加できる建前、しかし、あくまでも専制君主(皇帝)の家内構成員、奉仕者の選別であり、人民に対しては為政者の代理人として存在。その制度を最大限利用したのが、少数派の清朝満州族。

この時代の人民は、被搾取階級であり、為政者の代理人を通した被支配階級。その対価は保証されません。

ゆえに爾来、生存権まで脅かされるに及ぶ時、異姓革命という名の暴力革命で、その生存が図られてきた。

[1840アヘン戦争から1912清朝滅亡]

以上のような社会体制の下、衰退した19世紀中国に資本という化け物に鎧われた帝国主義国家が係った時。為政は機能せず、権力の惰性が支配する(西太后政治)。そして政治に参加していない大多数の人民は、そこに係れないし、係らない。

このような支配体制、社会体制の弱点を衝かれ、欧米や遅ればせながら帝国主義体制の仲間入りした日本による、国土蹂躙が開始された。

日本は近代国家成立前でも幕藩体制という、ある意味統治の分散、権力の合議体制をなし、それぞれに所属する奉仕者で構成された社会体制であったが故、いち早い体制移行が可能となった。

[1912辛亥革命から1949中華人民共和国成立]

この時に至っても、統一的新国家建設がなされることは無く(宣統帝溥儀の退位と袁世凱の総統就任)、また人民の政治参加の希求も、社会変革までもたらすほどにはトレーニングを受けていず、ただただ広い国土と多くの民族を抱えた分裂状態を迎えてしまう。

そこは政治空白であり、中国には、ある意味国家不存在といった状態が訪れる。軍閥割拠、国民党、共産党等が争う構図で、多くの人民はただただ部外者、被害者である。

そういった分裂状態は、欧米に倣った帝国主義体制日本の本格的介入を招き、満州国建国や宣戦布告なき日中戦争(支那事変)を中国国土にもたらした。戦場となった中国での中国人民の惨禍たるや想像に難くない。

日本の敗戦を迎えた中国では続けて4年にわたる国共内戦を経なければならず、更なる国土の荒廃をもたらした。中国古来の多大な文化遺産まで移動を招き、今の中華民国台北の故宮博物院の現実がある。

[1949中華人民共和国成立以後]

中国共産党による政権奪取はある意味、元明や明清政権交代に似る。それは、近代国家としての体裁をとった、共産党というグループによる支配交代

その後の共産党内の権力闘争独善的理論実験、1965年ごろから10年間に及ぶ文化革命、そして80年代から始まる改革開放等々、共産党による試練を強いられて来た中国人民。全ては中国共産党による、共産党の為の試行錯誤

共産党員は共産党が選別する(国家元首といえども共産党内での権力闘争の結果)、そこには人民はかかわれない。そしてその共産党は社会、人民を社区委員会や政府という組織を経由して指導という名の人民支配を行う。それは中央集権、専制君主制その物。

以上述べたように過って、中国では人民による政治への参加は行われたことがなく、現在も行われていない。

故に中国共産党と言う王朝は自己の存在理由を顕示しない事には、その存在を否定されかねない。当然、それに備えて武力を保持する、それが中国人民解放軍である。まだ国軍とは言えない。

12億の人民は負託といった行為もなく、専制国家を現在も惰性のまま引きずっている。またなんら、政治参加というトレーニングを受けていない人民には、事の条理、不条理は分かっても、共産党の善意を期待することでしか解決できないのが、今の中国

{中国考察の結語}

1) 中国共産党は今が盛時、これ以上の盛時を迎えるには自己変革し12億の付託を受けるしかないが、共産党員八千万人の自己変革は不可能

25:50:25の論理(割合はその時々、内容により変化する)。集団があればその内25%はその集団の理想を求め、思考する。その対極の25%はその集団を利用する事によって自己の欲望を満たそうとする。中位の50%、これこそわれわれ?ある程度の常識を持ち、時として理想の集団に参加するかと思えば、平気で自己欲望にも向かう。絶えず自己弁護しながら責任を回避する人々。

そして集団がその本来の役割を機能している時は、この50%が善なる集団に属す、そしてそれは集団が大きく飛躍し、盛時を迎える時。

でも盛時を迎えたと思われる時、すでにこの集団は、その性格ゆえ不善なる方へとシフトする、それが悲しい人の歴史かと。そして、悪貨が良貨を駆逐する!少し先延ばしは出来ても、避けられない。

八千万人の集団もこの論理は覆せない。

2) その状況下の中国の人達(人民)は、為政に参加していない、させられていない故、起こっている状況には、当事者になれないし、無関心です。

今回、江蘇、安徽、湖北と回りましたが、去年回った甘粛、青海とは違って、行く先々の都市、町での驚くばかりの都市開発、既設の街とは切り離された新都市的な街作りが、まるで競うようになされていることでした。その全てといっていい所で、もうすでに出来上がっている?高層建築は無人状態(居住環境が未整備?購買層が不在?)、それでもなおその横では建設中、ただし活気には程遠く、惰性でやってるようですが(止まれない?)。それに吸い尽くされたカス?

