どうやら、パソコンが末期症状です。あちこちに文字が飛び回って、(購入時からその傾向はあったのですけれど)いよいよ収拾がつかなくなってきました。このまま回復せねば、当分のあいだ執筆は無理。せめて明日(一応、「ElvisとBeatlesのはざまで」を予定)までは続けたいのですけれど、今回が最後になる可能性もあります。
実のところ、スケジュールを変更したまま、ヘツカリンドウの話題を、もう2~3日引っ張ろうと目論んでいたのです。でも、スケジュール通り「朝と夜のはざまで」をアップすることにしました。昨日(12月22日)、千明さんの河野弁護士と会談。これまでにも河野氏には、“ブログ「朝と夜のはざまで」を、ぜひ見ておいて下さいね”と言っていたのですが、どうやら見てくれてはいなかったらしい。河野氏曰く、“職務怠慢ですね、今後は、ちゃんと見ておきましょう”とのことでしたので、予定通りにアップします。
河野氏との会談(帰京時には、ほぼ定期的に、解決策を探るべく会合を重ねているのですが、平行線のまま、そのことについては後述します)のあと、朝倉書店での打ち合わせ、その後、久しぶりに自宅(青梅市河辺)に帰りました。リュックの中の荷物を半分ほど出して軽くしようとしたのですが、伊平屋島の役場でのアドバイス用(自然観察ルートの植物名プレートを作ります)に必要な植物図鑑2冊を入れると、逆に前より重くなってしまいました。
ということで、今夜、とんぼ返りで沖縄へ。アメリカでも中国でも東南アジアでも、自前のノートパソコンを使ってのワイアレスインターネットが容易にできるのだけれど、日本に帰ってくると、出来なくなってしまいます。日本のみ(?)有料システムになっているらしく、金額の大小にかかわりなく、クレジットカードの引き落としでなければ、使用できなくなってしまっているのです。だから、カードを持たない僕には、ネットを利用することが出来ません。日本で、唯一の(?)例外が沖縄。ここでは諸外国と同じく、無料でワイアレスが使えます。だから、ある意味インターネットをしに、沖縄へ行くようなものなのです(苦笑)。
思えば、一昨年の12月23日、神戸港を出港、新鑑真号で上海へ向かってから、丸2年が経ったわけです。その間、ほとんど(南九州や沖縄を除き)日本には帰っていません。むろん一人暮らしで部屋には誰もいないわけですから、毎月の家賃を支払うのは無駄な限りです。でも、資料やフィルムの保管のことを考えれば、他に方法はありません(引越し代もばかにならないし)。
南西諸島の離れ島や、中国(東南アジアを含む)の辺境で、何をしているかと言えば、表向きは、動植物の調査や撮影を行っている(実情はそのための予算などの遣り繰りに終始していると言ったほうが良い?)わけですが、本当の目的は、千明さんに対しての“復讐”の計画を練っているのです(笑)。“復讐”は、ちょっと物騒ですね。一応冗談ということにしておきましょう。まあ、そのような想いでいる、と理解して下さい。前回の「朝と夜のはざまで」を読んだ、20数年前の片思いのMIZUHOさんからも、千明さんを集中攻撃するのは可哀そう、お手柔らかにね!という旨のコメントが来ていたことですし、なるたけ穏やかに行きましょう。このブログも「マイ・センチメンタル・ジャーニー」の副題を併設して、“千明さんとの対決色”を薄めるようにしているのです。
僕のライフワークは、一言で言えば「生物地理」という分野に収斂されるのだと思う。今、最も興味があるのは、“空間のフラクタル”に対応する、“時間のフラクタル”(そんな言葉があるのかどうかは知りません、僕が勝手に作った言葉)ともいうべき現象。それに関わる様々な題材のうちのひとつが、「大和と琉球と大陸のはざまで~屋久島はどこにある?」というわけです。
