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やはり気になる隣の中国、気になるコラムを!

2019-04-13 09:02:19 | おっさんの中国一人旅終了?に伴って、もっと日本を旅します。

ダイヤモンドオンライン 2019.4.9 加藤嘉一「中国民主化研究」揺れる巨人は何処へ

※掲載不都合な時はコメントでお知らせ願います、対応します。

習近平が「中国の特色ある社会主義」を魯迅の言葉で解説した理由

習近平が投稿した論考の意味

中国共産党は『求是』という機関誌を持っている。党の中枢機関である中央委員会が主催しており、共産党が自らの正統性を死守し、強化していくために必要だと認識する政治思想やイデオロギーを宣伝するための場だといえる。

中央、地方を問わず、特に高級、中堅幹部を中心に党員たちは同誌を読みながら、時に読むことを半ば強要されながら、党指導部が現在何を考えているのか、どんな方針で党の運営を進めていこうとしているのかを察知し、自らの政治的活動を実践していく。その過程ではいわゆる“忖度”たる発想や行動も生まれるのだろう。

4月1日、『求是』に1本の論考が掲載された。作者は中央委員会総書記の習近平で、タイトルは“関于堅持発展中国特色社会主義的幾個問題(中国の特色ある社会主義を堅持し、発展させることに関するいくつかの問題)”である。

その名の通り、中国が社会主義という政治体制、イデオロギーを堅持した上で国家の発展を推進していくことがいかに重要か、なぜそれが重要なのかが論じられている。「中国民主化研究とは中国共産党研究」という立場を取る本連載にとっても、習近平の論考は極めて重要であり、必ず検証しておかなければならない類に入る素材である。

これから2回にわたって、習近平論考の意味するところを解読、検証しつつ、習近平率いる共産党指導部が今現在、そしてこれから中国をどのように、どういう方向に導こうとしているのかという問題を考えてみたい。

習近平は就任以来「ゴルバチョフ現象」を警戒

「中国の特色ある社会主義はあくまでも社会主義であって、何か他の主義ではない。一国がどのような主義を実行するかに関して鍵を握るのは、その主義がその国家が直面する歴史的課題を解決できるかどうかということである」習近平は冒頭で次のように主張する。

「中華民族が貧弱で、列強に搾取されていた頃、あらゆる主義や思想が試された。資本主義の道は切り開けなかった。改良主義、自由主義、社会ダーウィニズム、無政府主義、実用主義、ポピュリズム、無政府組合主義など外から続々と流れ込んできたが、どれも中国の前途と運命に関わる問題を解決することはできなかった」

習近平は就任以来“ゴルバチョフ現象”を警戒し、自らが、そして中国がソ連の二の舞にならないように細心の注意を払いながら政治を運営しているように見受けられる。

「ソ連はなぜ解体したのか?ソ連共産党はなぜ転覆されたのか?一つの重要な原因はイデオロギーの分野における闘争が激烈になりすぎてしまった点にある。ソ連の歴史、ソ連共産党の歴史、レーニン、スターリンを全面的に否定し、歴史虚無主義に陥り、思想が混乱してしまったのである。各級の党組織が機能しなくなり、軍隊は党の支配下にいなくなってしまった」

 ソ連崩壊前の最後の最高指導者となったミハイル・ゴルバチョフが推し進めようとしたペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)は行き過ぎており、急速に内政の自由化を進めた結果崩壊に追いやられた。中国、そして中国の最高指導者が同じ轍を踏んではならない。

習近平はそう考えている。

近年赤裸々に強化されている政治の引き締めやイデオロギーの統一化、言論抑圧、市民社会、NGO、人権活動家などへの圧力といった政策の背後には中国共産党指導部のそういう思惑が明確に潜んでいるものと思われる。

中国の特色ある社会主義が中国を急速に発展させた

習近平は続ける。

「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想が中国人民を長い夜から抜け出させ、新中国を設立した。中国の特色ある社会主義が中国を急速に発展させたのだ。もっと早い時期は言うまでもなく、改革開放の初期、特にソ連が解体し、東欧に劇的な変化が生じた後、中国の衰退を唱える世論は国際社会で後を絶たず、ありとあらゆる“中国崩壊論”はこれまで中断したことがない。

しかし、中国は崩壊しないどころか、その総合国力は日増しに増強し、人民の生活水準も不断に向上している。歴史と現実は我々に語りかけている。社会主義だけが中国を救うことができる、中国の特色ある社会主義だけが中国を発展させることができるのだと。これは歴史の結論であり、人民の選択である」