その町の人達(人民)は、アレは政府のやってる事で、私達には関係ないですませます。そうです、中央から割り振られた、共産党員がその成果を誇示する為に、隣と競う為にやってる事。計画した人、実施した人等はもうすでに移動?今いる党員は私がやったのではない的に。現実は目の前にあるのですが。

この、地方での再開発は、地方の債務問題として一部報道され始めましたが、報道されてはなぜだか、消えていきます。

同じ例として、地方で建設される、新駅の建設。用地は国のものとはいえ、中身の無い外観ばかり誇示した構造。そこに同じ病根を感じます。

そして遠くない将来、その清算がやってくるでしょうが、この時も彼ら人民は係わらないし、係われない。でも、気が付いた時にはそれに係わされている現実が来るのでしょう。

事はかように、見えない所で確実に、そのマグマは蓄積しています。

3) 中国共産党が社会主義市場経済を選択してきた事は、必然と同時に、この時間を早めているような気がする。そして引き返せない現実。

ただ私が危惧するのは、今の世界の距離軸、時間軸では、混乱は一国のみに収まらず、周辺国を巻き込んだ混乱になるかと。

資本主義国家(わが日本を含めた)は、その資本主義なるが故に過っての貧しさに喘いでいた中国をある意味利用し世界の工場となし、そして今は、その市場性を利用しようとする、資本主義を基となすが故民主国家といえども、価値観より利潤が優先する(現今の欧米諸国)。結果、つけを払わされる

恐れ慌てろという事ではない。そろそろ準備を始める時だし、もう初めても可笑しくない時だと思います。

でも、今のわが国の指導者のように、煽っては、相手の術中にはまるだけ、しなやかに、強靭にです。一時は枝葉の屈辱に甘んじるくらいの覚悟も必要になる、その上で、その向うにあるものを見据える事の出来るリーダーが待たれる

しかし危惧します、そんなわが国の状況でもない、そんな指導者を生み出せる私達でも無いことを。そこにも25:50:25の論理の基、翻弄している私たちの国がある。

でも、知らないや、思い違い(想定外と言う常套句)では、傷は大きくなりすぎる、せめて、今の状況だけは、正確に、少しでも真実に近付くべく努力をしたい。

4) 八千万人をもって12億の人とするなかれ。この12億の人民を注視していく事の大切さを訴えたい。しかし現実は、テレビ反日番組で日々恣意的情宣を受けている事実。なにをこれから心掛けるべきかを考えて、25:50:25の人々を見つめる事。

5) 振り返って反日、嫌日私達日本側にはその原因はないのかと言えば、そうとも言えない。

多くの企業が中国で展開するに当たって、中国に赴任している人達にも25:50:25の論理は当てはまります。

上海、北京等の大都市では現在日本国内との生活水準の違いは無い?が、その周りや、中国全土を見た時、その生活水準や物価はまだ日本と数値的には3から5倍といった違いがあるのでは?。過去にはそれに倍する格差。

そこに私たち自身が尊大さや、優越を抱いた時、相手の軽蔑や嫌悪は沈潜する。歴史認識にしても、こちらの都合のいい認識では、反発でしかありえない。

相手方の過去、現在、将来につき真摯に応対してこそ、相手の誠意も生まれるのでは。

6) 中国の常識、日本の非常識、日本の常識、中国の非常識」、でも恐れることは無い、過っての中国の人達は私達に文化をもたらした。自由、平等、正義は共有できるはず(普遍的価値?)。私達がそうであるように時間が必要。しかし中国では現在、居住・移動の自由、言論の自由、法の下の平等等は制限されています、そこでの正義とは?全てが共産党統治の為。

{現象事例}

1)共産党上位者、共産党寄生者所謂、富裕層?の海外国籍取得、親族の移住、資産の移動等は、彼ら自身が近い将来を自覚している現象。

2)地方からの北京への陳情という訴え共産党による司法支配の下では、裁判での公正は行われない(司法の独立は存在しない)。そして、地方での破壊行為。

3)街頭啓発(交通整理?)も、共産党員末端の存在誇示?をする者がいるが、人々は様子を見ながら、自由に横断する。そして絶対に止まらない。そもそも主要な交差点にしか交通信号は無い。

4)高速道路は交通量に関係なく、急速に都市間を結んでいるのに、一般道の劣化は想像以上。インフラの寿命がそこまでやって来ている、でも誰も言わない。

5)上海、南京では地下鉄料金は距離制が取られているが、北京の地下鉄料金は、何処まででも、何回乗り換えても2元。

6)地方の市内バスは1元。普通列車料金の倍が長距離バス料金や新幹線料金、その倍が航空機料金といった所か?そして、多くの人達はその普通列車の切符を求めて並び、指定席なのに混雑の中(大きく、数ある荷物の為)移動する。いまもってその改善は図られない。

7)列車での近距離移動(通勤)体制は取られていません(列車運行管理体制の未熟)。都市内公共交通機関は地下鉄の無いところではバスのみ、故に電動自転車、バイク、自家用車(自転車は少数)の増加をもたらす。さらに交通ルールの形成が間に合わず(地方では車線帯はない)、都市部の交通混雑の常態化をもたらしている。PM2.5の悪化の要因?。

8)制服?を着用している職種(駅員、バスターミナル職員、施設職員等で大多数は女性)の従事者は、政府関係者(共産党員?)的感覚、利用者に対して高圧的。したい放題といった様子が散見される(持ち場を平気ではなれたり、飲食をする)。利用客は決して逆らいません(面従腹背?)。