趣味は、アメリカンポップス。「ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代」。何としてでもJohnny本人に会いに行き、直接インタービューを行わねばなりません。
そして人生をかけているのが、(「朝と夜のはざまで」に収斂される)対千明さんの問題。第3者からは、なんでそんな非生産的なことにこだわっているのか、そんなことに、時間や能力を浪費するのは、勿体ない限りではないかと、指摘を受けます。それは良く解る。僕が第三者なら、やはり同じことを言うでしょう。しかし、自分自身にとって、何が一番大事な問題なのか、というのは、人間一人一人で、全て異なるはず。ある人にとってはどうでも良いことでも、命をかけて対侍しなくてはならない場合もあるはずです。
僕にとっては、中国も南西諸島も、チョウもセミもアジサイも、どうでも良いのです。それらは、今後、生きて行くための、バックボーン(“生きがい”のようなもの)です。目的は、千明さんへの復讐(もとい!この言葉が僕の気持を表すのに最も分かりやすいと思うので、ついつい使ってしまうのだけれど、過激な印象を与えてしまうので、余り使わないほうが良いですね、謝罪を引き出すことが出来さえすれば、何も復讐などする必要は無いのです)。残りの全人生を次ぎこんで取り組みます。普通なら、「生きがい=対・人(家族・友人etc.)」で、「生きる目的=仕事(ライフワーク)」なのでしょうけれど、僕の場合は、逆と考えて下さい。
千明さんを誹謗中傷する気持などは、一切無いのですよ。この「朝と夜のはざまで」を記述していくことも、あくまで僕の側における、in-memoriamです。千明さんに恨みがあるわけではありません。彼女の希望を受け入れることで、(僕よりも遥かに様々な可能性に溢れた)これからの人生を応援してあげたいのです。河野氏は、無条件で“許してやってくれ”と。それはやぶさかではないのです。でも、「説明と謝罪」は絶対条件です。それが成されない限り、絶対に許せません。平行線を辿り続けることも、仕方がない。平行線を交える突破口があるとすれば、“説明謝罪の遂行”以外にありません。誠意を伴ったものであれば、方法は河野氏に一任しているのです。
河野氏が様々な側面で躊躇している気持ちは、分からないではないのです。「結果としての時間稼ぎ」もひとつの方法、という旨のことを仰ったように覚えていますが、それはそれで僕も分かるような気がします。時間は、物事に対し、プラスにもマイナスにも作用するのだと思います。プラスとマイナスは、表裏一体かもしれない。ならば、プラスの側面を見つめたほうが良いでしょう。
でも、大きな懸念があります。それは、残された時間。具体的には、僕と千明さんが生きている間に(付け加えれば河野氏も、僕は絶対的に彼を信用しているので、その前提で、今のスタンスをとっています、もし将来、彼が降りることになれば、取り組み方は全く変わってくるかも知れません)問題を解決しなくてはなりません。問題の解決とは、千明さんが今後(この問題に対して)何の心配もせずに自分の人生を生きていけることであり、その条件としての僕への説明謝罪です。
千明さんはともかく、僕の場合は、いつ何時、不測の事態が起こるか、それこそ虎に食われてしまうことだって、不思議ではない
生活を送っているのです。そのことによって「問題の終結」ということだけは、絶対に避けねばならない。河野氏は、そのようなことは考えていない、と仰るのですが、(それが本心としても)現実にそのような結末になってしまう可能性は、大いにあるのです。
