日々是チナヲチ。
素人による中国観察。web上で集めたニュースに出鱈目な解釈を加えます。「中国は、ちょっとオシャレな北朝鮮 」(・∀・)





 「ひとつだけ」というものが、私には二つだけ、あります。いずれも香港在住で地元ゲーム誌にコラムを連載していたころの話です。

 とりあえず「ひとつだけ」といえば、矢野顕子の初期における名曲。……と、すぐ反応できる人が当ブログを読んで下さる皆さんの中でどのくらいいるかはわかりませんが、この歌のことです。↓





 あれは1997年の5月のことだったと思いますが、有名クリエイター飯野賢治氏率いるワープというゲーム会社が「リアルサウンド」という新作をセガサターンというゲーム機対応で発売することになりました。

 飯野賢治氏というのは知る人ぞ知るYMO狂でして、当時、東京の外苑前にあったオフィスに行くと、いつもYMOの曲が大音量で社内に流れていたものです(テンションを高めるためなのか、いつもライブ音源だったような気が)。

 「リアルサウンド」はテレビゲームなのに画面が終始真っ黒という型破りなもので、ラジオドラマ風のマルチエンディングゲームとでもいうべき作品でした。途中の選択肢で何を選ぶかによってストーリーが変わり、結末も変わります。

 で、そのゲームの主題歌として採用されたのが上記「ひとつだけ」。私はすぐに「ああ、あれか」と飯野氏がYMO狂であることを踏まえて納得したのですが、職場の連中はゲーヲタでゲームの攻略が上手なために編集部員に採用された、という奴らばかりなので、YMOを知る者など一人もいません。

 私はヒマなときはいつもシーケンサーをいじくり回していましたから、

「御家人さんはどんな音楽を聴くんですか?」

 と聞かれたりします。

「俺か?まあヒカシューとか……」

 などと、わざと濃いものから入っていくと意外なことに即反応があり、

「ああ、ピカチューですね」

 とゲーオタらしい解釈をされてしまいます。orz

「いや違うんだ。プヨプヨという名曲があってな……」

「ああ『ぷよぷよ』。パズルゲームですね」

 と、お決まりのオチ。せっかくだから例の動画をまた出しておきますか。





 他にもZELDAが好きと言ったら任天堂のゲーム(ゼルダの伝説)にされてしまったり、列車を運転するゲーム「電車でGO!」などは、

(タイトーの糞野郎が戸川純の楽曲から名前パクリやがったな絶対)

 と思ったり。↓





 ……「ひとつだけ」に話を戻しますと、ゲームの主題歌になったと聞いて、

「ほら、これが『リアルサウンド』のやつ。最後に流れるのかな。俺も好きなんだよこの曲は」

 と言いながら編集長に聴かせてやりました。編集長君は興味津々で聴き始めたのですが、だんだん奴の表情が凍り付いていき……曲の途中でイヤホンを外して私に手渡すと、

「御家人さんは、こんな音楽を聴いているんですか?」

 これが音楽ですか、という表情で言われてしまいました。この男はゲーヲタ以前にアニヲタであるため、聴く音楽はアニソンばかり。

 さらに輪をかけてセラムン好きで、その関連グッズなど部屋を埋め尽くすコレクションの数の凄まじさに地元週刊誌から写真入りで取材された経験まである奴ですから、私の側からいえば治癒不可能なんだろうなあ、ということになります。私はアニソンはアニソンで音楽だと思っているんですけどね。

 ともかく連中との間に横たわるこの辺の溝の広さと深さといったら話になりません。そういう環境下で長年仕事をしてきた結果が私の寿命を縮める一因になったのではないか、と思うほどです。

 ――――

 もうひとつの「ひとつだけ」は他愛もないことですが、このことばかりは臆面もなく自画自賛してもいいんじゃないかな、というケース。

 私は1995年秋に『ファミ通』香港版(当時)を出していた企業に翻訳者として入社し、香港ゲームメディアの一員となりました。ですから当初は日本語の原稿を中国語に翻訳する仕事に携わっていたのですが、

「せっかく日本人だし」

 ということで、別にコラムを書かされる破目になりました。私はその会社に入ってプレイステーションとは何か、セガサターンとは何か、RPGとは何か、ということを初めて知ったクチなので泣きたくなりましたが、社長命令とあれば仕方がありません。

 でもゲームそのものを語るなんてことはもちろんできませんから、あれこれ考えた挙げ句、香港在住初期に余暇の趣味としてやっていた中国観察を日本のゲーム業界やゲーム市場に入れ換えてやってみよう、という結論になりました。偶然ながらこれがニッチなテーマとなったのです。

 ゲーヲタ風情に市場動向の分析や今後の予測など、できる訳がありません。しかし1996年の夏になると、プレイステーションとセガサターンの販売競争が過熱してきたところに任天堂がニンテンドー64というゲーム機を発売し、「ゲーム機三国演義」などといわれるようになりました。

 こうなると、どのゲーム誌もこの話題を避けて通ることはできません。……ということで翌年に私を引き抜くことになるライバル誌をはじめ、他の雑誌も「どのゲーム機が勝つか」という記事を掲載したのですが、不思議なことに他誌はいずれも「セガサターン」が勝利するとの予測を立てました。

 その理由というのが、

「ゲーマーの好むソフトが多い」
「周辺機器が豊富だからゲーマーは喜ぶ」
「やっぱり『バーチャファイター』シリーズが客を集めることは必至だし」

 といったものばかりだったので抱腹絶倒させてもらいました。ゲーヲタが取り組むとどうしてもゲーマー視点で判断してしまうところに可愛げを感じたのです。ま、所詮馬鹿は馬鹿な訳で。

 ゲーマー視点がいかに無益かということを数字で挙げると、まず日本のテレビゲーム人口(携帯型ゲーム機を含めず)は約3300万人前後。そして日本におけるテレビゲーム機の市場規模というのは、どんなに売れても2500万台に届かないくらい。それでも2000万台は確実にあります。ところが『ファミ通』などテレビゲームを専門に扱った定期刊行物の毎号の販売部数の総和はといえば、いくら頑張っても300万部を超えることはありません。

 要するに日本のゲーム機市場というのは、ゲーム雑誌を熱心に読んでいるゲーマーがいくら頑張っても、その大勢を左右することはできず、勝敗はゲーマーとは無縁の、全く別の要素によって決せられるということです。それが何かといえば、ゲーマーではないし普段ゲーム雑誌を読むこともないけれど、数でいえば買い手の圧倒的多数を占めるライトユーザーの嗜好ということになります。

 ……という道理を私は説いた挙げ句、馬鹿は挑発するに限るとばかりに、

「勝つのは間違いなくプレイステーション。だってライトユーザー向きだから。お前らゲーム雑誌を読んでるような連中には何の力もないんだよ」

 とコラムで結論づけたところ、読者はもちろん他誌からも例によってゲーマー視点の反論がわらわらと湧いて出たのですが、結果は私が予測した通りに事が運び、プレイステーションの独り勝ちとなりました。

 ――――

 このことをきっかけに私は業界コラムニストとして重んじてもらうようになり、原稿料も大幅に引き上げられました。実際翌年には引き抜かれましたし。……てなことはともかく、このとき私は「ライトユーザー」の翻訳語で適当なものがなく、その存在について紹介する上で非常に不便を感じたため、広東語でゲーマーを意味する「機迷」という単語の対極ということで頭に「非」をかぶせて「非機迷」という言葉を造語しました。

 この「非機迷」を以て、ライトユーザーというものがテレビゲーム機を含む大衆市場にはいるんだよ、こいつらが一番大事な働きをするんだよ、ということを香港の読者や同業者に知らしめました。

 するってーと、この「非機迷」という日本人による造語が、いつしか香港では業界用語として定着してしまい、いまではゲーマーの集う掲示板やブログ、さらにゲーム雑誌ばかりか、地元紙も文化面で平気で使っているのを知って驚きました。

 おヒマな方は、雅虎香港(Yahoo! Hong Kong)に飛んで「非機迷」で検索してみて下さい。大衆紙『東方日報』や、ややお堅いとされる『明報』まで「非機迷」を使ってくれています。たぶん、記者がたまたまかつて私のコラムの読者だっただけのことだと思いますけど(笑)。

 誰が「非機迷」という造語を行ったか、ということが忘れられてもいいのです。業界コラムニストとしての私の名前が忘れ去られてもいいのです。ただ「非機迷」という単語が今でも使われ続けていることに、外国人コラムニストとしては冥利を感じるのです。

 まあ、どうでもいいことではありますけど。

 死期の迫った老人の、昔誇りのようなものだと思って頂ければ幸いです。





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 久しぶりに楊枝削りでもしてみようかと思います。

 実は最近、私にとってちょっとはた迷惑な困った事態が進行していまして、その流れの中でひょんなことから映画を観にいくこととなり、引きずられるように新宿三丁目の映画館に連れていかれて、観たくもない作品に付き合う破目となりました。

 予想通り面白くもない糞ベタなストーリーでその展開にも多々無理がある映画だったのですが、劇中に登場するメインキャラの一人が不治の病で余命三年という設定(笑)。そこら辺も判で押したようなもので「やれやれ」と思わされたものの、残り時間を意識してやっている作業がが私と同じようなことだったりしたので変に身に積まされました。

 面白くもありませんが悪い映画でもなかったように思います。ただ全体的に主演女優のプロモビデオみたいな印象があるので、そのヒロインを好んで観られるか否かで評価が分かれると思います。私は後者。

 そういったこととは別に、余命三年キャラが使っていた傘が妙に良さげでした。

 映画が終わってグッズ売り場に行ったとき、そのことをつい口にしてしまった私は、その傘を買わされる破目に。orz……私は普段、色で傘を使い回していて、ちょうどローテーションの穴を埋めてくれるものですし値段もまあ手頃だったので、無駄な買い物ではなかったのですけど。

 帰宅して開いてみると、やはり良い感じでした。御存知の方も多いでしょうが骨が24本ある傘です。

 だから丈夫かどうかということは私にはどうでもよくて、何が良いかといえば、パラリと開くと和傘というか番傘というか、とにかく時代劇に出てくる傘のようなデザインになるのです。これがもうすっかり気に入りまして。

 いまのところ使用していて特に問題もないので、ローテの中では主戦傘になりました。私は傘をさすのがどうにも下手なので土砂降りのなか長い距離を歩くのは嫌ですけど、パラパラ降っているときにこの傘でちょっと出かけるのは楽しいです。


MABUベーシック【超軽量】24本骨傘 インディゴ(紺)

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 ちなみに、「傘中情」という今回のタイトルは上海留学時代に観た映画の題名です。