9)去年から?中国では列車の切符では個人識別がされています(身分証番号、外国人はパスポート番号の記入)、宿での宿泊も同じ。個人の移動はある意味監視下。バスのチケットはそこまで対応できていません(個人営業が入っているので、組織化できない)。これを利用すればチベット個人旅行も可能?(バスセンター外で乗せてもらう)

10)当案という制度、個人の出自、成績、信条、履歴等が記された個人情報は共産党によって管理されていますし、整えられています。

11)学校では政治授業(共産党プロパガンダ)があり成績が配点される、考試(共通大学入学試験)では、考慮される?(未確認)

12)何処の町でも政府関係(共産党を含めて)建物は周囲を圧倒する巨大さと敷地の広さ。

13)わが国観光地のある人のインタビュー、「中国人の便所の使い方は、実にだらしない!使った紙は・・・」。この人は逆に中国で便所を使った時は、中国の人から叱責を受けます。事はその程度、されどそんな程度。

14)上海ワイタンバンドでの事、明らかに中年日本人、彼女?と一緒に遊覧船に乗り込んで行きます。声援送りたくなりました、彼女に「頑張れ!」と。真剣な交際なら別な意味で「頑張って!」です。

15)外国人宿泊可能な所でも、時と、場所によっては、公安に接触して、保全に注意する。弱みを握られると吸われる。。許可?を受けていない旅館では私を泊めた為に罰金を取られたそう。

16)満員であっても次のバスは期待しないし、出来ないと確信するので、必死に乗車する、させる。共産党の恣意的支配では社会的与信関係は醸成できない。

17)地下鉄で子供であろうが座席争いに参加する。自己の利益は自ら獲得しなければならない。

18)並んだからといって、それが分配の順番ではないことは知っているので、最終的には列を崩して、獲得へ行動する。

19)同列の相手だと、争奪するし自己の最大利益をめざす。だからこそ、絶えず仲間造りに励み、一人で飲食はしない。

20)仲間は裏切らない、裏切れば仲間から出され、やっていけない。。その先にコネが繋がる。

21)不特定多数の人がいる所では、特に一般の若者、学生は政治的議論は避ける?

22)未婚男女の同一宿泊は許可されませんし(結婚証明書の携行)、通報されると公安による取調べを受けます(売買春容疑)。

23)建設業での請負うという行為が未成熟(共産党の指示で全てが収斂していた)。不確かな発注者?と不確かな元請?ここでは共産党の仕切り、その後は個人請負的な者による出稼ぎグループの雇用。作業区分ごとにこの形態が繰り返され、建物の瑕疵は行方不明社会主義市場経済その物。途中中断も日常。日系企業が最初に受ける洗礼。。

24)マンションは一般的に内装前の段階で販売、引き渡されます。以後は購入者自身で自分好みに仕上げます、当然のように材料の購入、職人の雇い入れは個人で行われます(人に任せられないし、任せない)。よって、何処に行っても建材市場なる市場があり、街のある場所では、職人?さんが雇い主が付くのを待っている光景を目にします。ハローワーク的な物はありますが、機能していないようです(信用していない共産党の紹介では・・・)。

25)よって施工不良や、不具合は平気ですし寛大です。自己責任ですから。

26)マンションの共用部分は居住者の状況で進行します。だから最初の人は覚悟して住むことになるかと思います。ホテルといえども、同じ階や、上の階等で工事が行われます。

27)共産党が絡んでくれば、それは共産党の恣意の支配下になる。田舎で土地の者と交通事故を起こすと、該当地区の公安は管轄区域の擁護に回る、故に近頃車載用モニターを多くの車が装備する。公安も共産党その物と人々は認識している。

28)オバーちゃん転んでけがをする時、助けた人を加害者にするのは?私思うには、オバーちゃん治療費の事が頭をよぎる?、よって助けてくれた人に縋り付く結果だと。中国ではわが国の様な医療保険制度ではなく医療補助制度的。。

29)まだ民間の病院、クリニックは非常に少なく。あってもそこは高額、一般の人は受診しませんし、出来ません。そして、公的医療機関(大病院)に多くの人たちが押し寄せます。結果、門前市を成す的に、お店が営業しています。

中国でやっていくには(個人、事業体関係なく)、以上を自覚しなければいけない。解ればシンプル?プレッシャーと感じた時は、距離を置いたほうがお互いにとって無難。

以下は思いついたら追加します。

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14・15・16日目;荊州から上海へ「地方と上海」

2013-12-03 16:31:19 | 旅行記

今回旅行の1日目はこちらからhttp://blog.goo.ne.jp/haishi4706/e/ddd048cd48c6bbebb87dff65cfe96f05

10月25日(金) 今日は新幹線?で上海まで一気に帰ります。そして明日は今の上海を見るのと友達から頼まれた用足し。明後日は関空経由で札幌です。

今回訪れた地方を赤線で表示、地図は1820年ごろの状況。

Photo

7時前には駅に着きたいところ、5時半起床、6時退房。銀行カードによる清算も、もたもたしながらも終了。ホテル前の食堂はまだ、あの駅では近くに食堂は・・・、で、ホテルの近くを探しますが、例のナン様の餅屋さんしか、で、取り敢えず熱々を1枚1元。でも中国の人達のように何か挟まないと・・・。

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6:20バスに乗って、ところが乗客居ないのでパスパスで(一箇所いたのにとぼけて?)、15分ほどで到着。と、奥の方に明かりと人だかり、心配要りません、中国では人の居るところに食物屋さんありでした。