今年、中国は“天安門事件”(6月4日)30周年を迎える。習近平が言うように、この期間、確かに“中国崩壊論”は後を絶たなかった。

中国がソ連の後を追い、米国の政治学者フランシス・フクヤマが提起した“歴史の終わり”が完結するのではと騒がれた(参照記事:『歴史は終焉するか? フクヤマVS鄧小平 未完のイデオロギー闘争』)。“中国崩壊”を巡ってあらゆる分析や予測が試みられてきた。 

中国はいずれ“崩壊”するという予測あるいは希望的観測があらゆるウオッチャーによってなされ、中国でビジネスを展開してきた企業家たちは、中国は“崩壊”してしまうのか、そうなったら自分たちの商いはどうなるのかという不安や懸念を抱えながら政治や市場の動向を注視してきた。

 ただ中国は“崩壊”しなかった。

そして、習近平はその理由を中国が社会主義を選択し、中国の特色ある社会主義によって自国を発展させてきた経緯に帰結させ、それを“歴史の結論”と定義づけたのである。

上記の論述から、中国が共産党による領導の下で生存、発展しようとする限り、“中国の特色ある社会主義”という政治体制およびイデオロギーを自ら放棄する可能性は限りなくゼロに近いという現実が今回の習近平論考によって一層明白になったと筆者は捉えている。

習近平が魯迅が残した言葉を引用した理由

「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」――。

習近平は論考の中で作家・魯迅が残したこの言葉を引用した。

仮に魯迅が生きていたとして、昨今の習近平政治にどのような感想を抱くかに関してはいろいろと想像力が膨らむところであるが、習近平が魯迅を引用した動機は明確であるようだ。中国が独自の道を創っていく実現性を正当化するためである。

この点において、習近平はなかなか具体性を伴った興味深い表現をしている。

「近年、国内外の一部世論には中国がいまだ社会主義国家なのかという疑問を投げかけている。“資本社会主義”“国家資本主義”“新官僚資本主義”といった表現が見られるが、これらは完全に間違っている。我々が言うところの中国の特色ある社会主義とは社会主義であって、どうやって改革、開放しようが、終始中国の特色ある社会主義の進路、理論体系、制度を堅持していくのである」

「近年、わが国の総合国力と国際的地位が上昇するに伴い、国際社会では“北京コンセンサス”“チャイナモデル”“中国道路”といった議論や研究が増えてきている。その中にはそれらを称賛する者もいる。一方で、一部海外の学者は中国の急速な発展は一部西側の理論が疑問視される状況を作り出し、一種の新たなマルクス主義理論が西側の伝統的な理論を転覆していると考えているようだ。我々は、各国の発展の道は各国の人民によって選択されるべきであると終始考えている。いわゆる“チャイナモデル”というのは中国人民が自らの奮闘と実践の中で創造した中国の特色ある社会主義の道に他ならないのである」

「チャイナモデル」について習近平が自らの論考で言及

約10年前に勃発した金融危機(リーマンショック)あたりから提起、議論されるようになり、時に物議を醸してきた“国家資本主義”や“チャイナモデル”という言葉あるいは概念を習近平が自らの論考で言及した事実自体を筆者は興味深く受け取った。

“百戦錬磨”の中国共産党の最高指導者であっても、なんだかんだいって気にしているのだと感じさせられた。

ここで重要なのは、習近平や党指導部が国際的に中国の発展のあり方やモデルを巡って行われてきた議論や問題提起を正視し、それらを利用しながら“中国の特色ある社会主義”の存在意義と実行可能性を証明しようとしている現状である。

と同時に、習近平は「各国がそれぞれの道を歩むべき」という中国共産党従来の立場表明を付け加えることも忘れなかった。本連載でも議論してきたように、中国共産党は国際社会全体が自由民主主義や資本主義といった西側発の政治体制、発展モデル、価値体系に染まってしまう情景を極端に嫌う。ソ連解体後、社会主義国家が数えるほどしか残らなくなり、“資本主義陣営”と比較した場合、その政治体制、イデオロギーとしての優位性が劣っているのは明白である。

そんな中、中国共産党がもくろんでいるのは、西側の体制や価値観に疑問が投げかけられ、それに不満を持ち、異なる進路を歩もうという国家や地域が増えていく局面が生まれることである。“世界の多極化”を望んでいるのである。中国共産党自身が言うように、同党はもはや革命党ではなく執政党である。中国自身も現在革命ではなく改革の発展段階にある。「万国の労働者よ、団結せよ!」のスローガンを掲げて共産主義や社会主義を“輸出”する選択肢は取れないだろうし、実際に取らないだろう。