 そのころ私は留学先とは別の大学の中国人女子学生と密かに友達付き合いをしていて(周囲には知られていなかったと思います)、ときどき二人で出かけては和平飯店別館のカフェなどに入り込んで、他愛もない話や愚痴合戦で時間をつぶしたりしていました。……すっかり忘れていたのですが、今回雨傘を取り上げるにあたって本当に久しぶりに記憶が甦った次第。

 当時の中国の大学生のモノサシで測ればかなり個性的な女のコでした。私を日本人扱いしないでくれるのも気が楽で、留学前に少しハマッていた張抗抗の『夏』シリーズで朴念仁な主人公を翻弄するヒロインは、実際にいるとすればこんなコじゃないかなあと思いながら茶をしばいていたのを、懐かしく思い出しました。

 彼女にせがまれて一緒に観たのが「傘中情」。ヨーロッパのどこかの国のB級ラブコメものでした。ストーリーはすっかり忘れてしまいましたが、タイトルにある通り、傘が重要なアイテムとなって話が展開する内容だった筈です。

 映画のせいかどうか、その日はいまにも雨が降り出しそうな曇天だったことを覚えています。私が傘を持って彼女の大学へ迎えに行くと、やはり傘を持って出てきた彼女は、

「あ、一本あれば足りるよね」

 と言って宿舎に逆戻りし、手ぶらで出てきました。常にこんな調子です。

 楽しく映画を観てから外に出ると、果たせるかな本降りになっていました。バスで彼女の大学まで送って行くと、彼女は私を引っ張ってひとつ前の停留所で二人して下りてしまいました。

 そこからは相合傘です。私の傘は二人をすっぽり収容できるほど大きくありませんでした。気の利いた男ならここで彼女の華奢な肩に手を回すくらいのことはするのかも知れませんが、私にはそんな才覚も度胸もなく、自分の左肩を濡らしたまま雑談しながら歩いて終わりました。

 彼女には変に義理堅いところがあって、私が帰国する日に「空港まで見送る」と言って聞きません。仕方がないので、留学先の大学で留学生や親しくしていた中国人学生たちに見送られた私を乗せたタクシーは、空港へ直行せず回り道をし、彼女をピックアップしてから当時の虹橋空港に向かいました。

 日航龍柏ホテル(古っ)で食事を共にしながら、餞別のプレゼントを交換しました。偶然ながら、どちらも選んだのは万年筆でした。「文通でもしような」という含意で、そこら辺は20年前の、純朴さを残した中国の大学生のノリです。

 帰国してから何度か手紙のやり取りをしたのですが、私の方が「卒業→転居→就職→倒産→香港へ」と目まぐるしく転々としたために、自然に連絡が途絶してしまいました。

「淋しくなるね。……でも楽しかった。ありがとう」

 と最後にちょっと泣いて「らしくない」一面を見せてくれた彼女も、いまでは私同様に歳月を重ねて立派なオバサンでしょう。あのキャラならたぶん少し年上の男性と結婚して、良妻賢母になっていると思います。





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 今回は遊びです。というより拷問というべきでしょうか。

 ともあれこの先に目を通さないことを最初にお勧めしておきます。

 もちろん、ニコニコ動画では有名な「Φ串Φ」さんの【初音ミクオリジナル】夢一夜を歌ってみたの素晴らしさに刺激されたなんて、そんなことを言う資格も能力もは私にはありません。

 あのような名作を引き合いに出すことすら憚られるのですが、私もたまたま条件が揃ったのでつい「敵機を高射砲で撃墜する」(打×機=広東語)気になってしまいました。

 ――――

 さて。いまここを読んでらっしゃる皆さんは拷問覚悟という訳ですね。その意気や善し、誠に天晴でございます。m(__)m

 後悔しても知りませんよ。



 こんな夢を見た。

 大卒早々、就職先がバブル崩壊の嚆矢となって入社3カ月で倒産しちまった。再就職先を探していたら、物の弾みで香港で働くことになった。

 現地に渡航して3カ月。幸い上司のおぼえめでたく試用期間も過ぎたので、学生時代から付き合っていた彼女を呼び寄せて、湾仔の古びたフラットで一緒に暮らした。

 一緒になることを、ずっと一緒にいることを、約束していた。

 1年後、田舎だけど新築で家賃の安い高層団地に引っ越した。18階の部屋の窓から見える夕焼けが、遠くの山並みとその上の空が染まっていく時間が、二人とも好きだった。

 その翌年の夏、彼女は親族の結婚式に出るため一時帰国した。でも戻って来なかった。事故で呆気なく逝っちまった。

 俺との約束、どうするんだよ。

 あいつがもういない、というのが嘘みたいで、1年くらい何も手につかなくて、俺はあの夕暮れを独りで眺めていた。

 でもある日,夢に彼女が出てきた。

「なあ、どうして俺たちは一緒になれないんだよ?」

 と尋ねたら悲しそうに微笑んでいた。目が覚めたらこの駄曲が浮かんだ。それを五線譜に書きとめて、俺はリセットした。

 嫌な思いをした事とか喧嘩したこともたくさんあるのに、先立たれてしまうと、楽しい思い出しか浮かんでこない。どうしてなんだろう。

「のんびりしてこいよー」

 と笑顔で送り出したあの空港もなくなっちゃって、俺を取り巻く全てが変わってしまった。

 けど、あいつはいまも俺のことを見守ってくれている。そう信じている。俺が凹んでいるときに、必ずあいつの声が励ましてくれるから。

 そして俺も祈る。ありがとう。本当にありがとう。ただそれだけ。


★★★彼岸の子守唄★★★



【※】本故事純屬虛構,如有雷同,實屬巧合。




 珍しく昔の荷物を整理していたら、香港在住のころシンセを買ってひねり出した駄曲の数々が入ったMDが出てきました。ちょうどカセットテープやMDの音源をMacに取り込むアイテムを買ったところなので、お耳汚しと無恥を承知で遊んでみた次第。誠に申し訳ありません。m(__)m

 理論もコード進行も勉強したことがないので楽曲は全くもって糞ですが、香港最大手の週刊誌で活躍しているフォトグラファー・Boney LUK氏の写真は味わいに満ちていて実に素晴らしく、並べてみたら何やら「香港」へのレクイエムのようになってしまいました。

 彼が最近立ち上げたネット上の「個展」にも是非是非お立ち寄りの程を。

 ●Littlebone(ブログ)

 ●BoneyLUk Photography(HP)

 なお「seiuchi」さん御推奨の「ほんこーん」さんの作品の中ではやっぱり「つきうさぎ」がずば抜けているように思います。ああいう素晴らしい素材が呼吸する余地のない香港社会は、少なくともサブカルチャーの面においては、やはり「先が見えている」といった印象を受けざるを得ません。悲哉悲哉。

 ――――

 ちなみに、私の「夢」の続きというか「リセット後」の話についてはこちらを。

 【※】かなり恥ずかしいので今回はコメ禁ということで。諒とされたし。m(__)m




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 日本社会がバブルで湧いていた時期、私は大学生でしたからその恩恵に浴することは全くありませんでした。強いていうとすれば、就職活動が売り手市場で、内定をとることには全く困らなかったことでしょうか。

 もっともそれは真面目に就職活動を行った連中のハナシで、私はむろん埒外です。

 2月末日に上海留学から帰国して最終学年に入っても、留学中に発生した民主化運動~天安門事件のこととか、事件後の半年に体感した政治・経済引き締めについて頭の整理がつかず、またこの時期に論文が出た「諸侯経済」というものの面白さに魅き込まれていて、就職活動を行う気にはなりませんでした。

 それから大学では自分なりのプログラムで授業を選別してきただけに、「自分にとっては無駄だが必修科目」というのが後回しにされていてその単位をとる必要もあり、留学ボケと相まって就職活動に気を回す余裕がなかったのかも知れません。

 もっとも、その時期に恩師をはじめ諸先生方から、

「この会社に入る気はないか?」

 という紹介話は色々頂いていました。

 ――――

 臆面もなくいえば、私は第二外国語や一般教養科目などを軽んじてロクに出席せず、追試や特別レポートで辛うじて勘弁してもらうという不遜な単位の取り方をしていたものの、中国語や現代中国に関する授業は当然のように「優」で揃えていましたし、実際、大学に入る前から中国語をしっかり勉強していた学生とか帰国子女を別とすれば、同期生で私より中国語の上手な者はいませんでした。

 それから、私は授業時間外に諸先生方の研究室を訪ねて質問をぶつけたり余談を拝聴したりすることを授業よりも大切にしていました。教室では得られない貴重なものをピンポイントで自分の血肉にすることができたからです。

 「学校の成績=社会人としての優秀さ」でないことはもちろん当時から常識とされていましたが、私のこの積極的な姿勢は、「大学→大学院→大学教員」というコースを経てきた浮世離れした世界の住人にしてみると、「こいつは社会に出ても相当やるだろう」という印象を与えるには十分だったようです。

 ちなみに恩師は浮世離れしたコースではなく、反右派闘争、大躍進、文化大革命で常に悪者にされる立場のなか、「いつも生命の危険を感じていた」(恩師談)という激動の時代を生き抜いてきた人です。

 恩師とは「こいつは私の弟子」「この人は私の師匠」と認知し合っての相思相愛の師弟関係という得難い縁を結ばせて頂き、いまも毎日のように電話し合っているのですが、ふと数えてみたら大学時代に受けた恩師の授業はわずか2コマでした。それだけ教室外で教えを受ける機会が多かったということです。

 ともあれ、諸先生方からは就職先をいろいろ紹介してもらったのですが、これは片っ端から断りました。恩師から紹介された会社は私に一番向いていそうな印象もあったのですが、やはり辞退しました。このほか、大手電機メーカー勤務の父親やそのテニス仲間で対中貿易専門の商社に勤めている方からも誘いを受けたのですが、これも断りました。

 一言でいうと、紹介してくれた人に恥をかかせる訳にはいかなかったからです。

 当時の私は自分を顧みて、毎日スーツを着て満員電車に揺られて通勤し、「9時5時」+残業+接待、という地道な毎日を積み重ねていく自信がありませんでした。まず3年も勤まるまいと思っていましたので、紹介者に迷惑はかけたくなかったのです。

 ――――

 さて、ダラダラしているうちに夏に入り、ようやく私も「そろそろ動かないとマズいな」と思うようになりました。

 ようやく重い腰を上げたのは8月になってからで、同期生たちの大半がもう希望通りの内定を取り終えて一安心していたころです。確か「対中進出企業一覧」のような本があって、そこから候補となる会社を選別しました。

 条件は、

 ●中小企業。
 ●中国語を使う機会のある仕事。
 ●遠からず中国に駐在できそう。

 という3点です。大企業を避けたのは、「自分の働き次第で会社の業績が左右される」ような環境で頑張りたいと思ったからで、若年客気のカタマリであった当時の私が考えそうなことでした(笑)。