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ワンタン4元と書いています。下はshou4zhua1bing3と発音しますが、手づかみパンと言った訳?中国マックの事。食べてる時に思い出しては写真、で、食べかけの写真になってしまいます。

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去年の青海省西寧の駅のようにパスポートとチケットの確認も無く、田舎の駅といった感じ。ただただ大きな空間!中は空っぽ、重要なのは外観!まさに今の中国かも。

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駅の裏はこの通り!フム・・・。

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ホームも広く乗客もそこそこ?、進行方向乗降口には団体さん?ではありません、駅員の指示に従って。日本と同じように北京から出て行くほうで車両番号編成してるよう、で、私は前側乗車口に(こちらは何人も居ません)、シラーと。

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和?号!どっかにそっくりですが、独自開発と、そらそうでしょう「偉大なる中国」がパクリなんかできるはずが無い!

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ルートは荊州から潜江・天門・漢口・麻城・合肥・南京・鎮江・常州・無錫・蘇州・昆山・上海虹橋です。

漢口までは江南そのもの、漢口過ぎるとやがて平原から山岳地帯?に入り合肥に入ります。大きく見ると淮河の南、揚子江との間に大きな山塊があるという事。

新幹線でも中国の人はいろんな物をよく食べ、携帯かけまくり(権力の拘束は受け入れても、人からは拘束されない?)。私といえば、要領がよく分からず、車内販売のカップ麺(勿論カップ麺用給湯器あります)を待ってたのですが、いらない物ばかり!とうとう昼食抜き(売店があったようでしたが降車時に気付きます)。

車両ごとに正規?車掌(アテンダント服装)、車内販売員、清掃員で。見ていると使用のたびにトイレ掃除してる感じ。そうだ!おばさん車掌がいない!

こうして新幹線の車内だけを見ていると確かに、過っての中国は抜けたのかと思われますが、10日間近く、人々の中に入って歩いてきた後では、これが中国とも思われません

また在来線の様な列車旅の雰囲気(色んなジャンル、家族、社会の縮図)は無く、ましてポケットのお菓子をあげる相手もいません

現実は、在来道路や多くの人が今居住している住宅・街路、見えないインフラ等、根幹はかなり疲労していると見えました。

南京から日本的新幹線、駅は増えて20分から30分おきに止まって、上海虹橋定刻3:17?到着。

さて巨大な虹橋駅に着いた所で食事をと、構内の康?傅(インスタントで№1?)直営店に。なんと写真の肉拉麺が38元(630円)麺はインスタント麺!セットメニューのみ。これなら日本のメーカーが中国でやっていける時になってる。

同時に中国での地域による格差の激しさは日本では想像できないまでに!。

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上海には予定より1日早く入っているので、今日の宿はこれからです。明日は老西門国際青年宿舎を予約しているので、ドミなら泊まれるだろうと。

地下鉄10号線で直接豫園へ、そこから宿舎の蓬莱路へ歩きます。

蓬莱路手前の陸橋から河南南路、豫園駅方向

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同じく陸橋から復興東路を黄甫江方向、トンネルで浦東へ。黄色のホテル看板あるな~。。

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河南南路を南方向、蓬莱路は400m程です。

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復興東路、地下鉄老西門方向。右手には星ホテル?

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4時過ぎには、青年宿舎到着。いい時間です。付近の雰囲気いいです、好きです。

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明日予約している・・・、フロントの小姐予約表見て「エ?」いう感じ。「オイオイ、またかよ」ですが、今度は予約金も払ってるし、日本の協会経由のブッキングです。

責任者の小姐も出てきて、なにやら。。その間ロビーにあるPC使わしてもらったりして・・・。

やがて、このブッキングは確認しましたと。そこで今夜も泊まれないかと訊くと、今夜はもう満室だと。ドミだと50元ですから。どうしようもありません!!

なんだかんだと5時近くです。陸橋の近くの酒店に行きます。「今晩部屋ある?」「没有!」フム・・・。

表に出ると向かいに、愛用?の賓館。陸橋上り下りして、「部屋ある?」「有!」オット!で、「外国人泊まれる?」「不行那!」「アイヤー!外国人泊まれる所知らない?」、向かい角の雲悦酒店(4星)は泊まれると。それは分かっていたのですが・・・。

5時過ぎて暮れてきます。明日は50元だから、今日は500元でもイイカと、雲悦酒店へむかいます。

いい時間に、ザックかついで、薄汚れた年寄り?が入ってきて、部屋あるか、外国人泊まれるか、パスポート見ればビザは受けていない!散々パスポートいじった挙句、「部屋はない」と。

おもてなしに縁の無い連中?エ!そら当たり前!いやー、参りました。最悪!上海駅の近くかと、地下鉄駅へ。動揺していたのか、老西門駅(上海駅線)でなく豫園駅の方へ行っていました。

と、横道、奥の方にネオン!なんだか酒店のネオンサイン?らしき物に誘われて・・・。この際だ!訊くだけ訊いてみるかと、入ります。宣泌思酒店(IBS hotel)。

こうやって今夜も無事寝床確保。299元!言ってられません。でもビジネスホテル的なところでこの値段、日本円5,000円です、高!日本の方が安いでしょう。上海は食、住こんな状態?