しかしながら、習近平は論考の中で次のようにも語っている。

「中国の特色ある社会主義が不断に発展するに伴い、我々の制度は必ず日を追うごとに成熟していくはずだ。わが国の社会主義制度の優越性は必ずより一層明らかになっていくはずだ。我々の道は進めば進むほど広くなっていくに違いない。わが国の発展の進路が世界に与える影響も必然的に大きくなっていくものと確信している」

“中国の特色ある社会主義”の優位性や正当性を自らの政策や実践の中で証明しつつ、若干踏み込んだ表現をすれば、それが“複製可能”であることを示唆しつつ、世界中で中国のような経済発展モデル、中国共産党のような政治手腕を採用する国家や地域が増えていく局面を習近平は望み、あわよくば狙っているということであろう。それが結果的に「中国共産党の正統性の死守と強化」という共産党にとって最大の目的を達成することにつながるからである。(4月23日公開予定のの次回に続く)

(国際コラムニスト 加藤嘉一)

私見;社会主義が危険だとか間違ってるとは思いません、現に戦争に敗れた日本は、アメリカを中心とする西側諸国の指導の下(占領政策)、世界で一番社会主義的国家だ(今はまたかなり戦前回帰?)と言われていました。

危険だ間違いだとされるのは、その国の人々が独裁者(独裁体制)により抑圧と管理の下におかれ、人としての基本的な権利を阻害されてる国家統治を指してるのです。

その意味で今習近平の目指している国家体制は早晩周辺国を巻き込んだ災禍を生むだろうと思います。

中国の14億の人がたった一人に支配され運命づけられるのははなはだ不合理です。ましてや彼も永遠の生命を与えられてるわけでもなくこの十年の栄華、その後の事を考えると怖くなります。“絶対的権力には絶対的腐敗を伴う”

だからと言って私達の国、政治も経済も社会もおかしいぞ!

今日の新聞コラムに“朝三暮四”という中国古典の言葉。今の安倍首相がサル使いに擬せられて(私達国民はサル!)、それでも代わりの人がいないからと、私達の未来を託しています。とても民主主義が機能しているとは思いません。

日産問題も、見逃すことも気付かないことも協力と変わらない、そして変わった経営者も金太郎あめでしょう。

社会は歩きながらもゲームやネットショッピング、そして子供を虐待して憂さ晴らし、そういった人が社会の前面に出て来て憚らない。

それでも、やはり民主主義の方が今考えられる最良の社会制度だと。25パーセントの人達のたゆまない真剣さに期待します、やはり人類は素晴らしいと“強い信念”を持って。

 

ダイヤモンドオンライン  2019.4.7 吉川尚宏:A.T.カーニー株式会社 パートナー

『政治の衰退 フランス革命から民主主義の未来へ』(上・下)書評

国家と法の支配と民主主義、フクヤマが描く人類興亡史

本書の前作『政治の起源』(上・下)で、フクヤマは政治が機能するには三つの政治制度、すなわち「国家」、「法の支配」、「政府の説明責任」が整い、これらがある種の均衡を持たなければならないと主張した。この視点で分析していく。行き着く結論は、近代的国家制度に到達するには幾つもの経路があるということである。

彼の見解では、この三つにも優先順位があり、実効性のある強力な国家機構、次いで法の支配、民主的説明責任に基づく抑制の制度という順となる。今回の『政治の衰退』では、欧州、北米、アフリカ、中南米、東アジアなどの政治制度を三つの視点で分析していく。行き着く結論は、近代的国家制度に到達するには幾つもの経路があるということである。

フクヤマの評価が高いのは、東アジアだ。中国、日本、その他の東アジア諸国は西洋諸国と接する前に、強力な近代国家制度をつくり上げた。東アジアにおける政治的発展の原動力は法の支配ではなく、国家制度であった。特に、日本は、江戸時代(徳川期)にすでに強靭な国民意識を持っていた点、競争率の高い試験でふるいにかけられた官僚による統治機構が整備されていた点、そして戦争によってそれが鍛え上げられた点など、肯定的な評価が多い一方で、官の自律性が凶暴となって戦争に導いたことを否定的に捉えている。

中国の政治形態が今後どうなるのかも気になるところだ。自律性の高い共産党に率いられた中国の発展について、フクヤマは中国の体制がより自由な制度に向かって針路を変更する自律性を持てるかどうかに懸かっていると指摘する。すなわち、より自由な制度なら、もっと活発な経済競争を促すことで、社会全体に自由な情報の流れを認めることができる、という。

それにしても、自由民主主義という政治体制の何と普遍性のないことだろう。前段で述べた三つの政治制度と比較すれば、たかだか2~3世紀前に登場したに過ぎず、人類の政治秩序の歴史から見れば、ほんの一瞬に過ぎない。