 中国駐在なんていまでは真っ平御免ですけど、当時は上海から帰ってきたばかりでしたし、現在のような環境汚染や有毒食品のような問題もありませんでしたから、また中国に戻りたいという甘い気持ちがありました。

 当時はインターネットなどありません。卒論をワープロで打って出しただけでも先進的とみられた時代ですから、電話でアポをとることになります。

 その作業を進めていく中で意外なことが判明しました。中小企業だと中小だけに余裕がなくて求人予定がないか、あるいは求人のつもりはあっても対象は経験者に限られ、新卒者はお呼びでないということです。

 それでも何社か応じてくれることとなり、履歴書を送りました。中国と取引のある中堅以下の商社やメーカーです。

 私は大学の諸先生方に喰いついていったように、こちらから門を叩いて人と会うということは平気なのですが、お追従を並べたり場を盛り上げたりするのは大の苦手。自分の性格に照らして、

「営業とか接待は嫌だなー」

 と思いましたけど、仕事だからこれは仕方ありません。

 ――――

 お盆休みの明けた8月下旬のころだったと思いますが、最初にアポの取れた商社の面接に赴きました。面接はアルバイトで何度も経験していますけど、初めての就職活動ということでひどく緊張しました。しかも慣れないスーツ着用です。当時はソフトスーツとかツータックパンツなどは御法度とされていたので、ぴっちりした格好の悪いタイプです。それを着るだけで気持ちが重くなりました。

 しかも当時の私は山奥に住んでいて、私鉄の駅までまずバスで30分。そこから渋谷とか新宿といった副都心までさらに45分ばかりかかります。この私鉄がすさまじいラッシュで、私はドアの窓ガラスに押しつけられながら、「就職先が決まったら引っ越しだな」と思いました。

 で、目指す商社は新橋だか浜松町だか忘れましたが、さらに山手線に乗り換えていくのです。

 緊張+気の重いスーツ着用+遠距離通勤+「営業とか接待は嫌だなー」

 といった要素に加えて、この日はまた残暑が厳しかったものですから、半ば汗だくで目的地に到着しました。ひどく緊張している上にモチベーションは最低という最悪のコンディションです。

 そして面接と相成りました。広いオフィスではないので会議室などではなく、つい立てで仕切られた応接用のソファです。まず『人民日報』の短い記事が渡されて、和訳させられました。

 中国語の力を試すということだったのでしょう。マクロ経済に関する内容だったと記憶していますが、拍子抜けするほど簡単なものだったので「馬鹿にしやがって」と思いつつサクサクと訳し終えました。オフィス内を見渡して何の変哲もない、普通の職場だなーと思いました。

 そのあと担当者のオサーンが私の履歴書を携えて登場し本番の面接です。

「君と同じ学科で3年先輩の卒業生がウチで働いているよ」

「あーそうですかー」

 そのくらいのことは大学の就職部で下調べしてあるので知っていました。

 ――――

「仕事柄、お酒を飲む機会が多いんだけど、大丈夫かな?」

「はあ、酒量はそこそこあるので問題ないと思います」

 「お酒は升々」というほどではありませんけど、数え切れないほど学生同士で飲んでいて、先輩たちから集中攻撃されて飲み倒されるとか、酔って前後不覚になるといったことは全くなかったので私はそう答えました。

 そのあといくつか会話したのですが内容は覚えていません。ただし、最後の最後に強烈な一言を浴びせられました。

「ちょっと言いにくいんだけど、君は対人恐怖症とかではないだろうね?」

「……はぁ?」

 虚を衝かれた一撃でした。私はよほど緊張していた様子だったのか、上述したようにコンディションが悪くて受け答えがハキハキしていなかったのかわかりませんけど、そんなことを尋ねられたのは初めてだったので大いに驚き、面食らいました。

 面接を終えてビルから往来へと出ました。少し歩いて喫茶店に入ってアイスコーヒーを飲むうちに、だんだん腹が立ってきました。

(あんな糞会社、こちらから願い下げだ)

 と思う一方で、

(でも対人恐怖症なんて言われるくらいだから、不合格だよなー。スーツ着てわざわざこんなとこまで出てきて、無礼なこと言われてしかも無駄足とは踏んだり蹴ったりだ)

 帰路の遠さに気が重くなりました。

 ――――

 ところがです。二週間近く経ったあと、その糞会社から封書が届きました。あーきたきた不採用通知&履歴書、と思いつつ開いてみると、何と内定通知。

(ケッ、馬鹿どもが)

 と私は思いました。嬉しくも何ともありません。どうせ私の先輩に当たる社員を通じて大学の先生に私がどういう学生であるかを一応調べてみたのでしょう。上述したように、諸先生方に私のことを悪く言う人がいる筈はありません。しかもその先輩とやらが1年生のときのクラス担任の先生は私と同じで、この先生は、

「あなたは筋がいいから、気を抜かずに努力を続けなさい」

 と、ことあるごとに私を激励してくれていましたから。

 大学にあたってみて驚いた、ということなのだろうと私は推測したのです。もちろん、内定通知はそのまま放置。そのあと、

「一度打ち合わせに来てほしい」

「研修をやるので出てほしい」

 といった手紙が来て、煩わしくなったので、

「内臓に疾患があることがわかり、4月から就職することは諦め、療養に専念することになりました」

 と嘘丸出しの断りの手紙(笑)を返したのですが、それでも粘られたので、

「履歴書の返送を願います」

 と無愛想に書いて送ったら、ようやく履歴書が戻ってきました。

 ――――

 このことがあってから私は悪い意味で多寡をくくるようになり、就職部よりも『ビーイング』という転職情報誌で当たりをつけては片っ端から面接を受けて内定や採用通知を取りまくりました。

 まずは最初から入社する気のない会社ばかりを選んで面接の場数を踏み(練習試合)、いい加減慣れたところで気になる会社の門を叩いて内定をもらっておいて、手持ちのトランプから一枚を引くようにして「ここにしよう」と決めたのが卒業直前のことでした。一番条件がよく雰囲気も悪くなくて上海駐在への道もありそうだったのが決め手です。

 内定をもらっておいて袖にした会社に対する罪悪感は現在に至っても全くありません。向こうが選別するように、こちらも会社を選別する訳ですから。

 もっとも、バブル期ゆえにそういう贅沢な遊びができたのだと思います。私がバブルの恩恵を受けた唯一のケースがこれでしょう。

 ところで私が選んだ会社ですが、中小企業ですからさすがに甘くはありません。大学を卒業し入社して、2日目から先輩(40代)について営業をやらされました。しかもその大半は電話帳で当たりをつけてアポをとっての飛び込み営業です。研修などは時間が空いているときに申し訳程度に行われただけでした。

 ただその先輩が電話でアポを取るための虎の巻を書いてくれたり、一緒について回る間に何となく呼吸を飲み込むことができて、1カ月後には「単独飛行許可」というか独りで商材を選定し市場を開拓するように命じられました。

 浅草橋の問屋街にはよく足を運びました。秋葉原から浅草橋への総武線のガード下脇に小さな公園があり、ひと休みや次のアポまでの時間潰しに営業マンたちが小休止しているのに混じって,私もタバコを吹かしていたものです。

 私は自分の選んだ商材を日本のメーカーに持ち込んで、上海で生産させるという段取りをつける役目でしたが、ほどなく、

「それじゃサンプルを作ってもらおうか」

 というメーカーが数社出てきました。いずれも相手にとっては気乗りのしない話だったかも知れませんが、社会人になって2カ月ばかりしか経っていない私にはとてもうれしかったです。

 ――――

 ところが、就職活動でバブルにあやかった私が、今度はバブル崩壊の洗礼を浴びることになります。対中貿易より土地転がしに熱を入れ過ぎた私の勤務先がしくじって、あれよあれよという間に倒産してしまったのです(笑)。

 そこで再就職活動ということになったのですが、たまたま新聞広告に出ていた香港の日系企業の求人に応募(翻訳&面接)したところ、なぜか競争率50倍以上の難関を突破して合格してしまい、香港へ渡ることになりました。当ブログを含む現在の私につながる全ての物語がここから始まります(笑)。

 ちなみにそこの社長から後で聞かされたのですが、いかにも仕事の出来そうなビジネスマンやキャリアウーマン系の男女が並みいる中で私を選んだ理由は、

「中国語も一応できるようだし素直そうでいい。若いから給料も安くて済むし、営業が出来そうだから使えなかったらそっちに回そうと思った」

 というものでした。社会人になって3カ月に過ぎないながらも、飛び込み営業の毎日を経て私の雰囲気が変わったのか、糞会社のオサーンに眼力がなかったのかはわかりません。ともかくあの糞会社に入っていたら、現在のように面白おかしく日々を過ごすことができなかったことは確かです。

「ちょっと言いにくいんだけど、君は対人恐怖症とかではないだろうね?」

 という一言のおかげです。だから今でもあの糞会社、「太×交易」の節穴オサーンに私は感謝しています(笑)。

 ――――

 続編はこちら。

 ●台湾と台湾人(2005/12/19)




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 何年経っても、この時期になるとさざなみ立つような感情から逃れることができません。

 きょう6月4日は天安門事件(六四)18周年です。

 いまこれを書いている6月3日夜、1989年はこの時点ですでに人民解放軍の市民・学生に対する無差別な実弾射撃が始まっていたかと思います。正規軍が、完全武装の歩兵が自動小銃を空に向けてではなく、自国民めがけて直接実弾を発射したのです。

 装甲車(歩兵戦闘車?)や戦車までが投入され、「先鋒として敵陣突入」という役目通りのことを行いました。あのキャタピラに轢かれて両足を失った学生もいれば、人間としての形を留めずに文字通りミンチにされてしまった人もいます。もちろん身元などわかろう筈がありません。

 歩兵による射撃にはダムダム弾が使用されたとも言われています。誰が書いたものか、色々読んだので忘れてしまいましたが、当時現場にいた大学生の手記の中に、

「畜生、奴ら『開花弾』を使いやがった」

 と罵るくだりが出てくるものがありました。また2003年、中共による北京での中国肺炎(SARS)流行隠匿を告発して有名になった蒋永彦医師、この人が天安門事件当時北京の病院に勤務しており、当直医として被害者治療にあたっています。その手記の中にも、本来なら人体を貫通ないしは盲貫(体内に留まる)するだけの筈の小銃弾が、着弾とともに体内で炸裂していたため手の施しようがなかった、という記述があります。

 ――――

 上で「自国民」とつい書いてしまいましたが、これは私たちの感覚にすぎませんね。なぜなら厳密にいうと「人民解放軍」は中国共産党の軍隊であり、中華人民共和国軍ではありません。その立場からいえば、北京に屯集した市民や学生は国民であろうとなかろうと関係ありません。「党の敵」という認定(定性)がなされれば、容赦なく殲滅して構わない存在なのです。