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時間は6時過ぎています。さて食事にと、明るいほうに行くと、なんだか豫園的な電飾!何処もかしこも観光地かと。

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目に付いた食堂で紅焼牛肉飯にビール20元(地元の人相手?)。明日は上海見学!。

今日使ったお金;1+1+4+38+4+299+20=367元

10月26日(土) 部屋も気持ちよく、熟睡。起きたのは7時過、9時前に退房、早速ザックをフロントに預かってもらいます(チェックアウトしているのに当然のように!)。

外に出て、昨夜買った地図(家に有ったのに・・・)で現在地を確認します。と、なんと豫園のすぐ裏、観光エリアです。どうしてここに?で、昨夜の電飾は上海老街!おのぼりさんが集まるど真ん中でしょ!

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では、と、まず朝食。ここからは浦東地区の高層ビルも背景に。観光バスのモータープールもあり、日中は観光バスの降車位置になっていました。

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昨日断られた?雲悦酒店(4星)です!結果オーライですが・・・。そう、この左の道を行こうとしていたのに、右に行ってた!案外人生そのもの?。

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お粥やさんで少し遅めの朝食、このお粥(八宝粥)にゆで卵で4.5元。

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丁度小路には朝市が立っています。中国での朝市めぐりは実に楽しい、人々のエネルギーがあふれ、お国の事情の一端を覗けるのでは。

20年程前に商用で来た時に、淮河沿いの花園ホテルすぐ近くでの朝市で、生きた鶏やアヒル、鳩等をみてからです。

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イヤー、上海蟹がこんなに身近に売られているなんて!ここの蟹がほんとの上海蟹!今思います、何で食べなかったのだ!それにしてもこれじゃカニさんストレス溜まるだろうな・・・。

場所は普通の下町、そして普通のおばさんおじさんが、よく吟味して買うと、件の女性が写真のように蟹を縛って渡します。

でも、ネットに出ていましたが、その中国でドイツからこの蟹の亜種?が大量に輸入されてるとか・・・。巨大市場中国でしょうか?

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エビも生きてるのが!スッポンはこれ以上伸びないほど首伸ばして、分かるのか今日の運命。

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その隣のこの蟹やさんにはなぜかお客が付かない、これって・・・、どこでも売ってる人の雰囲気が有るのでしょうか。。

小路の広場にこの舞台。夜市か縁日には何か催し物が?ここは観光エリヤから少しですが外れています。まさに下町上海でしょうか、家屋も江南建築様式。。その向こうに浦東のタワー。。

 

豫園の裏小路を。

 

豫園裏門?

これも上海。

上海バンドから南京路へ。公園では中国式合コン?、目に止まったのは、左の建築。中国では珍しくタワークレーンですが、コア部分はRC造、外郭はS造?マ、気持ち的に分からないことも無い(コンクリート造りの方が頼りがいある?)、ですが建物一体としての構造計算はどうしてるのか・・・、だって構造がここまで違うと、一体建物で2種類の固有振動が発生?なんぼ中国方式といっても・・・。マ、私が考える事でないか!でも違和感覚える建物。。

 

そしてバンドに。

 

確かにいい規模で整備されています。

対岸の浦東地区高層ビル。

こちらは大名路方向。6年前語学留学を終えて、ここからフェリーの鑑真号にのって帰国しました。その時は地下駐車場が仮設のイミグレで、埠頭は整備真っ最中だったのが、スッカリ整った様子。日本だったら・・・、その先を思考停止してはいけないと。

でもここでも、建設中のビルはセンターコア式?この疑問の回答有りましたらコメントで願います。

そして埠頭には大型クルーズ船が2隻も。。

バンドから南京路へ。  

南京路のアップルストア。店内の様子ご覧を!店内人で溢れています。アップル叩きに対して、躊躇わずにごめんなさいを言う理由は、この現実!。所詮は営利企業、利に対してはすべてに優先?。この資本主義自由社会の現実を見誤ってる、今の日本の指導者に危惧を感じます。

まだ時間が有ります、地下鉄で行きやすい静安寺を覗きます。でもこの様子は私が興味する物ではありません(三門前に獅子、ポールの上にも金色獅子?)。覗いただけで、お友達の用足しに再度南京路に戻ります。

  

お友達から頼まれたのは、篆刻で使う印泥。上海西冷印社というメーカーで、このカタログの品物を買ってきてという依頼。

日本で百度からURLを探すとストリートビュー付きで南京路からすぐ近く河南中路、漢口路の先にお店を確認しています。

キョロキョロしては通り過ぎ、やっとこの入口確認!うっかりでは通り過ぎます。。

それにしても・・・、北京の栄宝斎というお店はビル一棟でしたが・・・。でも上海西冷印社と書かれています、いまさら、で、入ります。

カタログ見せて、「この品物あるか」「・・・、・・・ある、これだ」と、なんだか朱が克ってるような・・・。高級品はこんなのかと「150gでいくら?」「900元」「このカードでいいか?」「いや、現金だ」と。フム・・、じゃお金下ろしてまた来ると言って、ATM探し。海外用デビットカードを使って・・・、南京路の裏通りに建設銀行支店に付属したATM有りまた。。

入れ物10元で購入。

帰ってお友達に渡すと日本円15,000円!の値段に少し驚き?目論見の5割高?。今中国ではこの手の特異な品物は暴騰しているようですし、円安、元高でレートだけで3割高。

