野暮用で忙しかったが、ちょっと時間ができたので、パン屋の喫茶室に入って、遅い昼飯をすませた。
ぼんやりしながら、子ども俳句の事を考えた。
大きな問題がある。
その一つは、季語のことだ。
誰でも生活は新暦ですごしている。
しかし、歳時記は旧暦で編まれている。
実際は、複雑に絡み合っている。
例えば、七夕は、歳時記では秋の季語だ。
しかし、東京では七月七日。梅雨の真っ最中に行う。
仙台の七夕は、旧暦の七月七日。これだと実際は、八月七日頃で1ヶ月遅れ。
暦の立秋のあとだから、秋とも言えるが、これとても、世間の感覚、子どもの感覚からすれば、夏の真っ最中である。
この矛盾を解決しないと、子ども俳句はこじれたままだし、俳句界全体にとっても決してよいことではないと思うのだが・・・・
子規とか虚子とか絶対的な指導者がいれば、鶴の一声で解決ができるのかもしれないが、今は、群雄割拠の時代(そう言えば聞こえはいいが・・・)今までの権威を壊すようなことは誰もしようともしないし、しても、影響力を持たない。
それに、権威ある歳時記に採録されないと、季語としては認められない。俳句の世界はこういう世界なのだ。
地方の季語や学校の季語など、ある分野や特定の地域に通用する季語をどの様に考えたらよいかと言う問題もある。
第二は、口語と文語、歴史的仮名遣いの問題だ。
私の所属してる「梓」では、歴史的仮名遣いを採用している。
俳句には、文語が似合う。確かにそうも思える。
俵万智でわかるように、短歌は口語に移行したが、果たして俳句は移行できるのか。
しかし、子どもは文語や歴史的仮名遣いでは、俳句を作ることができない。
生活の中でも文語は死語になっている。
ラテン語のように文語は残り、俳句はその世界で生きていくのか。
それとも、いずれは口語に移っていくかのか。
この事も重要な問題だ。
第三は、これはちょっと上の二つとは意味合いが違うが、「切れ」の問題だ。
俳句は「切れ」があるから文学として成り立つ。幅や深みが出て来る。
ところが、子どもは「切れ」の微妙な感覚が掴めない。
この指導をどうするか。慣れることによって、しだいに掴めていくとも考えられるし・・・・
第四、しかし、上のいろいろな問題があるにしても、子どもが自分の感性を表現する手段として、俳句形式は、実に適していると思うし、その時代にしか表せない感性を表すのは、人間の文化を豊かにすると思う。
そんなことをつらつら考えた秋の午後であった。