 実際に民主化運動に対しては4月末にまず「動乱」認定があり、武力弾圧に際してはさらにランクアップして「反革命暴乱」と規定されました。インフラを傷つけることを恐れたのか、手榴弾が使われなかったのは幸いでした。

 何せ海外プレスが常駐する首都で起きた出来事です。そうでなくても民主化運動の盛り上がりで平時以上に報道陣が集まっていました。ですからこの事件、私たちの常識では考えられないショッキングな映像は全世界に流され、いまもネット上で入手することが可能です。

 私も日本のテレビでそれを何度となく見ることができました。ただ、事件当時私は上海に留学生として滞在していたため、そうした映像はリアルタイムではなく、半月後に外務省の「退避勧告」と母校の「帰国命令」によって日本に戻ってから目にしたものです。

 ――――

 北京の詳細な動きはわかりませんが、上海ではソ連のゴルバチョフ書記長(当時)来訪に合わせた5月18日と19日が市民も大挙参加して運動が最高に盛り上がった時期でした。その19日の深夜に北京市に戒厳令を敷くことが発表されるのですが、当夜、ふだんなら午前0時の「晩安」(おやすみなさい)を最後に放送を終了する上海人民廣播電台(地元の中波ラジオ局)が、23時半すぎから、

「上海人民廣播電台。各位聴衆,本台今天夜裏將有重要新聞要廣播,請注意収聴。中央電視台將播出重要新聞,請注意収看」
(こちらは上海人民ラジオ局です。放送をお聞きの皆さん、今夜半に重要ニュースを放送致しますのでこのままお待ち下さい。また、中央テレビ局は重要ニュースを放映しますので御留意下さい)

 という不気味な一節を繰り返していました。すでに地方から投入された軍隊が北京に入ろうとしていた時期です。何事が起きるのかと日本人留学生の有志(笑)は私の部屋に集まって固唾を飲んで待っていたところ、飛び込んできたのが北京が戒厳令に入ったというニュースです。これは容易ならぬことになった、と私たちは顔を見合わせました。

 そのころ、上海・外灘(バンド)の上海市政府庁舎前で夜通しの座り込みを行っていた多数の中国人学生たちの間では、

「上海にも軍隊が投入される」

 という想像ないしは虚言から恐慌が発生していました。要するにパニックになって、その場にいた学生たちが秩序も何もなく、我れ先にとその場から逃げ出したのです。

 そのとき現場にいた私たち有志のひとりである日本人留学生が逃げ出す学生をとっつかまえて、これはつまりどういう状況なのかを知ろうとしました。ただし中国語会話が不得手だったためメモを持ち出して、書いてくれと迫ったのです。

 パニックに巻き込まれなかったその留学生も肝が据わっていたものだと私は感心しましたが、その求めに応じ、逃げようとする足を止めて差し出されたメモにひとまとまりの文章を書き付けてくれた中国人学生も相当なものです。後で見せてもらったのですが、

「政府はついにファシズムというその本性を露わにした。民主化を求める我々大学生の愛国運動に対し……」

 といった内容の、それだけで演説原稿になりそうなしっかりとした文章でした。

 ――――

 ……ともあれ翌5月20日以降、市民の運動参加が激減し、学生は連日デモを繰り返していましたが、その勢いが5月末にかけて徐々に衰えつつあるのを私たちは感じていました。NHKの国際放送「ラジオジャパン」をはじめ、VOA、BBCなど海外の短波放送が伝える政情も、趙紫陽・総書記(当時)を筆頭とする改革派の敗勢覆うべくもないことを思わせました。

 つまり、上海では民主化運動がともすれば尻すぼみになりかねない状態にありました。そんな中で天安門事件が発生した、というのが驚きでしたし、市民や学生に軍隊が実弾射撃を行って武力弾圧した、というのも私たち外国人はもちろん、私と同世代だった中国人学生の想像をも超えていました。いや、文化大革命をくぐり抜けてきた老教師も、

「学生運動が失敗するだろうとは思っていた。思っていたが、こんな結果になるとは予想だにできなかった……」

 と、暗い表情で話してくれたものです。

 1989年6月3日の上海というのは、学生によるデモは行われていたものの、終業シーズン(中国は9月が新学期)の空気が漂うなか半ば惰性でやっているという気配がありましたし、学生リーダーたちの間でも今後の方針に関して対立が発生していた時期でした。

 その日、私たち留学生は農村ツアーに駆り出されました。生活感のない、外国人や地方からの視察団に見せる目的で作られた郊外のモデル農村を見学させられ、党書記の演説を聞かされ、そのあとは御馳走が出て教師ともどもビールで乾杯を繰り返しました。……不謹慎なようですが、上海はすでにそういう空気だったのです。農村見学は自由参加でしたから、デモが盛り上がっていれば私たちも加わらなかったでしょう。

 ――――

 一同いい気分になって学校に戻り、留学生宿舎の自室に引き揚げました。ただ習慣となっている上海人民廣播電台と短波放送での情報収集は欠かしませんでした。……すると、また夜になって上海人民廣播電台が不思議な放送を繰り返し始めました。北京市郊外で軍の車両が人身事故を起こし市民4名が死亡した、といったニュースを何回も繰り返すのです。どうやら何かが起きたらしい、いや起きているのかも知れない、とそこでまた有志一同が緊張して集まり、色々考えてみましたが答は出ません。

 ちょうど、「ラジオ日本」の夜のニュースの時間でした。これは海外への放送を前提としていないため、NHKのラジオジャパンと違い、条件がよくなければ聞き取れないほど雑音の入る放送でしたが、その夜は幸運にも聞き取ることができたのです。

 そこで入ってきたのが、北京で軍隊が学生や市民に無差別に実弾射撃を始めている、というニュースだったのです。あのときの戦慄はちょっと表現できません。そして、他に情報収集の手段を持ち合わせなかった私たちにはそれ以上何もすることはできませんでした。

 テレビは1階の応接室にありましたが、職員が帰るときにカギをかけてしまうために入れません(入ってもテレビではニュースを流していなかったと思います)。緊張と興奮が混ざりあった気分と手も足も出ないやるせなさを感じつつ、私たちはそれぞれ床に就くほかありませんでした。

 ――――

 なかなか寝つけなかったのですが、少し眠ったかと思ったところで部屋のインターホンが私に電話が来たことを伝えました。いまは知りませんが、当時は電話は宿舎職員の勤める服務台(宿舎受付)にだけ設置されていて、電話が来るとインターホンで該当者に知らせる仕組みです。

 時計をみると6時45分でした。こんな朝早くに……と思いつつ受付に下りて受話器をとると、何と日本の恩師が自宅からかけてきた電話でした。珍しく興奮した声で、

 ●北京で軍隊が学生や市民に発砲して死傷者が出ている。
 ●NHK(テレビ)は一晩中北京の映像を流した。発砲シーンもあった。

 という趣旨のことを手短かに伝えたうえ、「学校命令」として、

 ●外地(上海以外の地区)には出ないこと。
 ●デモに巻き込まれないように十分注意すること。デモ参加などはもってのほか。
 ●何かあったら御家人まで連絡すること。(同じ学科からの留学者では私が最年長だったので)

 ……との3項目を宿舎に貼り出しておきなさいと言われました。加えて最後に、つい最前線に飛び出してしまう私の性質を知る恩師は、

「御家人君、あなたも駄目ですよ。デモに参加したらいけませんよ」

 と念を押すように言われました。後日留学仲介業者からの連絡もあって、やはりなぜか私だけ同じことを念押しされてしまったのですが、結局この点だけは私は守れませんでした(笑)。

 まあ留学先が北京ではなく、オフサイドトラップにも引っかからなかった(1回だけ私服に尾行されて危ないことがありましたがw)という僥倖により、今こうしてブログを書いていられる自分がある訳です(真剣)。

 ちなみに一時帰国で恩師宅に挨拶に行ったとき「すみません約束を守れませんでした」と正直に白状したところ、恩師は上品に笑いつつ、

「そんなことわかっていますよ。わかっていますけど、一応言っておいただけです。ともかく無事でよかったですね」

 と言ってくれました。……まあそれは後日のことです。何はともあれまず仕事。貼り紙を作って貼り出し、一応後輩たちの部屋を回って一声かけておきました。

 ――――

 そういうことをしているうちに腹が減ってきたのに気付き、近くの馴染みの汚い麺屋に出かけようと校門を出たとき、ふと時計を見たら9時ちょっと前でした。あっこりゃいかんテレビのニュースをチェックしないと、と思ったとき、雲南出身のY君という私と仲のいい学生がのんびり歩いてくるのに出くわしました。

「おい大変だぞ。北京で軍隊が発砲したのを知っているか」

 と聞くと何も知らないのです。事態がよくわからずただ驚いてしまっている彼の腕をとって、

「もうすぐ9時だからテレビでニュースをやるだろう。一緒にテレビを観よう」

 と留学生宿舎に戻り、応接室に入ってテレビをつけました。

 ――――

 ほどなく9時です。背景が青一色でセットも何もない北朝鮮のテレビニュースを思い出して頂きたいのですが、最初にその青い背景に何の変哲もない大きな文字で、

「重要新聞」
(重要ニュース)

 という4文字が画面いっぱいに映し出されました。続いてやはり文字だけで、

「新華社消息/戒厳部隊遭到歹徒野蛮襲撃/被迫採取果断措施」
(新華社電/戒厳部隊は暴徒の野蛮な襲撃に遭遇し/やむを得ず果断な措置をとった)

「新華社消息/戒厳部隊平息反革命暴乱/進駐天安門廣場」
(新華社電/戒厳部隊は反革命暴乱を鎮圧し/天安門広場に進駐した)

 という画面が出て、その後北朝鮮のニュース同様女性アナウンサーが登場して、

「党中央の決定を断固擁護せよ」
「反革命暴乱を断固鎮圧せよ」

 といった『解放軍報』社説を読み上げました(戒厳令下ですから党中央機関紙の『人民日報』ではなく、人民解放軍機関紙の『解放軍報』なのでしょう)。現場の映像は一切ない、ただそれだけのニュースです。ただそれだけであることが、事態が緊迫していることを強調する効果をもたらしているかのようでした。

 ――――

 Y君はぼんやりして私の顔を見ています。私もこの異様な画面に呑まれていました。ただいつまでもそうしていられません。Y君には同じ学科のC君にこのことを急いで伝えてくれと頼みました。C君は私の学校の学生運動リーダーのひとりである上に、私にとって最も仲のいい学生のひとりなのです。そして急き立てるようにして2人で留学生宿舎を出て、校門の前でY君と別れました。

 私はともあれ食事です。自転車置き場を改造したような露天で汚い馴染みの麺屋へ行って自前の箸(箸持参はB型肝炎が流行していた当時の常識)でうどんのような麺をすすりました。すすりつつ、