さて、本書の中で評者が最も驚いたのは、ラテンアメリカにあるコスタリカだ。人口500万人に満たない小国だが、近隣諸国の中でもとりわけ裕福で、1人当たりGDP(国内総生産)は周辺国の3000~5000ドルに対し、1万2000ドルを上回る。その理由は、1949年に施行された憲法で、常備軍(軍隊)を廃したことにある。一国の政治を担う主勢力が、憲法のルールに従って敵対者だけではなく、自らの行動にも制約を課す。

この決断が政治を発展させ、経済成長にもつながった。数年前、「コスタリカの奇跡」という映画があったが、奇跡を支えているのは「法の支配」だったのである。

(選・評/A.T.カーニー株式会社 パートナー 吉川尚宏)

 私見;これを習近平が聴いたらどう思うだろう、“その時私は生きていない、今が問題なのだ”と。そう習だけでなく生きてる人皆まず今が大事?、そして勝者の歴史、反省の歴史が残る。

自由主義国、資本主義国は中国共産党の延命、賛助だけは避けてほしいものです。今は良くても倍返しが待っています。過って糸偏企業が中国進出で生き残りを模索しましたが身ぐるみ剥がれて追い出されています。

今の中国、共産党で回っています、ファーウエイの仁さんがなんと弁明しようと。。

 

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壬申の乱を歩くその3、5日目(桜井近辺、梅原猛を巡る)

2019-04-10 13:31:38 | おっさんの中国一人旅終了?に伴って、もっと日本を旅します。

3月29日(金)晴れ;5:30起床

今日は梅原猛「聖徳太子」を訪ねます。聖徳太子が育った?明日香上之宮、推古天皇“小懇田宮”、海柘榴市に立ちたい。

今度は一晩中犬が吠えて・・・、飼い主は煩くないのか?(施設?には・・・)。大きな家です。

一日目はキツネかタヌキ、二日目はトラックの騒音、三日目は仮橋の通過音、静かで温かいお布団でじゃなく五感を研ぎ澄ませても人にとって大切なのではと・・・(ただ笑われるだけ?)。

倉橋の溜池。 ここは目立ちませんが・・・、まさか!。6:36日の出?倉橋の。

7:15撤収。桜はこれから。 溜池の奥から明日香倉橋へ向かいます。

案内板ではこの辺りが崇峻帝倉橋柴垣宮となっていますが・・・  ここが宮跡とは?

時代から、ここに宮の敷地確保や尾根筋での水の確保等から案内表示は適当ではないと。

宮跡にできた“グランビレッジ倉橋”  去年の夏オープン予定、職員募集?人の気配が・・・。

向かいは総合福祉センター、お風呂もあり?。 

倉橋へ、左は多武峰。多武峰には談山神社、藤原鎌足の墓?。

倉橋の里、ここで宮が営まれたなら納得。 

談山神社まで4㌔。 談山神社に続く町石(ちょうせき、1町=109m)  

この先?崇峻帝の陵墓があります。  

蘇我馬子によって物部守屋討伐の後、天皇に推されるが、馬子を排除しようとすると逆に殺される。臣下に殺された唯一の天皇。次に推古天皇・聖徳太子・馬子による中央集権が始まるが、3人の後の蝦夷、入鹿の専横から大化の改新へ流れる、きっかけとなった天皇?

崇峻天皇倉梯岡陵。   

旧道に入った所で、祭神は石? 

メインはお地蔵様か石灯籠か? 

寺川の周りに開けた倉橋の里。 

旧道の様子、村当番?! 談山正宗醸造元 庄屋酒本舗。 10年以上古酒!欲しかったな~。 

町石! 地蔵でなく釈迦仏! 

桜井上之宮方向(聖徳太子が斑鳩に移るまで住まいした所)。   先に大きな鳥居? 

8:45談山神社一の鳥居!でした。   

あたりが上之宮。  寺川、今はコンクリートの中。 

上之宮(聖徳太子が育った地)表示。    

国土地理院では左街区に表示、実際は右街区、探しあてた後ここに戻ってきました。

次は草墓古墳、土舞台。磐余路、井上靖の銘。 磐余;明日香以前の大和王権所在地。

緑看板に土舞台表示。 住宅街道路奥に小さく案内板?普通見逃します。

ここでいい?  

土舞台!太子ゆかりの地。    

完全に位置関係をロストしてしまいました。

うろついている内に安倍文殊院に、国宝ありでチェックしています。    

本堂、外観は古そうですが内部は宝物館? 文殊菩薩   密教仏具五鈷杵 

別室の釈迦如来周りの黒い筋は一体3万円なりの御分身! 