「箱入りじゃないの、証明書は?」です。そういえば、私レシートも貰っていません!だって渡さないんだから(レジなんか無かったような・・・)。こんなもんだろうくらいで、だってここは中国!言っても「没有」だったと思いますが・・・、そういうお店に入っていた?。

私も再度不審に思い調べます(とんでもないお店だったらお店で・・)、と、カタログの住所を調べると、そこは会社の本店?グーグルでお店の名前の表示まで。

でも、応対のおばさん、いんちきといった感じではありませんでした。寧波の人とか、寧波といえば日本との交易船の窓口港、大して話は盛り上がり、デジカメに入ってる雪祭りの写真を見せて、ぜひ北海道においでと誘います。でも今の中国では簡単に行けないと。携帯の電話番号貰いましたが・・・。

お友達はしようがネーナと言った感じで終わりましたが、考えてみれば間抜けな買い物したものです!それと同時に中国で依頼品を買うのは、よほど品物の知識を持っていないと(真贋の分かる)、受けるのは感心しません。言い訳ではありません!でも自分自身に不愉快!!

もう1時を過ぎています、近くで昼食、ワンタン10元。 

依頼品の購入は済ませました。歩ける距離なので豫園経由でホテルに戻りザックをピックアップです。

ここ豫園は上海一の観光スポット(中国おのぼりさんが必ず来る所!)。20年ほど前に社用?で来て准河路の花園ホテルに泊まった時、2時間かの時間を利用して、タクシーで乗りつけ(地下鉄は無かったと?)、おのぼりさんやってしまいましたが。。

オオ!なんだか大きくなった?マ、当時も人は沢山でしたが。

  

それに、覚えていますここの小龍包、並んで買いました。今日も長蛇の列!そして皆一緒の人の分まで買うので、動かないんです列が!

 

これが豫園

ホテルが見えますが、ここの老街で孫達のお土産があったらと。と写真の布鞋ゴム底でありません、30元だと、で自分用に(おバーちゃんのアルバイト?、それにしてもサイズが合わないな~と言うと、路地から出してきましたが)。

建物の中で中国ベスト、カンフー上下、布ザックで225元。 

3時前、ザック受け取りにホテルへ。表には次々と観光バスが到着、それ目当ての物乞いも集まってきています。これも今の中国、上海。

ザックの詰め替えやってると、降りてきた観光客は日本人!HISのツアーでした。私はシラーと・・・。

YHの前から蓬莱路入口。

YHの前から蓬莱路奥へ。いい場所です、地下鉄駅まではワンクッションありますが、豫園、ワイタンバンドへも歩いていけなくない。なんと言っても私はこの町並みが好き!上海での定宿に。

YH玄関口方向。

YH玄関。 

部屋はドミの10人部屋、私のベットは入ってすぐ左上段。入ってベット番号探してると、開いてる所なら何処でもと、先客言っています。が、後からの人が困るだろ!マ!中国スタイルですが、私はうまく喋れないので、チャンと自分の番号へ。

ベットで時間つぶして、6時過ぎになったところで食事へ。

さすが上海、すぐ近くに海鮮屋さんあります。この写真にあるように、アサリ、エビ、イカナゴ?を指差して。。

老板、料理方法訊いてる感じ。適当に相槌打ちます(一番美味しい方法で言ってるでしょうから)、相槌といっても「好好!」ですが。

いくらもしないうちに先ず一品、オオ!酔っ払いエビ「酔酒蝦」。箸で摘んで食べますが、跳ねるは、動くは、飛び出すはで、踊り食いです、味わうというよりは・・・。それに、これでは時間かかって、で、適度なところで老板呼びます。「料理してくれ」的に身振り手振り、通じます。

アサリは酒蒸し、蝦は炒め、イカナゴは卵とじ。イヤー、海鮮!。で、ビールの後白酒。

この写真撮ったのよく・・・、白酒2本になっています。

そうです、用足しで目覚めます!ヤヤ!・・・、オ!YHの俺のベットだ。。オ!パスポートは?バックだ!オ、ここにある。財布も、パスポートも大丈夫。。ヤ!メガネは?フム・・・、下に落としたか?まだ明けていないので暗く、今日は日曜日、皆さん寝ています。

バックにしまっていたペンライトでソット・・・、下に落ちていました。オオ!大丈夫だったな!でも大いに反省はしました、こんな事2度目は無いぞと。。

昨日使ったお金;4.5+2+2+30+10+30+225+120=423.5元

7時になったところで、ソット退室。フロントで退房、清算します。ついでに「お湯無いか?」と、「奥の厨房に!」でお湯貰って、出発。

例の陸橋上がろうとすると、信号待ちの車の陰で、「ドスン!」と。陸橋上がって見ると、パトが自転車と。お巡りさん?倒れたおじさん覗き込んで、「どうだ~」的、全然慌てていません。信号変わって車は動いていきます。でもなぜ?信号赤のにここでぶつかる?パトの前をおじさん横切る?懲らしめにぶつける?まさか????。居てもしょうがないので・・、この後の事は分かりません。

そう、一昨日はこの位置で、明るいネオンサインを見つけて、入って行ったところ。真正面があのタワーだったんだ!