●午後には上海大厦(ガーデンブリッジ=「外白渡橋」のそばにある高級ホテル)に香港の新聞(親中紙の『香港文匯報』と『大公報』)が入るからそれを買いに行く。

●買ったら大学に戻って戒厳令布告のときのようにC君にそれを貸す。

●C君はそれを江沢民(当時上海のトップ=市党委員会書記)に潰された『世界経済導報』編集部に持ち込んでガンガンコピーする。

●今夜か翌朝にはそれが南京路など市中心部の目抜き通りに貼りまくられることになる。

 ……などと行動計画を練っていました(すでに恩師のいいつけを破っているも同然w)。

 不気味な仮定ながら、上海にも戒厳令が敷かれるのだろうか、とも考えたりしました。当時、党中央は実際にそのつもりだったようで、事実軍隊が上海市をグルリと包囲するような形で待機していたそうです。最も郊外に位置する大学には戦車を目撃した学生もいた、という話も後日聞きました。

 それから数年後、香港でプロのチャイナウォッチャーに教えてもらったのですが、政治生命を賭けて上海での戒厳令実施に反対し続け、ついにそれを防ぎ切ったのは当時市長だった朱鎔基だそうです。ある意味、私の恩人といえるかも知れません。

 ――――

 現状に背を向けて、とりとめもないことを長々と書いてしまい申し訳ありません。情緒不安定になるこの時期だから、ということで諒として頂ければ幸いです。(完)


 ――――


 【※1】昨年のエントリーを再掲載しました。横着ではなく、天安門事件その日について書くことは9割方ここで書いてしまっていますので。あとの1割は特に大した内容でもありません。いずれ雑談として書くことがあるかも知れませんけど。

 【※2】せっかくですからイメージ画像を並べてみました。巧拙を問わないのと転載厳禁はお約束ということで。



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 いま『産經新聞』にて「トウ小平秘録」という大型連載が掲載されています。私はその熱心な読者です(ただしネットでの立ち読みですけど)。

 現在紙面を飾っているのは「第一部 天安門事件」。言わずと知れた1989年の民主化運動に対する流血の武力弾圧です。トウ小平を語るにあたって、その最初に天安門事件を据えたのはさすがという他ありません。

 素人が云々することを許してもらうとすれば、天安門事件はトウ小平が「バランサー」から「カリスマ」へと昇格する契機でもあり、トウ小平が推進してきた中国の改革・開放政策から政治制度改革が欠落する転換点でもありました。ですからこの事件を頭に持ってくることは構成上素晴らしい着眼だと思いますし、いわゆる「つかみ」としてもインパクトがあって最適です。

 ただ実際の第一部は天安門事件からいきなり入らず、その前段である1980年代の「改革派vs保守派」から説き起こしています。新聞という大衆媒体であることからいえば、第一部の冒頭には香港紙のいう「血肉横飛」「眞人肉餅」のようなある種の毒々しさがない分、読み物としての「つかみ」はやや弱いきらいがあります。

 とはいえ社告という形でわざわざ予告してスタートした真面目な大型連載ですし、恐らく完結後は書籍として出版されるのでしょうから、天安門事件を1980年代の権力闘争から語り始めるのは正統的でいいと私は思います。

 残念ながら私はいわゆる「六四世代」で民主化運動や天安門事件の主役を担った大学生たちと同世代ですし、学生時代は香港の政論誌を読みふけっていました。

 要するに「1980年代の権力闘争」をリアルタイムで眺めていたのと、「トウ小平秘録」が引用している香港や台湾で出された書籍類はほぼ読破しているので、目下のところ、特に目新しく感じる部分はほとんどありません。ですから個人的には私がチナヲチ(素人の中国観察)から離れていた江沢民時代中期から後期におけるトウ小平の最晩年に関する内容に期待しています。

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 「トウ小平秘録」によって現在語られている1980年代後半の権力闘争について、私にとっては「懐かしい」の一言ですけど、若い世代の方には是非精読してほしいと思います。前にも書いたように、

「中共人がその私兵(人民解放軍)を以て中国人を弾圧した事件」

 と私は天安門事件を捉えています。……などといっても、あの衝撃的な事件から20年近く経過した現在、30歳以下の人にとっては「体感」していない出来事でしょう(私の世代でいえば日本赤軍が引き起こした数々の事件、てなところでしょうか)。

 歪んだ形ながらも経済成長を実現し始めたあたりから中国を認識している世代にとって、天安門事件やその前段ともいえる1980年代後半の権力闘争をおさらいすることは、中共政権の本質を知る上で非常に有意義だと思うのです。

 連載の冒頭には
「四個堅持」(四つの基本原則=社会主義の道、プロレタリア階級独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)が登場しました。新聞などでは久しく目にすることのなかった単語ですが、私などはこれが身に染みていて、中共政権の背骨のように思えますし、トウ小平の愛弟子ともいうべき、やはり徹頭徹尾「中共人」である胡錦涛を考える上でも重要なキーワードだとみています。

 いうなれば、トウ小平を通じて中共政権なるものを再認識する絶好の機会、といったところです。

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 個人的には、「トウ小平秘録」を読んでいて文中に登場する保守派バリバリの暴れん坊将軍・王震の名前が懐かしかったです。20年ちょっと前、来日した王震の耳に私が連呼するシュプレヒコールが届いたのかどうか。……尋ねてみたくてもすでに物故者ですから聞く術がありません。

 という訳で標題の件ですが……と思ったら前に書いたことがあるような気もして調べてみたらやはり既出でした。orz

 ●中国語発音矯正ギプス?(2006/06/24)

 私が大学2年のときのことです。違う学部ながら親しい先輩がいて、その人やその仲間が中国の民主化運動を支援していて、保守派の王震が来日すると聞いて中国大使館前に街宣車を並べてエンドレステープに録音されたシュプレヒコールを延々と流し続けることになりました。ところが民主化運動の活動家自身の声だと大使館筋にバレてしまう恐れがあるため、たまたま私に白羽の矢が立ってしまった。……というものです。

 天安門事件以前のことですから反体制組織も少なかった時代です。録音作業で顔を合わせたのが最初で最後でしたが、あの活動家はたぶん『中国之春』系統(中国民聯)のメンバーだったのだろうと思います。その後のことを知りたくても、中国、香港、台湾と流転するうちに先輩との連絡も途絶えてしまいました。

 当ブログにしばしば登場する大学時代の恩師には当時すでに目をかけてもらっていたのですが、さすがにシュプレヒコールのことは内緒にしておきました。ただ、

「先生、王震が来日していますね」

 と話題を振ってみたら、

「ああ王震。きのう彼と一緒に食事してきましたよ」

 とサラリと言ってのけたので私はぶったまげました。恩師は血筋ゆえに文化大革命などでは相当いじめられたそうですが、その半面、血筋ゆえに中共の要路にも顔が利いたりするようです。

 ――――

 ところが。確かそれから半年近く後のことだったかと思います。大学2年だった私の学年末テストも近い1987年1月に胡燿邦・総書記(当時)が保守派の猛反撃を受けて失脚したときは、恩師は平穏ではありませんでした。

 放課後に中国語だったか中国問題だったか、とにかくそういうイベントに連れていってもらい、その帰りに駅までの夜道で恩師が胡燿邦失脚を話題にしました。

「御家人君、どう思います?中国はどうなるんでしょうか?また文革みたいな政治運動が始まるんでしょうか?」

 と尋ねられたので面食らいました。そんなこと私にわかる訳ありません。……いや、たぶん恩師も私の回答に期待するというより、私に尋ねることで不安を紛らわせたかったのだと思います。

 あのときの恩師の名状し難い表情、真剣で心配げで不安そうで何かを恐れているかのような……あの表情だけは、いまでもはっきりと覚えています。私は恩師のその表情に接して、中国の政治運動が容易ならぬものであることを悟ったような気持ちになりました。

 この胡燿邦失脚の後始末は「トウ小平秘録」がふれているように国民を巻き込んだ政治運動にはなりませんでした。ただその2年半後、私が上海に留学していたときに大学生・知識人による民主化運動が起こり、天安門事件という形で終息しました。

 ――――

 その直後のことです。上海の大手紙『解放日報』(上海市党委員会機関紙)の1面トップに「反革命暴乱」(天安門事件)で鎮圧された「反革命分子」を批判し、その同類を根絶やしにすべしという論評記事が掲載され、その大見出しの中に「階級闘争」という言葉が躍っているのをみて私は戦慄しました。

「御家人さん、ほら見てよ。階級闘争だよ。懐かしいなあ」

 と、横から顔をのぞかせた同じ日本人留学生で50年配のオジサンが、そのタイトルにホクホクしていました。若かりし頃に共産主義者だったとのことで、言葉通り単純に懐かしがっているようでしたけど、私がとっさに思い出したのは恩師のあの表情です。

 それから、留学直前に観た『芙蓉鎮』という文革を描いた名作映画のラストシーン。政治運動に身を入れすぎてその後の政策の大転換についていけず狂ってしまった文革時代の村の党幹部が、

「運動了!運動了!」
(さあ政治運動だ、政治運動だぞ)

 とドラのようなものを叩きながら叫んで回るシーン。その声に主人公たちが不安げな暗い表情をチラリとみせるのですが、それが現実のものになったような気がしました。

 以前は階級闘争のやり玉に上げられた私営企業主でも中国共産党員になれる現在からは、想像できないかも知れません。

 でも、天安門事件に立ち会ったり、「階級闘争」を見出しに掲げた文革調のトーンの高い論評記事を目にしたり、民主化運動で連日デモをかけていた際に先頭に立って積極的に活動していた先生(私たち留学生を担当)が、天安門事件後は人変わりしたかのような真っ青な顔をして、心をどこかに置き忘れたかのようなうつろな表情で授業を進めているのを私は実見してしまいました。

 うっかり実見してしまうと、中共政権というものについて、こちらも深刻に考え込んでしまわざるを得ないのです。少なくとも私はそういう性分のようです。

 ――――

 何だか標題とも関係がなく、とりとめのない昔話に終始してしまい申し訳ありません。当時の私の経験を追体験することはできないでしょうけど、「トウ小平秘録」を読むことで、中共政権の何事かを感じることができるのではないかと思います。

 中国は上海の摩天楼に代表されるような表面上の繁栄を実現したとはいえ、その土台にある中国共産党は当時の本質そのままに一党独裁制度を揺るがせにせず、批判勢力の存在を許さず、対話を認めず、いざとなれば万難を排してでも自らの価値観を押し通す。……その行動原理だけは覚えておいて損はないかと思います。隣国のことでもありますし。