話題をがらりと変えましょう。
前にも同じ話をしたのですけれど、世の中にはお金持ちが多いのですね。なんて贅沢なのかと。というのは、ちょっと寒くなると衣類を着込んで、ちょっと暖かくなると、また着かえて、、、、。
僕なんか、1年の大半は、Tシャツ一枚ですよ(だから風邪をこじらせるんだって、と指摘されるかも知れないけれど、僕の風邪は“気管支炎もどき”で、寒さが原因ではありません)たまにワイシャツ、真冬の1~2ヶ月だけジャンパー着用。摂氏15度ぐらいから上は、Tシャツ一枚で充分なのではないかと思うのです。10度~15度あたりで、他に1枚、10度以下でジャンパー、その3つでこと足りないでしょうか。2℃や3℃の気温の変化で、いちいち着変えていたら、40度の灼熱の地や、氷点下寒冷地(普通の人はそんなところに行かないよ!と言われれば、身も蓋もないけれど)に行った時には、一体どうなるのだろう、と。
ともかく、100円ショップで買った、Tシャツとブリーフ、ホンコンで買ったズボン(日本円換算約500円)、マニラで買ったサンダル(日本円換算約100円)、それが今、身に付けている全てなので、僕の値打ちは800円の男、ということになります(たまに100円の眼鏡をかけている)。もっとも、貰いものでも拾いものでも無くて、お金を払って買っているわけですから、贅沢と言えば贅沢なのかも知れません。某編集者のように、自宅の水道は使わずに公園に水を汲みに行くとか、スーリンみたく、下着や靴下やバッグは、あちこち修理しながら何年も使っている、と言うのに比べれば、100円ショップでの買い物といえども、贅沢なのかも知れません。ちなみに、スーリンは、食い物だけには、お金を使うことを厭わない。一緒に食事に行くと、100元(日本円で1400円程)は平気で使ってしまう(たいてい支払いは僕なのだけれど)。他のことに1元でも余計に使うと、カンカンに怒るのですが。節約を心がけていても、食事は例外、というのは中国人の特質なのか、女性の特質なのか。
10年ほど前、何着かまとめ買いしたので、ジャンパーは持っています。そして、外出時は、常にこれを持ち歩いていて、時々着てもいます。寒いから着るのではありません。こんなのを着ていると、暑苦しくてたまらない(ちょっと急ぎ足で歩いたりすると、汗びっしょりになってしまう)。でも、みんなが厚着をしている時に、僕一人だけTシャツ一枚、というのは、みっともないというか、(全体の空気を乱すようで)申し訳ないというか、、、、。みんなに合わせねば、という想いで、目立つような場所では、いちいちジャンパーを羽織っているわけです(それと、寒くないですか?と言われた時のリアクションが面倒だし)。僕なりに、気配りはしているのです。
以前、千明さんとの関係が良かった頃(関係悪化後も問題決裂直前まで)、延ばし放題の髭や髪の毛や、汚らしい(“汚ない”のとは違いますよ!洗濯はきちんとしています)服装を気にして、たびたび意見を聞いたのですが、答えはいつも「そんなこと気にする必要は全くありません、青山さんは青山さんだから良いのです」。そんな風に言ってくれたのは、千明さんだけです。まあ、その分、嫌われてしまったら(というか、問題が決裂してしまえば)、とことんなんだろうなあ、、、、。別にそれはそれでいいのですが。
友子さんからは、髪の毛と髭(僕は髭が薄いのでそれほど目立たないはずなのだけれど)を同時に伸ばすのは御法度、と言い渡されていました。スーリンは、髭が伸びていると会ってくれない。スーリン曰く、日本人はすぐに分かる、汚らしい無精ひげを生やしているから。お前に言われたくないって!