ホテル裏の老街、日曜の朝。今日は昨日に倍する人出でしょうが、今は一時の静寂?オット、もう開いてるお店があります。朝食で希飯4元。

豫園から地下鉄7元、南京東路乗換え、広蘭路(路線図に表示あります、線路交差ないのに乗り換え表示)で再度乗り換え。予定通り10時近くに浦東国際机場。次回中国旅の用意?人民幣の補充でATM探して1,000元下ろし、財布を2500元程に。

ANA便、2週間ぶりの日本語です。発券時関空でも再度手続きを言われます。

 

イミグレも慣れた?リストには載ってませんので。

帰りの便もがら空き!何せ観光客が居ない!、ビジネスか里帰りか研修生?この状態がいつまで続くのか。。

石原さんは・・・、もう止めましょう、彼は何も悪いんじゃない?問題があるとすれば、彼を選ぶ私たちにこそ問題なのでしょう。私が選んだ訳じゃないと言った事でなく。。

空港の発着は混んでるとかで、離陸は30分以上遅れ。・・・、関空での乗り継ぎは1時間25分。イミグレ、税関に30分もかけられない!、ザックのピックアップも・・・。

関空到着、イミグレ通過、・・・バックが出てこない!(早いチェックインは荷物が奥?)

でヤット税関、ヤヤ、税関には長蛇の列、税関職員に直、乗り継ぎブッキング見せます。そこは日本、素早く対応してくれ、別ルートで、口頭申告で通してくれます。「この次はありませんよ!」の言葉。

ANAのカウンターに急ぎます、で、全て”没問題”。16:50関空定刻出発。

18:40千歳着。8時過ぎには我家へ、何事も無い日常の中へ。。明日は出勤です。お腹すいたー。。

今日使ったお金:中国元 4+7=11元 日本円 1,180円

今回総費用 日本円6,400+1180=7,580円 中国元534+625+86+293+236.5+185+238+354+337.5+239+911.5+74+367+423.5+11=4,915元(×16.5≒81,100円)航空券52,600円 総計141,280円。

次回は少し熟考して「私の中国考察」を纏めたいと思っています。

 

 

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13日目;「城市そのもの!」荊州城巡りと楚郢都を訪ねる。

2013-12-03 11:13:10 | 旅行記

10月24日(木) 今日は一日ここ荊州を歩きます。

ゆっくりしていいのですが、6時前には目覚めます。ベットに居ても勿体ない?なす事なして身だしなみ済ませ7時前には行動開始。。

その前にフロントでPC使えないかと訊くとフロント横のPCを使っていいと。で自宅にメール入れておきます。

ホテル前の様子、歩いて南門へ移動。

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荊州城には過って6箇所の城門?現在2箇所(大北門、東門)に清代城楼が残っています。ここ南門は城門遺構。城内はかなりの規模、早朝の城門には沢山の人達が。でもここは車は通行できないので賑やかですが、混雑はしていません。

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城門正面に関帝廟。

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広場は催事用テントに早朝?市民の交流の場。ダンス、太極拳、etc、そして早くから品物広げてる露天の人達。そのダンスで一組が際立っています、ユーチューブで。http://www.youtube.com/watch?v=eAd2IrNhmEg

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人々の足はバイクか電動自転車。自転車は少なくなっています。日常生活では、この城門は不便でしょうが・・・。甕構造がしっかりと残っています。

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お年よりが占い?ではありません、何もしていません、でも椅子は・・・。これをどう理解していいか迷います。いや、詮索は止めます。

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城門の様子が分かるかと。

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城壁のレンガはかなりの年代物。。でもこの穴は・・・。

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南門側お堀の様子。

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南門東側城壁。

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城外から南門を。魚売りの露天の様子を収めたくて。表示看板は魚の値段?量り売りですが・・・。内陸では魚は淡水魚(大概は生かして売っていますが)、でも川の様子を見ると・・・、私は川魚はあまり食べた経験ないし、小骨が多いので中国では食べません。

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城門前の様子。この地域ではレンコン畑が方々にあり、ここでも店先?に置いて売ってる?中国では流通が日本とは違い、生産者が直接消費地に持って来ての、ある意味対面販売です。

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丁度お腹も良い具合に減ってきたので、麺やさんへ。店先にトッピングの具が数種類、私は内臓の煮込みを指差します6元。なかなか美味!

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戻って城門の上へ、5元では半票はありません。写真のお城は何処の?

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両脇の出入口は公園のために開けたのでしょう。

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城楼の基壇。

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この石の意味が分かりません。

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太極拳、私達がやってるのと同じ?一瞬、降りて一緒にと思ったのですが、上がったばかりです。見終わって降りた時には解散していました。上手下手は関係なく、それぞれが楽しみます。

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上から見た南門城外。このバス?城門を通行できる?この通りにバスを通して行くという柔軟さ。この右のホテル、下は私が入った食堂とかで入口なんか無かったようですが・・・。左には天主堂もあったんです。

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城楼から一端降りて、西側城壁上を歩きます。

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角楼の内部構造?始めて見ます。

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城壁上から見えた高中(中学以上?)で行進の練習。行進曲かけてやってるのですが、中国でも新しい世代、それなりに消化している子もいるようでした。

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ここの城壁も外面はレンガですが内面は土手状態。このあたりは胸壁もありませんが、歩廊の敷きレンガは残っています。お堀側の緑地も整備されています。

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と、ここで胡弓音。ユーチューブで聴けます。http://www.youtube.com/watch?v=3Xt71xxAs5Y チャンと楽譜があるんですね。。

 