安倍倉梯麻呂の墓?草墓古墳?マ、イイカ。 立派な玄室でした。 

10時過ぎています。海柘榴市は諦めて小懇田宮へ。

この現場2回目失礼ですがこの構造では長く持たない!ベースと壁の接続箇所に力が集中して保ちません、ハンチか控え壁を!なんて。

近鉄桜井駅へ行ってザックを降ろして回らないと時間が押しています。

飛鳥時代の横大路方向。 過っての横大路初瀬方向 横大路竹内道へ 

近鉄桜井駅。駅構内にザック放置。

戒重交差点 橘街道方向。太子の通勤路?斑鳩まで直線距離14㌔。 飛鳥時代での三輪山を想像 

大福の三十八柱神社。  神社内の梅原猛の小懇田宮伝承地碑  

近鉄大福へ。 

倉橋、鳥見山から宇陀の山々。狭い明日香の地から出て日本国の都、ここで隋からの使者を迎えます。

明日香雷丘の小懇田より梅原説に納得します。

近鉄大福駅。  

飛鳥時代の横大路の今  道の脇の清流  

この大路は春分・秋分時三輪山の日出、二上山の日没を結ぶ道?幅は当時20m以上?西は飛鳥時代難波からの竹内道へ(大和朝廷進入路)。東は三輪山麓初瀬入口(初瀬川の畔)の当時最大の市場、海柘榴市。まさに日本の中心。

卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳もあります。

斑鳩方面。 それにしても時間の止まった通り。  

12時前に桜井駅に戻ってきます。駅近くのお弁当屋さん(手づくりそうざい ふじもと)へ入ります。

少し待ちますが、注文後に作るので自宅の食事同然、値段も480円、お得感。急行はボックスでないので慌ただしく駅前ベンチで。

12:07桜井発で難波経由関空へ。2時過ぎ時間通り関空、例によって551でチルドセットお土産に(いつものことながら匂いが気になりますが・・・)。

16:15のピーチ、機体点検?の為出発遅れ!(ヤバいかな~)。 一時間ほどの遅れでテイクオフ。

20年ほど前ツアーで2泊三日29,800で姉達が北海道に来ていた時、航空運賃が下がれば観光客が増えるな~、なんて思っていましたが、今関西まで往復一万円、近くなったものです。一方で新幹線、いくら札幌まで伸びても今の料金では、飛行機が嫌いな人でないと利用しないのでは?

昏くなった札幌の街、なんだか白く、まだまだ北海道は冬でした。

学生時代のワンゲル活動が役立ってる老後?ハハハです。

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壬申の乱を歩くその3、4日目(伊賀上野から名張)

2019-04-08 14:54:05 | おっさんの中国一人旅終了?に伴って、もっと日本を旅します。

3月28日(木)曇り;5:07起床。 

昨夜は一晩中仮橋通過車両のガタン・ゴトンで・・・、毎夜手を変え品を変えで応えます。でもこれってホームレス?こう言った趣味ってなし?面白いんですが・・・(私が変?)。

マ、人それぞれです。

前を流れる清流!朝の洗面に下りて行きます(これだけ綺麗だと、恐れ多くて用足しは出来ません)。

ト、川面でシラサギが何羽も(町の鳥)。   自然です。

今朝は昨夜少し残した麦ごはんでお粥、ドライ味噌汁、ウインナー投入。

6:50出発、公園の椿に桜。  

サイト予定地の便所よりも、コンビニの便所の方が慣れてる洋式、ウヲッシュレットだし!いやー、日本って・・・。申し訳ないので豆大福つぶあん一個を。。

さて体調万全?最後のひと歩きです。今日は雨が来るかな?

早朝の伊賀上野城へ  彼岸桜?  

もちろん見学できません。  小雨が降って来たのでここで雨具上着を着込みます。雨具収納袋は内ポケットへ。

近くには芭蕉記念館もあるのですが、開館まで待てませんし、調査対象外です、またの機会に。

街の中を伊賀鉄道が。 

伊賀の町並三筋町通り、8時頃では人通りもまだ?       

国道422号をしばらく歩きます。 

木津川水系の遊水地、川は木津へと下ってる! 

遊水地内は田圃になっていますが、大雨時遊水地になったら補償は・・・。 脇のお地蔵さん 

木津川の流れ。 取水塔? 

左足の豆に違和感、雨雲も去ったので、雨具も脱いで足の手当て。

オット!雨具の収納袋が・・・、内ポケットと思っていたのは外ポケットの袋、入れた物はそのまま下に落ちた!もう一時間以上歩いています!とても引き返す気力はありません。アーあ、とうとうやってしまった!