再び突然、全く無関係な話題を。さっき買った新聞を捨てようとしたら、ある本(「まさかジープで来るとは」せきしろ・又吉直樹著、幻冬舎)の広告文が目に止まりました。
「犬が空を見ているように見えるが真偽はわからない」
自由律俳句だそうです。いいなあ、この言葉。新聞を捨てる前に、メモっておきましょう。
今日24日は、名護から辺土名に向かいます。先週もこの辺りを徘徊していたのです。ちょうど菅さんが辺野古の上空をヘリで視察していた頃、ほど遠くない石川岳に登っていて、彼が県庁に戻った頃、僕もその前を歩いていました。
政治に関しては、全く音痴であるという前提で、意見を述べさせて頂きます。
沖縄県民の憤懣が、本来ならば日本全体の負担とするべき問題(米軍基地)を、沖縄に一方的に押しつけていることによるもの、というのは、実によく分かります。問題は、(沖縄以外の地域の)日本国民の自覚が無いこと(観念的には理解していても、いざ自分のところが受け入れるとなれば拒否の姿勢を示すという、いかにも日本的な御都合主義)に尽きると思います。日本国内に米軍基地が必要か否かの問題は、とりあえず保留するとして、もし(条件付きを含めて)それを必要とするなら、国民全体で負担を負わねばならぬのは明白です。例えば、北海道・東北・関東・東海・北陸・近畿・中国・四国・九州、そして沖縄の10地域が、均等に分担して受け入れる。でも、そうはならない。自分(たち)さえ良ければ、という日本人のヤナところが、丸見え。
沖縄の人々に対しても、疑問が残ります。
僕は菅さんは大嫌いです。でも、新聞で読んだ限り、辺野古への米軍基地移転案に関わる菅さんの発言は、まともな発言だと捉えました。好き嫌いとは別次元の問題です。その上で、良いと思うことは良い、悪いと思うことは悪い、と考えて、何がいけないのでしょうか? でも、どうやらいけないことらしいのですね。世の中こぞっての空気と別方向の発言をすることは。
菅総理来訪の翌日、再び辺土名に向かい、帰りは名護までヒッチ。車を運転していた、孫が7人いるという50代のオバサンの話です。メディアの報道では“県内移転絶対反対”と、地元の大多数の人が唱えていることになっているでしょう? でも私はそうは思わないし、回りの人々も、そうは思っていない人が多いように思う。なのに、地元民こぞって反対しているような報道、何だか違和感がある、と。実は彼女だけではなく、伊平屋や辺土名や名護で出会った何人かの人からも、似たニュアンスの意見を聞いていました。
オバサン曰く、アメリカ兵でなくとも、(地元の人によっても)事件は起こる時には起こる。アメリカ兵が何かをしでかした時だけ、首をとったように大騒ぎ。アメリカの人達によって齎されたプラスの要因も沢山あるはずなのに、そのことは取り上げずに、マイナスの要因ばかり、これでもかと騒ぎ立てる。なんだか変だと思う。
物事には、プラスとマイナスの両面があるのだと思います。でも、メデイアがマイナス面に注視することを選んだら、国民もこぞってそれに従わねばならない。自分の考えは2の次ぎです。いや、無意識的にメデイアによる洗脳を受けているのに、それが自分の考えだと思ってしまっている。米軍基地、沖縄県内移転には、地元民こぞって反対。逆の意見は、“NG”なのです。障害者の方への非難をはじめ、メディアにおけるNGは、いくらでもありそうです。そして、“戦争反対、平和を”というのは、絶対的な“正義のメッセージ”、これに異を唱えることは出来ません。
中国は、本気で沖縄(南西諸島)を狙っていますよ!石油とか尖閣とかは、些末な問題。アメリカや日本などの、ほとんどの先進諸国に存在し、中国には全く無いもの、それは外洋に面した領土です。将来、有事(諸大国との紛争)が起こった時には、大変な弱点となります。(「台湾」が実質「中国」では無いという前提で)東シナ海も南シナ海も出口を塞がれている。必ずや、突破口を、本気で狙いに来ます。沖縄からアメリカ軍が撤退すれば、中国にとっては、待ってました!というところでしょう。中国の意のままにことが進んでしまいかねません。アメリカと共存し続けるか、早晩中国に占領されてしまうか、沖縄の人々は、どちらを選ぶのでしょうか?
「朝と夜~」の話をしていくつもりが、ずいぶん逸れてしまいました。
メリー・クリスマス!