(「上」の続き)
そして千両役者の登場と相成ります。
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●トウ小平、深センに現わる ――怒濤の改革旋風に激震確実[1992/01/24]
中国の最高実力者、トウ小平氏が19日から5日間、深セン経済特区を訪問した。トウ小平の深セン訪問は2度目で、前回は1984年1月。このときは保守派の反撃で動揺していた特区に「お墨付き」を与え、改革再加速の呼び水となったが、今回もまたその再現となるのだろうか。
特ダネをスクープしたのは、21日付の地元華字紙『明報』。他紙は完全に出し抜かれた形となった。同紙は中国の現政権に反対する姿勢を明確に打ち出しながら中国国内に有力な情報源を多数持ち、これまでにもいくつかの重要ニュースをものにした。今回のニュースソースは深セン市当局者といわれる。
……ていうか洩らしたのは間違いなく深セン市当局者だと後日私は直接教えてもらいましいた。スクープした『明報』の記者が知人でしたので。
今回の訪問が意図するものは、
●自らの健在ぶりを内外に誇示
●経済特区をはじめ現在の改革路線を改めて肯定
●重要人事が行われる党大会を控えた改革派援護
――の3点とみられるが、実際、訪問直前から指導部内で改革派の攻勢が強まる一方、保守派とされる李鵬首相がにわかに改革色を打ち出した。23日には天安門事件で失脚した趙紫陽前総書記の免責確定説まで流れ、トウ小平の目的はほぼ達成された観がある。
1月23日に流れた趙紫陽前総書記(当時)の免責確定説は事実ではなかったようですが、トウ小平が自ら抜擢した江沢民が意外に使えないキャラ(笑)だとわかったため、この時期にトウ小平が趙紫陽復活を望んでいたということはあるかも知れません。
「天安門事件で武力弾圧に反対した罪を認めるなら復活を許す」という手紙がトウ小平から趙紫陽に3回にわたり届けられたものの、趙紫陽は「武力弾圧への反対は信念に基づいたもの」としていずれも拒否したそうです。そのうちの1回がこの前後の時期なのではないかと思います。
「上」で紹介したように江沢民がにわかに改革推進へと大きく踏み込む姿勢を見せるようになったのも、トウ小平にケツバットを喰らったからかも知れませんね。ちなみに「党大会」とは、この年の秋に開催された第14期党大会のことです。ここで異例の抜擢を受け、サプライズ人事だとされたのが現総書記である胡錦涛です。
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●改革派が「勝利宣言」、趙紫陽路線への回帰強まる[1992/02/20]
[2月20日]2月12日、党の政治局会議が北京で開催され、江沢民総書記がトウ小平氏の談話を下達した。内容は南方視察時のものを基調として、改革開放の拡大を強調。一方で「形式主義」を批判するとともに、「経済工作は目下最大の政治問題」と表明し、「経済にかまけて政治を怠るな」という保守派の主張を封殺している。また「今後10年間、経済成長は条件が整えば6%(GNP)を超えてもよい」とし、李鵬首相が昨年末に設定した5.5%を上方修正。年間指標をタテに、沿海地区の大胆な改革に枠をはめようとする保守派の動きにクギを指した。
18日付『人民日報』は1面トップで「思想解放」を見出しに使い、上海市指導部の「実行精神」による各方面での業績を評価。上海の『解放日報』が「思想解放」を掲げて改革推進を主張し、同紙と論争を展開していたことを思えば、これは『人民日報』ひいては保守派の敗北宣言と読める。
20日には『深セン特区報』が重要論文を発表。その内容は、「経済建設中心の路線は百年は続けねばならない」、「経済が発展すれば問題は全て解決される」、「中央は、深センが中国の特色ある社会主義の先頭に立つことを求めている」――など、トウ小平談話と完全に符合。「効率重視を前提に『高速度』でやれるものはやればよい」とも主張している。一方で保守派の強調する「4つの基本原則」や「和平演変」には全く触れていない。
実はこの前後、私は休暇を利用して『深セン特区報』の編集部を訪ねてみたことがあります。若年客気というか稚気というか、いま振り返ると随分大胆なことをしたものだと思います。まあそういう真似事がしたくなるほど大局が動きつつあることを実感し、興奮していたのでしょう。見知らぬ日本人相手に副編集長氏が出てきてくれて、同紙の連載する重要論文や経済・政治ともに明るい方向に向かっていることを非常に熱く語ってくれたものです。
政治局会議を受けて発表されたとみられる同論文が指導部内での合意状況を示しているとすれば、中国は政治面でも、趙紫陽前総書記の絶頂期だった十三大(1987年の党大会)路線に予想外の速さで回帰していることになる。同紙は引き続き論文7篇を連載するとしており、トウ小平の主張を色濃く反映するこの8論文が、次の党大会(年内開催)における基本方針の骨子となる可能性は高い。その内容は最低でも十三大路線を再確認するものになろうが、こうした状況は趙紫陽復活の空気が醸成されつつあることを感じさせる。
一方で李鵬の守勢が目につく。昨年末に全国会議を主宰し様々な政策を打ち上げていた李鵬だが、最近の発言は改革の大枠に終始し、自らの主導で設定された経済成長率もトウ小平に覆された。トウ小平の狙いが、
●資本主義的要素の大胆な導入など改革の「範囲」拡大
●改革派による政策運営
……にあることを考えれば、李鵬は具体策を語る資格を失いつつあるのかも知れず、任期満了となる来春以降の首相続投が微妙になってきている。
「上」にてふれた全人代における「李鵬赤っ恥事件」はこの翌月(1992年3月)に発生します。事態の急変ぶりにうろたえていたのかも知れません。
14日の『人民日報』は除隊を控えた軍人に対する民用技術研修の成果を報じ、トウ小平が1985年に続く軍の兵員削減に乗り出すことを示唆した。兵員削減は限られた予算内で近代化を図るためには避けて通れないが、軍の政治的影響力を弱める一面もあることから抵抗が予想され、保守派に反撃の機会を与えかねない。この時期にそうした改革を断行できるとすれば、やはりトウ小平は「勝利」を達成したということになろう。
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……観察日記は以上です。このあと、全人代(全国人民代表大会=立法機関)直前に党中央政治局全体会議が開かれ、トウ小平の主張に沿った形の公報(コミュニケ)を発表。改革派の勝利が改めて確認されます。このころはまだ党重要会議の開催予告がなく、閉幕翌日の中国国内紙の報道ではじめて開かれていたことがわかる、という時代でした。
この会議の公報が文字通り改革派の勝利宣言ということになります。この日の『深セン特区報』が忘れられません。この報道に合わせ、紙面の半分(ハーフページ)という異様な大きさでトウ小平の写真を1面トップに掲載したのです。その常識を超えたレイアウトを見た私は戦慄したというか寒気が走ったというか、何だか文革の時代に逆戻りしたようで、ああやっぱり中国なんだなあと実感したものです。
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「上」でふれた江沢民と李鵬のそれぞれの演説から読み取れる政治姿勢の微妙な違いとか、李鵬の演説内容が追い詰められるにつれて微妙に変化していく(単語ひとつがついたか消えたかがシグナルになるケース・権力闘争編)、といったことだけに留めるつもりが、懐かしさもありつい長くなってしまいました。
でもこれでチナヲチの醍醐味の一端が伝われば……って無理ですよね(笑)。またああいう派手な権力闘争を見てみたいものです。もっと見てみたいのはやっぱり中共政権が潰れることですけど。中共が潰れて国がバラけて、さてどうなるかをたっぷり見物したいものです。
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