取敢えず足の手当てして、写真で遠ざかって行く重機運搬車、この路側に止まっていて、私が動き始めると車も、横に腰を下ろすとそのまま運んでくれそう!(忘れ物で気が滅入って・・・)。

芭蕉池の手前から旧国道に入ります。 大型車がいないだけでも助かります。

旧家ですか、長い間の富の蓄積?中国ではこの富の蓄積が残っていません、革命御歴史と文化大革命で消してしまいました。 

名張に! 

名張手前桔梗が丘入口。南無大師返照金剛の返照金剛とは長安青竜寺慧果から空海へ送られた別名。

一瞬びっくりしました、マネキン!でもこんなのが歩きの気分転換で助かります。  

住宅地に入りました。お地蔵さんに手入れされた花。  

12:35近鉄桔梗が丘駅の向こう側(駅前?)に近鉄プラザ、コンビニ弁当でなくラーメンか・・・。近鉄は宅造ブームの時、沿線で駅を作っては周辺を大規模開発しています。

プラザ内の食事コーナーで定食を、ふもと歩きはなんだかんだで楽です。店内の薬屋で幅広のバンドエイドも購入。

13:55名張の湯到着!壬申の旅終了、ご苦労さんです。

明日は飛行機に乗るので、隣に失礼のないように4日ぶりの入浴で。髭剃りから、着たきり下着や上着も替えます(基本雨等で濡れない限り合宿中?は着換えません)。

 またまた乾かしていたタオル忘れて!いやだいやだ!

今日のサイト地も街中公園、時間調整で本読み、その間カメラバッテリー、携帯の充電も。とれたて名張交流館で果物補給でイチゴ、カミさんへお土産漬物購入、ザックの重さも気にしないでいいかと。

15:45サイト地へ、途中で今晩の食料を購入。

ところが道々の旧市街地?食料品店もコンビニもありません。とうとう前回来た時に利用した名張駅前のコンビニまで。大盛り麦ごはん、小箱牛すき焼き、6品目の野菜炒め、ビールに焼酎購入(合宿中なのに毎日飲んでるなー)。

また街を横切ってサイト地の公園に行っても周りによってはサイト不可?を考えると、事後の策で予定していた明日香の山の中、倉橋溜池の公園へ向かいます。

明日の関空は16:15、午前中を利用して桜井近辺を歩くので。

16:37近鉄名張乗車、17:09近鉄朝倉。

朝倉駅南口から上り、見下ろす桜井忍阪(おっさか)の街? 

左谷に舒明天皇陵。推古天皇の後、蘇我蝦夷は聖徳太子の皇子山背大兄王を避け敢て田村皇子(舒明)を立てる、蝦夷は完全に実権を握り次の入鹿の悲劇へ。

直進で宇陀へ、右折して倉橋の溜池を通って明日香に抜けます。 

倉橋溜池の堰堤が。 忍坂の山 道は倉橋のへ登ります。 

倉橋溜池より忍坂の街方向。 

溜池脇の道路を辿って公園駐車場の便所へ到着、使用可、水確保。  

公園反対側に大きなお宅、老健施設のような建物が付随しています。

さかんに飼い犬が不審者に吠えかけますが不審者は無視!。

6時過ぎています、目立たないようにと東屋の中にテント設営。便所は駐車場の中なので公園に戻って。

サッサと食事済ませ(今日はデザートにイチゴ、でも甘くないぞ!)、飲んだお酒で気持ちよく、お休みなさい。。

それにしても、犬はしつこく吠えてるな~・・・・、明日はゆっくりで・・・。

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壬申の乱を歩くその3、3日目(鹿深公園から伊賀上野)

2019-04-07 09:56:46 | おっさんの中国一人旅終了?に伴って、もっと日本を旅します。

3月27日(水)晴れ;5:30起床 

横の道路は甲賀の町のバイパス?一晩中大型車両の騒音、丁度アップダウンの場所ではどちらの車もヨイショでアクセル踏んでいます。それでも寝るだけのものは寝たのか、それとも体が諦めたのかスッキリと目覚め!

ゆっくりと朝の務め、日本の公衆便所はいつでも、どこでも、清潔、ペーパーも完備(他の紙は使わないでと)していてこればかりは鼻タカですね。でも出物はイマイチ!

今日の朝食はアルファー米を半分使って粥、昨日のカット野菜の残り、ドライの味噌汁投入で。

7:40出発 大型車の道路を避けて反対の方へ。  

バイパスと交差、大型車がひっきりなしに。  

油日の旧道は車も少なく、 でもこの鳥居は?油日神社?  

シオノギ研究農場 ここでバイパスの大型車が合流  

これでは何時吹き飛ばされるか! で、地図から脇の農道を選択 

草津線を渡って。 

こちらが旧道?   