 ※今回は別に「トウ小平秘録」の広告記事ではありません。念のため。でももし『産經新聞』さんがお小遣いをくれるというのなら、私は拒みません。香港上海銀行の口座にチェックで振り込んでおいて下さい(笑)。




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 仕事が突如忙しくなりまして、今日は予定していたテーマに取り組む余裕がちょっとありません。気が付けば1月も下旬。……ということは旧正月(今年の旧暦の元日は2月18日)を控えた昨年末の「日本側年末進行」に続く「香港・台湾側年末進行」が近づきつつあるということなのです。戦々兢々。

 旧正月向け制作物も追い込みにかかりますし、コラムを連載している香港の週刊誌も3週間で5号分を仕上げてしまうという無理だろそりゃ態勢。昨夜(1月23日)そのスケジュール表が送られて来て愕然としているところです(笑)。

 雑誌は競争が激しいので日本のように合併号なんてヤワなことはせず、年間52回ちゃんと発行します。そういう無理に加えて、印刷をやっている中国の工場も工員は出稼ぎ農民が多いため、旧正月の帰休休暇はかなり長くなるのです。

 年末の早い時期から旧正月明け後もしばらく休む長期休暇となるので、編集部は年末号、正月号、正月明け直後の3号を印刷工場が休みに入る前に仕上げなければなりません。

 そうした理由からちょっとあたふたしてしまっているところでして、それならブログを休めばいいのですが、今月はどうしたことか、1月3日以来連日更新しているので、何だか休むのも癪。そこで古臭くて怪しげな写真を掲げてお茶を濁すことにしました。



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 古臭いのは当然でして、撮影したのが1989年4月18日火曜日。1989年といえば天安門事件。その発端は急死した胡耀邦・前総書記(当時)の追悼活動で、それが大学生・知識人による民主化運動に発展することになります。

 怪しげなのも理由がありまして、これは上海における最高学府・復旦大学の某教室で開かれていた学生主催による胡耀邦再評価講座が3日目になったところで変質し、上海初の組織的学生デモの実施を決議した歴史的な「決起集会」の現場を撮影したものです(写真上)。

 黒板にはシュプレヒコールなどが躍るような筆跡で並んでいました(写真中)。このあと檄文がいくつかの大学に飛んで、翌日に組織的デモが実施されることになります。

 なぜそんな場所に私がいたのか(笑)については、こちらを。

 ●昔話その1(2004/10/29)
 ●昔話その2(2004/10/29)

 ――――

 集会は進行役が声を枯らした演説で煽りに煽っていてすごい熱気でした。参加者は、

「そうだ!そうだ!」

 と大声で演説に和したり、拍手を送ったり。最後に日時の相談に入って、

「金曜日は?」

「遅い!」

「木曜日では?」

「間に合わない!」

「よしそれでは明日だ!」

 ここで万雷の拍手とともに、おおおおっという地鳴りのような声があがりました。

「それでは明日は授業ボイコットだ!学生証を必ず携帯するように!できれば白い花も!1時30分校門に集合、2時出発だ!」

 ここでまた、うおおおおおっという物凄い咆哮。写真を撮っていたら後ろの学生にとがめられて、

「お前は何者だ?」

「ここの日本人留学生だ」(嘘)

「そうか。いま中国の政治状況は厳しい。ここでは写真を撮らないのが友好的態度というものだ」

「わかった。申し訳ない」

 などとやり取りしたりもしました。もちろん撮影は続けましたけど(笑)。だってこんなオイシイ場面、逃していい訳がないでしょう。当時の私にとっては待ちに待った機会なんですから(笑)。

 その翌日のデモにも付き合いましたが、出発前に行われたアジ演説を壇上に登って演説者の後ろから1枚(写真下)。私は仮に取材者であるならば常に現場運に恵まれている方ですが、燃えるシチュエーションに出くわすとつい我を忘れて最前線に飛び出して、気が付くとこんな写真を撮ったりしてしまいます(反省)。……留学先が北京でなかったのは僥倖でした。

 こうした昔話写真はいつかまとめてupする機会があるかも知れませんが、いまは時間的・心理的余裕がないので3枚だけにしておきます。

 ちなみに歴史的な「決起集会」で進行役を務めた学生は上海の学生運動を終始リードする存在となりましたが、天安門事件後に逮捕されました。




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「上」の続き)


 さてその弁論大会。要するに感情を込めて上手に読みゃあいいんだろ、ということで練習して本番に臨みました。

 参加者の顔ぶれには将来が楽しみと言われていた下級生や留学帰りの腕利きの先輩などもいたのですが、私も自分の水準を把握していましたから、ああこのメンツなら勝てる、楽勝だと思い、肝っ玉の小さい私には珍しく、緊張する以前にその場を呑んでかかっていました。

 で、私の順番が回ってきて最初の数段落を読み終えたら会場の雰囲気が変わるのがわかりました。それみろ楽勝だと読み進んで予定通り優勝です。

 例によって掲示板に名前が貼り出されたりしましたが、恥ずかしいばかりで別に嬉しくもありません。ただ、恩師がとても喜んでくれたので唯一の目的が果たせたと、ああよかったと心から思いました。

 優勝して賞状以外に中国の工芸品などいくつか副賞をもらったのですが、別に有り難いものでもありませんし、ただでさえ狭い下宿には迷惑です。扇子とか花瓶とか茶器セットとか色々あったのですが、みんな人にやってしまいました。

 そのころ上海の大学から半年交代で2人ずつ教官が派遣されてきて、普段の授業以外に、土曜日の午後に有料で中国語講座が開かれていました。日本語ができない先生ばかりなので、私はその都度講座に参加していました。

 ちょうど弁論大会で優勝したころの講座の担当は30代の女性教官です。でも恩師から「御家人君、あの人は党員(中国共産党員)ですよ」と聞かされていました。その前任者で来日した教官が帰国を前に亡命というか失踪していたため、その調査も兼ねての来日だというのです。

 ――――

 されば天魔覆滅たるべし、とその講座では私は別種の不遜さを発揮していました。「造句」(例文作成)などで、

「赤い帽子と黒い帽子、あなたならどちらを買いますか?」

 といったような、他の学生には全くわからなくても教官の顔色がサッと変わるような例文ばかり作っていたのです(笑)。何て嫌な学生だろう、と相手は思ったことでしょう。

 そして弁論大会優勝後の最初の講座で、優勝したときにどういう挨拶をするか、という問いが私に出されました。

「優勝は全く予定通りでした。テキストは簡単でしたし、参加した人の実力をみれば僕が優勝できない方がおかしいと思いました」

 とつい正直なことを答えてしまったところ、絶好の反撃機と思ったかどうかは知りませんが、その党員先生、「それは全く間違っている」と言って、

「先生の御指導と学友の激励のお蔭で優勝することができました。先生や学友に心から感謝します」

 と正解を示しました。いや実際そう言うべきなのでしょうが、お前にためになることなんか何も教わっていないのに何で感謝しなきゃいけないんだこの糞党員が。……と思ったりしました。

 この「党員先生」はもう1人とともに何事もなく帰国しましたが、その後任者2名のうち1人はまたしても失踪し、もう1人は息子夫婦の日本留学の下準備をちゃっかり行って帰国しました。そのとき失踪した教官を下宿に匿ったり来日した息子夫婦の世話を焼いたりしたのが私です。

 その後私はその教官たちの大学に留学。ちょうど1989年の民主化運動から天安門事件の時期及びその後半年と重なったので相当無茶なことをやりまくったのですが、私の日本での働きと恩師の人脈によって訪中前に強固な「後台」(後ろ盾)を確保していたので、全てお咎めなしで済みました。

 ――――

 ところで、私は入学当初の愚劣な「合宿」参加を蹴ったことに始まって、自分の学科に自然と距離を置くようにしていました。大学は必須科目以外は自分で授業を選択できますから、これも自分の定めた「カタチ」に沿ってむしろ経済学部の授業に出るようにしていました。

 もちろん私の学科からの受講者は私だけですが、これは裾野を広げる上で随分とためになりました。いま思い出しても、大学で一番有益だった授業は名物教官による経営学に関する講議でした。

 大学でも空き時間のための居場所がほしかったのでサークルに入っていました。入学当初に勧誘されてそのまま入ったのですが、偶然ながらこれまた経済学部の麾下にある一種のサークル連合に属したひとつで、時事問題を研究することを旨としていたサークルです。

 時事問題といっても時局を論ずるといったような政治色がある訳ではなく、公務員試験に合格するための一般常識を学ぼうというような大人しい和やかな集まりで、先輩や同輩、それに後輩にも私のように癖のある不遜な人間はおらず、穏やかな人ばかりでした。

 経済学部下にあるこの一連のサークル組織には、簿記とかマーケティングとか米国経済とか税務とか色々な研究会がありましたが、ここでも私の学科からは私が唯一の参加者でした。

 自分の学科の連中とは肌合いの異なるこうしたサークルの面々と酒を飲んで騒いだり空き時間に余太話をしたりしたのは、恩師の知遇を得たことと並んで大学時代の良き思い出のひとつです。

 ――――

 このサークル連合には名前は忘れましたが右翼系の研究会がひとつと、マルクス何とか研究会、通称マル研という両対極の研究会が存在していました。マル研には一学年上で中国語を学んでいる経済学部の先輩がいて、いまでも親しくさせて頂いています(別に左翼の人ではありません)。

 一方でなぜか右翼系の研究会の先輩にも私は可愛がられて、いろいろなことを教えてもらいました。

 この先輩は宮崎滔天ら孫文の革命活動を支援したグループの系譜につらなる正統派ともいうべき流れのなかの一派の人で、当然ながらその伝統を継承して中国の民主化運動を支援していました。街宣右翼などとは全く違います。

 私は無知で何も知りませんでしたが、その世界では有名なところに色々と案内してくれました。

「彼は御家人と言って勤王の志はありませんが……」

 などと私を紹介するのが面白かったです。考え方に違いはあってもそれを包容してしまう広さを持った人でした。

 ――――

 私は部室が隣同士ということもあって上記マル研の人たちともよく付き合っていたのですが、上述したいまでも連絡のある先輩を別とすれば「なんだかなー」という感じの人の集まりでした。

 給湯所の洗い場に置かれているママレモンに「人民洗剤」と書くようなシャレっ気もあったのですが、一緒に飲みに行くと、いまの若い人は問題意識が低くて云々……などとよく愚痴っていました。

 そこに同会OBが出てくると全学連崩れみたいな人たちで、いよいよコチコチで治癒不可能、といった手合いでした。

 私が「なんだかなー」と思ったのは、自分たちの言っていることは正しいのだが一般市民に受け入れられない、それは一般市民の問題意識が低いからだ、というような論法で、「一般市民」を「学生」に置き換えてもいいのですが、これには常に反発を感じたものです。