離れた所でおじさんも、衒うことも無く、ただ楽しんでる様子。

途中一度降りて廟?を過ぎた所で再度城壁に。南西隅の所。

そこで出合ったおじさんと孫、可愛くてしょうがないといった様子。持っていた白い恋人を「お孫さんへ」とおすそ分け。

西側城壁の様子とお堀の周りのよく手入れの行き届いた畑。このおおらかさこそ中国の人たちの姿かと。

   

胸壁のレンガの刻印1983年。ようやく文革のトラウマから抜け出し、内陸でも観光資源が見直されてきた時の記録といえるのでは。

 

西門の脇を降りていきます。

明代創建のこの城楼は清代乾隆53年(西暦1788年)の大水害時この門からの流入で大被害を受けたので、翌年規模を縮小、嵩上げして今日の姿になっていると言った事が記されています。

   

規模を小さくしてこの規模!自動車も通っていますがラッシュ時は・・・。

城楼に上がります。と、チケット売り場にこのレプリカ?子供だましですが、中国系の小説を読んでるといろんな武器が出てくるので、参考にとつい買ってしまいます20元。

     

 

西門城外の様子。すぐ下ではおじさん、今日の食材仕入れ・・・。この後ニワトリさんは絞められ、食材となるはず。

 

次は、この近くにある博物館へ、と、道端でオバーちゃんが作ってる布鞋を並べています。右下を孫の土産にと思ったのですが、少し小さい?左は気にいらない、値段は40元だとかで、少し・・・。いま少し後悔(向うにいるとつい、食事の金額と比べて値段を判断してしまいます)。

博物館隣の道観。

荊州博物館。ここは過っての楚の国、すぐ近くに都紀南城がありました。秦の計略に乗ってしまい、将軍白起によって破壊され、楚の国は逃れ都を商丘、寿春に移しますが、国としては滅びたようなものです。この時には、端午の節句で出てくる楚の廷臣屈原もいます。

以上の前知識を持って。

その都、紀南城に立ちたかったのですが、いまは農地で遺構が特定できない?目標が定められなくて断念。そこに右下の郢城という所に城郭の遺構が残ってる?と、それに紀南城は郢都とも表記されているので予定に入れています、ただし規模が違う。荊州駅から歩きの範囲?。

    

青銅器から鉄器への移行期、青銅器関係がかなり収集されています。

   

   

  

副葬品の漆器類や傭。

    

再現の墓室と発掘のミイラ。

  

博物館URLから転載。今は見やすく修正してる?

 

売店にあった篆刻用、印面3cm角?の鶏血石8600元(×16.5=141,900円)の値段が付いています。

漆芸品の一部。   

 

絹織物から刺繍品。   

 

11時過ぎには博物館出て、道順で大北門へ。過ってのメインストリート。ニワトリさん商品です、捌いてくれと頼むと・・・、ここで書くことではありません。。

木曜日のお昼時だからか、街は静か。

ここ大北門は城楼も備えた良い感じ。

  

振り返った町並み。

城門は城門で形を保ちながらも車を通して日常も利用しています。道は昔の攻防時のまま、まったく住んでる人は大変でしょう。

    

ここ北側のお堀は中州状を挟んでかなりな規模、

家屋も江南様式?です。 

でも使用方法が変われば、反応します。

城楼に上がってみようと思うのですが、誰もいません。案内乞うと、向かいからおばさん(誰も来ないんじゃー・・・)。財布には小銭が無く、100元札を出すと、「小さいのは」と、で財布見せて3元しかないと言うと、3元とって「入りな」と。

 

荊州城の経過が書かれています。レンガ造りになったのは北宋時代で清代に修復されながら現存に至るといった所かと。

整備した時は其れなりだったのでしょうが、維持管理をしていかない事には、劣化は急速に進みます。でも今の中国ではそこまで手が回らない?その一方で50年後を見据えた駅舎を作る。これをどう解釈するかで、将来の中国が見えてくる気もします。。

  

棟木には最後の修復年?道光18年(1839年アヘン戦争前年)

 

城内、メインストリート?と城外。ここ荊州の都市開発は沙市の方で行われてるようで、結果旧市街はある意味古い町並み?。

 

12時過ぎです、出ようとすると、若者が入ってきて、この柱の向うでお昼ね?起こさないようにソット失礼。。

ここも上からの甕城の遺構がよく見れます。

  

三国公園?の前からバスで一端ホテル近くへ、食事して郢城へ向かいます。食事は例のホテル前の食堂へ、看板にある水餃子半斤。写真がいつも食べる半斤の量、でもここのお店はサービスいい?それとも馴染みのおじいちゃんなのでオマケかな?5元(メモっています。

3時前に再びバスで駅へ。

駅の右手を地図片手に・・・、??。

バスターミナルも建設中?活気の無い現場です。コンクリートの工事はバケットで、40年前には同じようにやっていましたが。

新幹線線路ガードの向こうに目的地郢都遺跡があるはず。因みに中国では在来線、新幹線とも標準軌ですので、線路幅だけで言えば相互乗り入れは可能。よって在来線管制で運行している区間については普通車両も入ってくるようです。

 

さて城郭はこの辺かと、探していたところ、一段高い土手?沼状はレンコン畑。

  

ありました!郢城と判読できます。ヨカッタ・・・、といった感覚。

ブログ人引っ越しに伴ってGOO文字制限の為続きは”続編”http://blog.goo.ne.jp/haishi4706/e/984449f1d3dfe7b52e4b0c0d5b9fded2 で。

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