ここで朝の出し残し?・・・。前方におあつらえ向き?の杉林、人影もなし。。

終わった痕、どこだかわからないでしょ! 

慌ててズボンを上げた?ズボンの中にイガが入り込んで・・・、また下げて取り出した杉の葉。 

やがて農道はイノシシよけの柵で通行止め!折よく近くで耕運機動かしていた人に“余野へ行きたいのですが”“そこの柵をあけて真っ直ぐ、後また閉めて”

入って行った先には小屋や便所も(地主の人に咎められるかな~)、でも人はいません、反対は柵が開いています。振り返った所。

道は森の中へ オット、道標があります、東海自然歩道?。 

廃棄物処分場も、も少し・・・。私達のゴミ、隠れてする事ではないと思いますが。。

山林は放棄されてる?、残念!。 

街道筋に出ると早速道標。右行くと東海道鈴鹿、水口へ、左油日? 

柘植に向かって。  

こちらの墓所の習慣でしょうか、共感します。  近くの地蔵堂 

10:15柘植の町に入った所で公民館併設?の歴史民俗資料館、チョット立ち寄り感覚、玄関の写真撮っていません!

ここ積植山口(柘植)の地は壬申の乱での分かれ目、

大海人皇子(天武天皇)一行(后鵜野、草壁皇子)は吉野宮滝を672年6月24日午前出発、矢治峠越えここまで60㌔?25日夜半(時速4キロで15時間)に通過です。

宮滝から芋峠越え大津京まで80㌔?大津京からここ柘植まで70㌔、当時の駅馬を使って早駆けで大海人脱出一報は遅くとも昼過ぎには大友皇子へ、騎馬兵出撃なら柘植には明るいうちに展開できていたはず。藤原京そして平城京の幕開け!実感します(黒岩重吾“天の川の太陽”)。

その他の展示物  横光利一   橋本病の橋本策博士  

資料館建物は撮っていませんが、前からの柘植の町並,加太越え方面 上野方面 

柘植の町並 

11:00丁度ロウソン、お腹も空いてるので昼食、アジフライ・ハムたまごサンドに追加で豆大福・ミネラルウオター。

ここまで溜っていたいたゴミをお願いします(今ゴミ箱は店内ですね)。

11:30後半戦開始。

20分ほど歩いて・・・、ライトダウン ザックの横に・・・、ゴミをザックから外すとき一緒に付けていたライトダウン落した!ザックを途中の工事現場の人にことわって放置、急いでコンビニに戻ります!あった!!

柘植川沿いの旧道を歩きます。近くの工場勤めの人?海外研修生が通ります(感じます、話しかけたい所です)。

佐那具手前の西の沢の桜並木、これを書いてる今は満開?でも散策路もベンチもなく勿体ない状態。  

佐那具の古民家改装のオシャレなフレンチ、今の私には・・・。 

伊賀上野城が遠くに!脇道や、落し物で今日も25㌔かな。 このぼさぼさは? 

今日のサイト予定地(前方センター木のある所)到着!あまりにも住宅地の中、これは通報されそう。で、次の候補地へ移動。

翌日撮った予定サイト地方向です。真ん中 桜並木が尽きた所。 

同じく公園でも区域外、河川敷地です。

川の合流で敷地が広まっているいいコンディション、公園築山の蔭を選びます。   テント設営は少し暗くなってです。

公園の水飲みOK、便所はやめたサイト地まで、小用は・・・。

向かいは橋の架け替えで仮橋通行しています。

目立たず?見晴らしも良く、下草もきれいに刈られてマズマズ(グーグルで事前調査済)。

ザック置いて買い出し!通りに出ると早速コンビニ(私の感はスマホ並み?)。

レンジでもつ鍋醤油、大盛り麦ごはん(1個売りはこれだけ)、副菜 おつまみポークウインナー、小箱牛筋(カット野菜の残りで増量)、そして飲み物スーパードライに宝焼酎名人。

明日は最終名張まで、足の豆もバンドエイドで克服!体調もこの旅になじんできたようです。そう、中国旅もそうですが非日常の中でいい緊張感を味わう!好きだな~!!

仮橋の通過車両の音が聞こえる中、おやすみなさい!

 

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壬申の乱を歩くその3、2日目(石部松籟公園から甲賀鹿深公園)

2019-04-04 21:30:20 | おっさんの中国一人旅終了?に伴って、もっと日本を旅します。

3月26日(火)晴れ;5:10起床。

便所は横、昨日はたいして食べていないのに・・・、快便!