 あんたら一般市民の目線で物事みてる?言っていることがいくら正しくてもみんなに話が通じなきゃ意味ないよ、という感想がいつも私にはありました。

 いや、私は学問もないし難しいことのわからぬ俗物でしたから、単純に考えてみただけです。ナンパひとつするにしてもまずは第一印象で、ルックスがよくて話が面白くなきゃダメなのと同じではないかと。あんたらじゃ女のコひとり口説けないよ、という表現しかできなかったのですが、もちろん正義に燃える面々には話が通じません。

 特にOBがどうしようもなかったので、それじゃ馬鹿どものためにひとつ弁論大会でもやってやるか、という気になりました。

 ――――

 どの大学でもそうですが、研究会というのは学園祭で必ず研究発表を行います。それぞれが教室ひとつを借りて展示を行ったり、別の場所で共同で口頭による研究発表をやったりするのです。口頭発表には顧問の先生方も来ますしOBも顔を見せます。

 で、私は展示発表の一方で、別のテーマでこの口頭発表に参加しました。持ち時間が30分くらいあったかと思いますが、私はそれに合わせて現代日本事情といった内容の文章を中国語で1本書き上げ、当日は自分の番になると地元の銘酒である多満自慢(たまじまん)の一升瓶を引っさげて演台に立ちました。

 動揺する客席を見渡すなり、まず栓を抜いてぐいぐいっとやってから口頭発表にかかりました。書き上げた中国語の文章を、そのまま中国語で読み上げていくのです。合間合間に一升瓶をラッパ飲みしながら、また中国語で読み続けます。

 時間が経つにつれ、飲むにつれ、私は少しずつ酔態を示すようになり、発音もやや呂律が回らなくなっていきます。客席は呆気にとられるばかり。……で、私は持ち時間を使い切って文章を読み終え、一升瓶をカラにした上で聴衆に向き直り、

「御覧の通りです。私は中国語で私なりの意見を述べましたが、みなさん中国語がお出来にならないので内容は一切わからなかったでしょう。いや、ちょっとマル研さんの真似をしてみただけです。学生の意識の低さを嘆く前に、まず自分たちの言葉が相手に通じているどうかを考えるべきだと思います。……では」

 と面当てのパフォーマンスだったことを捨て台詞に演台からおりるとその筋からすぐ反論が上がったようですが、一升瓶をカラにした私は酔態を呈しているので、それに構うことなく覚束ない足取りでさっさと引き上げました。

 ――――

「バカ!何やってんのよー」

 と、廊下に出てから当時の彼女が駆け寄ってきて私は叱られてしまいました。

「先輩大丈夫ですか」

 と研究会の後輩たちも集まってきて心配してくれたのは、私の演技力というものでしょう(笑)。一升瓶の中身は水に入れ替えて、ただ酔っ払った振りをしていただけです。

 ちなみに私が書いたこの文章がそれなりのものだったのかどうかは知りませんが、上海から派遣された先生(もちろん党員先生ではありません)がなぜか一読するなり絶賛して、さらに「これは新聞に出そう」とまで言い出して結局上海紙の紙面の一角を飾ることになりました。

 そのときはいい思い出ができたとしか思いませんでしたが、後年香港、台湾と流浪する先々で中国語のコラムを持たされた(というかいまも副業として続いていますけど)ので、中港台制覇、と密かな自己満足の種となりました。

 ……いや私にとっては本当に貴重です。だっていまさら中共メディア好みの文章なんてどう努力したって書けそうにありませんから(笑)。

 ――――

 私はいまでも高校生のときに定めた「カタチ」に向かって歩いています。随分歳を重ねて残り時間が少なくなってしまいましたし、手に職のつもりで学んだ中国語に引きずられる人生になってしまいましたが、気付いてみると20年以上前に想定した「カタチ」に不満足ながらも近付きつつあるように思います。

 不満足なのはもちろん私の精進と器量が不足していることによるものですから恥じ入るしかありません。ともあれ強く願ってそれなりに自分を躾けていけば何となくその方向に行けるようで、これは自分でも不思議に思っています。



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 世間的に日曜日のようですから、恥を忍んで気楽に昔話でもしますか。標題の件、私は2回ほど経験があります。そのうち1回は自分で主催したものですけど(笑)。

 ――――

 いまはどうだか知りませんが、私が学生のころ、中国語や中国文学を専攻する学科というのは東京にもそんなにありませんでした。

 私はその数少ない中のとある三流大学に入り、形の上では中国語を専攻したことになります。ただこれは私の本意ではありませんでした。

 当時の私はもう若年活気の塊のようなもので、高校生のころ「自分の将来あるべきカタチ」というのをかっちりと定めていて、そのために自分を躾けていこうと常に考えていました。

 「自分探し」という言葉はそのころからありましたけど、私はそういう連中を内心ケッバーカと思い、この歳にもなって目標もないのは低能の証だと軽蔑していました。そこは若年活気ですから、そういう馬鹿が増殖してくれた方がこっちはありがたいぐらいに思っていました。

 で、大学では自分のカタチをつくるための勉強をしようと当初は思っていたのですが、ふと考えるとそういう勉強をする学科に入ってしまうと就職活動に有利ではない。それならツブシのきくことを大学でやって、社会人になってからやりたいことをおいおいやっていこうと考えました。

 私は文系でしたから、ツブシの聞くものといえば第一に外国語です。でも英語は授業がつまらなくていつも辞書を枕に寝ていました。あの英和辞書というのはなかなか分厚いものですが、1頁1頁をクシャクシャと丸めてから引き伸ばす、という作業を全頁仕上げると、ふわふわして実に快適な枕になるのです(笑)。

 ――――

 まあそんな調子ですから当然ながら成績も悪かったので横文字は勘弁、と思い、種々の理由から中国語ならよかろうと思い、ラジオ中国語講座や入門書で初歩の文法や構文を独習し、特に発音は執拗なばかりに耳コピ。あとは形ばかりの受験勉強をして幸い合格しました。

 当時は中国語への需要も少なかったので1学年60名ほどです。そのうち何割かは古典専攻なので、実際に中国語や中国文学のコースに進むのは40名くらいだったかと思います。

 ところが入学早々馬鹿らしいことがありました。私の入った学科には4月か5月だったかに「合宿」という催しがあり、新入生全員強制参加で千葉県の民宿のようなところに泊まり込み、缶詰状態で上級生の先輩から中国語の基礎を教えられる、とのこと。一方で新入生歓迎コンパのような色彩もあったのでしょう。

 おいおい冗談じゃないよ、と私は思いました。入学してから観察してみると上級生には優秀な人もごく少数いましたが、大半は中国語の発音が汚い上に会話も下手糞でテキストもロクに読めないので驚いていたばかりです。

 何なんだこいつらは、と驚愕したことを覚えています。そして、これはよほど心してかからないと4年で中国語を一応のレベルまでには持っていけないぞ、と気合を入れていた矢先です。

 ――――

 学科にとって代々の伝統であるらしい「合宿」なんざ、私には笑止千万でした。下手糞に教わったら下手糞がひとり増えるだけじゃないか、と考え、そんな馬鹿なイベントに参加できるかと思って、上級生で組織された合宿実行委員会のようなところへ乗り込んでいって、

「おれは行きませんから。以上」

 のような形で素っ気無く宣言しました。

 相手は強制参加であることをタテに随分説得してきたのですが、私は馬鹿に教わるのは御免だ、という本音を言う訳にもいかないので他のことは言わず、

「親戚の法事ですから無理です」

 で押し通しました。相手は小憎らしい新入生だと思ったことでしょう。でも、私の態度があまりに強硬(というか半ば喧嘩腰)だったので、馬鹿どもも説得をあきらめたようです。

 そんな訳で合宿には出なくてよくなったのですが、その代わり「合宿で中国語のイロハを学ぶのだから」(笑)という理由から、私は放課後に教官から補習を受けることになりました。

 この方は教官1年目という新任助教授だったのですが、何年か後に母校である東京大学に戻られて、魯迅や現代中国文学の研究ではいまや第一人者で小説の翻訳をしたりテレビに出たり関連誌にコラムを連載したりしています。この先生からマンツーマンで補習を受けたというのは私の密かに誇りとするところで、いい思い出です。

 ただ補習自体は入学前に独修した部分と重なっていたので発音も文法も退屈で仕方がありませんでした。先生は学生相手でも物腰も言葉遣いも柔らかで丁寧な方で、

「あなたは筋がいいですね」

「はあ、そうでしょうか」

 なんてやり取りをしながら何日間かの補習を終えました。

 ――――

 「合宿」も終わり、授業が本格的にスタートしてから、語学とは何と残酷な学問だろうと思いました。学問というより技術というべきかも知れませんが、会話をしたりテキストを読んだりするだけで、上手下手がはっきりとわかってしまうのです。

 単細胞な私はこのことに狂喜しまして、これは緒方洪庵の適塾みたいなものだと考え、そうなると一心不乱に勉強しました。いや、勉めて行ったのではなく、楽しくて仕方がありませんでした。

 そのうち教科書ばかりやっていてはダメだと思い、図書館で香港や台湾の雑誌を読んだりして、わからないところは研究棟に行って居合わせた教官にどんどん質問しました。

 同級生からはずいぶん大胆で厚かましいことをやっているという目で見られていたようですが、別にゴマすりに行っている訳ではありません。大学は高校と違って自分の意志でカリキュラムを組んで自分を躾けていかなければいけないと私は考えていました。

 また、こっちは学費を払っているお客さんで、お前ら(教官)を養ってやっているんだから、授業時間外であろうと学生の質問に答えて当然だろうと(笑)。不遜な学生でしたが、不遜でないと学費の元はとれません。

 中国語を勉強する上でも私は「カタチ」を想定していました。私は社会とか政治経済に元々興味があったので、時事評論とか分析記事などを読んだり書いたりできるようにしよう、と定め、4年でオールマイティーになるのは無理だと思ったので、その一事につながることのみに特化することにしました。

 文学や古典には全く興味がなかったので、そういう授業は適当で済ませました(いまはもう少し勉強しておけばよかったと後悔しています)。

 そういう授業のレポートは書く気にもならないので同級生に酒を飲ませたり、私が守備範囲とする授業の課題を代わりにやってやるといったバーターで代行してもらったりしていました。これは余りお勧めできませんが、4年間という限られた時間ゆえに私は一点豪華主義を選択したのです。

 不遜な学生であることが幸いしたのか、そのうちに恩師の知遇を得ることができました。

 中国語以外にも中共政権下の社会や文化大革命など政治運動の経験など色々なことを教えて頂き、そのころになると授業より授業外で恩師から教えられたり、図書館の雑誌で得られることの方がためになっていました。

