ここ10年ほどの間に、特にコロナ禍をはさんで変わったと痛感するのは「観念保守」の時代は終わったのではということ。
観念保守の時代を象徴する言論人が:
西部邁・福田和也あたり。
主張ですが占領憲法や戦後民主主義の欺瞞とそれに対する伝統・歴史・皇室の意義を訴えていました。
こうした主張はそれまでタブーだった保守思想の先駆・啓蒙的な役割を果たし、特にネット媒体が未発達で紙媒体主体の時代には貴重でした。
しかしこれら主張が保守としては当然の前提となりネット情報が主役となると変わってきた。
役割は終えたというより、具体的な出来事や行動に保守層の関心が移ってきました。
たとえば私がネットで憲法改正や教育勅語の意義を訴えるより、不良外国人犯罪や新興保守政党の内幕などの紹介の方がはるかに関心が集まる。
日本のあるべき理想像への関心より、目の前で侵食されつつある日本の方が切迫しているからでしょう。
これを図式化すれば観念保守の時代から実存保守の時代へと変化していると言えるのでは?
そしてこれに拍車をかけたのがコロナ下での陰謀論の横行:
DSだの人口削減計画だの荒唐無稽なタワゴトが思想モドキとして流布し、思想というもの自体に懐疑的になってきた。
さらにそのトバッチリというか、日本の伝統や歴史のような本来の思想も価値がかすむように。
この状況、保守層が低レベルになったと嘆いても始まりません。
これが今の時代と受け入れてそれに対応していくしかないのでは?