それにしても最高のサイト地?と思ったのですが、深夜?キツネ?タヌキ?テントの周りを泣きながら・・・、食べ物の匂い?あれこれ考えているうちにやがて去って行った?ムニャムニャ・・・。

朝食は昨夜残したご飯をお粥仕立てしてドライ味噌汁にソーセイジぶっこみ、中国ではこれに包子があるのですが・・・、ともかく体温め戦闘モードに。

明るくなると朝の散歩の人達、ゴミ拾いの人は便所の点検も(きれいに使っています!チラッと視線を感じますが気のせい?)。既にテントは畳んでいます。

前回懲りていたので今回半長靴を持ってきましたが、嵩張るし、これでザック担いで歩くのも無理(窮屈だし)と判断。よって「使用しなくなったので、よろしければ使ってください」とメッセージ付けて、便所の入口に置きます。

7:20出発。体は昨日を引きずってる様、でも気力は回復? いい場所のお家 

石部田楽茶屋、現在も営業中!  

石部宿を歩きます。       

それにしてもこの狭い道を朝の通勤車両が行き交います、国道が並行してるのに!(歩いてる方がおかしい?)、街道歩きの為?、路側を緑で色図けしてくれてるので構わず・・・。

歩くと思います“道路は誰の為に?”今は春休みだからいいけど、子供たちがここを歩くのを想像すると怖いです(エ!国道の歩道を歩いてる、お前だけだって)。

    

天井川の家棟川は1979年にこの様に平地化されたそう、よく見ると橋の向こうで川はストンと落ちています。 

天井川時代の覆道(1886年完成)扁額、それ以前は・・・。  

東海道・きずな街道だそう。 

試飲したかったな~、でもこれ以上の重量は無理!   

人気ありませんが、お守りされてる。 

休憩広場。 針文五郎顕彰碑。 

やはり車が!時間は9時、みんな急いでる?   

由良谷川の平地化。 下流の工事を考えると・・・。

介護施設の車 街道筋のステンドグラス工房(軍手が!) 

弘法杉と大沙川覆道。  奈良時代に近辺から材が供給され、はげ山となった結果、土砂流失によって天井川にと説明(地質も流出しやすいマサ?)。

ザックさえなければいい街道歩き? ゴミの集積場も目隠しして! 

青い空でなく電線の鳥よけ?、着雪防止? 

草津線踏切、ウイークリーマンション? 

 三雲のビジネスホテル雨天時非難ホテル候補。

横田橋と野洲川     

はや山菜取り。 

甲賀水口宿へ。 国道の大型車、内地物資移動の迫力。北海道も観光頼みでなく・・・。

横田の渡し。    

東海道泉一里塚     

これでいいんです! 今回街道で唯一の松並木? 

水口宿へ。   

  ここらの街道説明。  

水口宿見付手前美富久酒造、いかにも地酒屋さん、後半戦重くなっても・・・、購入!本醸造“ひとしずく”

水口宿、ここまで12.1㌔足は幅広バンドエイトのお蔭かそれなり。今夜の一杯が・・・。

四辻の公園 ソメイヨシノの幼木 

お昼になるので街の食堂と言った感じのお店へ、近江牛丼。お昼になるとそれなりに混んできます。

さて後半戦開始! この辺は旅籠町、それにしても人が・・・。    

ここから東海道を離れます、まっすぐ行くと鈴鹿越えです。

こちらは柘植方面、左画面外には鈴鹿の山々が聳えていますがこちらには大きな山もなく。 

壬申の乱の時どうして大海人皇子一行の東国伊勢、尾張への脱出をこの先 柘植で阻止できなかったのか!その思いを抱きながら柘植へと目指します。

   甲賀小佐治、里山の中を歩け歩け。   忍者村入口? 歩け歩け!  甲賀の街へアトワンピッチ! 

甲賀の街に入った所で今夜の食料を!ザックを交差点脇に置いて、駅前ジョイ甲賀店に。缶ビール、レトルト中華丼、カット野菜購入。

今日のサイト予定地鹿深公園へ!後ワンピッチ!   

16:20鹿深到着! 地元産品販売所は休業中?(ある意味幸い?)

販売所前は駐車場、春休みなので親子ずれが公園に来て、駐車場にも車。

目立たないように植え込みの陰に。 道路から見えても運転中では気付かないでしょう。。

便所もきれい、使用できます(水確保!)。

今日の晩酌 これで幸せ?・・・・。中華丼にも野菜炒めを混ぜて満腹!

5:30今日も無事完歩?

ビールでのどを潤し、野菜炒めを肴に美味しいお酒で至福の時?

足はバンドエイドで何とかなります、体も観念したようです、おやすみなさい!

次は柘植経由伊賀上野まで。

 

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