 聞き手の姿勢にもよるのでしょうけど、それが他愛のない雑談であろうと、私にとって恩師の言葉ひとつひとつが宝物のように身に沁み入ってくる貴重なものでした。

 ――――

 一応意識を持って積極的に勉強していたこともあり、同級生の中で私はごく自然に中国語の上手な部類に入れられていました。そうなると「弁論大会に出ないか」という声がかかるようになりました。

 当時は1年に何回か、それぞれ主催者の異なる弁論大会が開かれていました。自分で作文して(往々して教官の手が入っています)それを暗記し、学校代表として学生が参加して、口頭による発表会で技を競うのです。入賞したり優勝すると教務課の掲示板などに大々的に貼り出され、大学の株をあげることになります。

 ところが私は自分の中国語の「カタチ」を形成するにあたって、この弁論大会ほど愚劣で無用なものはないと考えていました。

「本当の国際人とは何か」
「真の日中友好は草の根から」

 なんていうおためごかしで下らない原稿をこしらえて一生懸命に暗記して……なんていうのは、私にとってはこれほど時間の無駄なものはありません。

 恩師から勧められたことはありませんが、他の教官や、技量優秀で卒業後は大学に残ることを約束されているような先輩が話を持ってくるのです。でも上の理由によって何回誘われても私は断固として拒否していました。

 しつこい手合いには、

「おれにはそんな実力はありません」

 と強く言ったら敵もさるもの、

「それは一種の傲慢じゃないか?それなら将来弁論大会に出るときは自分の実力に満足し自信がある、ということになる」

 と切り返してきます。これは一応の理屈であり私は閉口しましたが、

「上手な人なら他にもいるでしょう。……お・れ・は・い・や・で・す」

 と最後はそれで断っていました。

 ――――

 ところが3年生のとき、学内で初の弁論大会が開催されることになりました。

 実際には朗読大会というべきでしょう。課題の文章をいかに上手く朗読するかというもので、自分で作文する必要も暗記する必要もありません。

 それでも私に参加する意志はなかったのですが、口説き上手の先輩が恩師の名前を出して、

「お前が賞をとれば先生の株も上がるんだ」

 と殺し文句。それなら恩師のために出よう、出る以上は必ず優勝しようと私は誓いました。


「下」に続く)



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 何年経っても、この時期になるとさざなみ立つような感情から逃れることができません。

 6月4日は天安門事件(六四)17周年です。

 いまこれを書いている6月3日夜、1989年はこの時点ですでに人民解放軍の市民・学生に対する無差別な実弾射撃が始まっていたかと思います。正規軍が、完全武装の歩兵が自動小銃を空に向けてではなく、自国民めがけて直接実弾を発射したのです。

 装甲車(歩兵戦闘車?)や戦車までが投入され、「先鋒として敵陣突入」という役目通りのことを行いました。あのキャタピラに轢かれて両足を失った学生もいれば、人間としての形を留めずに文字通りミンチにされてしまった人もいます。もちろん身元などわかろう筈がありません。

 歩兵による射撃にはダムダム弾が使用されたとも言われています。誰が書いたものか、色々読んだので忘れてしまいましたが、当時現場にいた大学生の手記の中に、

「畜生、奴ら『開花弾』を使いやがった」

 と罵るくだりが出てくるものがありました。また2003年、中共による北京での中国肺炎(SARS)流行隠匿を告発して有名になった蒋永彦医師、この人が天安門事件当時北京の病院に勤務しており、当直医として被害者治療にあたっています。その手記の中にも、本来なら人体を貫通ないしは盲貫(体内に留まる)するだけの筈の小銃弾が、着弾とともに体内で炸裂していたため手の施しようがなかった、という記述があります。

 ――――

 上で「自国民」とつい書いてしまいましたが、これは私たちの感覚にすぎませんね。なぜなら厳密にいうと「人民解放軍」は中国共産党の軍隊であり、中華人民共和国軍ではありません。その立場からいえば、北京に屯集した市民や学生は国民であろうとなかろうと関係ありません。「党の敵」という認定(定性)がなされれば、容赦なく殲滅して構わない存在なのです。

 実際に民主化運動に対しては4月末にまず「動乱」認定があり、武力弾圧に際してはさらにランクアップして「反革命暴乱」と規定されました。インフラを傷つけることを恐れたのか、手榴弾が使われなかったのは幸いでした。

 何せ海外プレスが常駐する首都で起きた出来事です。そうでなくても民主化運動の盛り上がりで平時以上に報道陣が集まっていました。ですからこの事件、私たちの常識では考えられないショッキングな映像は全世界に流され、いまもネット上で入手することが可能です。

 私も日本のテレビでそれを何度となく見ることができました。ただ、事件当時私は上海に留学生として滞在していたため、そうした映像はリアルタイムではなく、半月後に外務省の「退避勧告」と母校の「帰国命令」によって日本に戻ってから目にしたものです。

 ――――

 北京の詳細な動きはわかりませんが、上海ではソ連のゴルバチョフ書記長(当時)来訪に合わせた5月18日と19日が市民も大挙参加して運動が最高に盛り上がった時期でした。その19日の深夜に北京市に戒厳令を敷くことが発表されるのですが、当夜、ふだんなら午前0時の「晩安」(おやすみなさい)を最後に放送を終了する上海人民廣播電台(地元の中波ラジオ局)が、23時半すぎから、

「上海人民廣播電台。各位聴衆,本台今天夜裏將有重要新聞要廣播,請注意収聴。中央電視台將播出重要新聞,請注意収看」
(こちらは上海人民ラジオ局です。放送をお聞きの皆さん、今夜半に重要ニュースを放送致しますのでこのままお待ち下さい。また、中央テレビ局は重要ニュースを放映しますので御留意下さい)

 という不気味な一節を繰り返していました。すでに地方から投入された軍隊が北京に入ろうとしていた時期です。何事が起きるのかと日本人留学生の有志(笑)は私の部屋に集まって固唾を飲んで待っていたところ、飛び込んできたのが北京が戒厳令に入ったというニュースです。これは容易ならぬことになった、と私たちは顔を見合わせました。

 そのころ、上海・外灘(バンド)の上海市政府庁舎前で夜通しの座り込みを行っていた多数の中国人学生たちの間では、

「上海にも軍隊が投入される」

 という想像ないしは虚言から恐慌が発生していました。要するにパニックになって、その場にいた学生たちが秩序も何もなく、我れ先にとその場から逃げ出したのです。

 そのとき現場にいた私たち有志のひとりである日本人留学生が逃げ出す学生をとっつかまえて、これはつまりどういう状況なのかを知ろうとしました。ただし中国語会話が不得手だったためメモを持ち出して、書いてくれと迫ったのです。

 パニックに巻き込まれなかったその留学生も肝が据わっていたものだと私は感心しましたが、その求めに応じ、逃げようとする足を止めて差し出されたメモにひとまとまりの文章を書き付けてくれた中国人学生も相当なものです。後で見せてもらったのですが、

「政府はついにファシズムというその本性を露わにした。民主化を求める我々大学生の愛国運動に対し……」

 といった内容の、それだけで演説原稿になりそうなしっかりとした文章でした。

 ――――

 ……ともあれ翌5月20日以降、市民の運動参加が激減し、学生は連日デモを繰り返していましたが、その勢いが5月末にかけて徐々に衰えつつあるのを私たちは感じていました。NHKの国際放送「ラジオジャパン」をはじめ、VOA、BBCなど海外の短波放送が伝える政情も、趙紫陽・総書記(当時)を筆頭とする改革派の敗勢覆うべくもないことを思わせました。

 つまり、上海では民主化運動がともすれば尻すぼみになりかねない状態にありました。そんな中で天安門事件が発生した、というのが驚きでしたし、市民や学生に軍隊が実弾射撃を行って武力弾圧した、というのも私たち外国人はもちろん、私と同世代だった中国人学生の想像をも超えていました。いや、文化大革命をくぐり抜けてきた老教師も、

「学生運動が失敗するだろうとは思っていた。思っていたが、こんな結果になるとは予想だにできなかった……」

 と、暗い表情で話してくれたものです。

 1989年6月3日の上海というのは、学生によるデモは行われていたものの、終業シーズン(中国は9月が新学期)の空気が漂うなか半ば惰性でやっているという気配がありましたし、学生リーダーたちの間でも今後の方針に関して対立が発生していた時期でした。

 その日、私たち留学生は農村ツアーに駆り出されました。生活感のない、外国人や地方からの視察団に見せる目的で作られた郊外のモデル農村を見学させられ、党書記の演説を聞かされ、そのあとは御馳走が出て教師ともどもビールで乾杯を繰り返しました。……不謹慎なようですが、上海はすでにそういう空気だったのです。農村見学は自由参加でしたから、デモが盛り上がっていれば私たちも加わらなかったでしょう。

 ――――

 一同いい気分になって学校に戻り、留学生宿舎の自室に引き揚げました。ただ習慣となっている上海人民廣播電台と短波放送での情報収集は欠かしませんでした。……すると、また夜になって上海人民廣播電台が不思議な放送を繰り返し始めました。北京市郊外で軍の車両が人身事故を起こし市民4名が死亡した、といったニュースを何回も繰り返すのです。どうやら何かが起きたらしい、いや起きているのかも知れない、とそこでまた有志一同が緊張して集まり、色々考えてみましたが答は出ません。

 ちょうど、「ラジオ日本」の夜のニュースの時間でした。これは海外への放送を前提としていないため、NHKのラジオジャパンと違い、条件がよくなければ聞き取れないほど雑音の入る放送でしたが、その夜は幸運にも聞き取ることができたのです。

 そこで入ってきたのが、北京で軍隊が学生や市民に無差別に実弾射撃を始めている、というニュースだったのです。あのときの戦慄はちょっと表現できません。そして、他に情報収集の手段を持ち合わせなかった私たちにはそれ以上何もすることはできませんでした。

 テレビは1階の応接室にありましたが、職員が帰るときにカギをかけてしまうために入れません(入ってもテレビではニュースを流していなかったと思います)。緊張と興奮が混ざりあった気分と手も足も出ないやるせなさを感じつつ、私たちはそれぞれ床に就くほかありませんでした。

 ――――

 なかなか寝つけなかったのですが、少し眠ったかと思ったところで部屋のインターホンが私に電話が来たことを伝えました。いまは知りませんが、当時は電話は宿舎職員の勤める服務台(宿舎受付)にだけ設置されていて、電話が来るとインターホンで該当者に知らせる仕組みです。

 時計をみると6時45分でした。こんな朝早くに……と思いつつ受付に下りて受話器をとると、何と日本の恩師が自宅からかけてきた電話でした。珍しく興奮した声で、

●北京で軍隊が学生や市民に発砲して死傷者が出ている。
●NHK(テレビ)は一晩中北京の映像を流した。発砲シーンもあった。

 という趣旨のことを手短かに伝えたうえ、「学校命令」として、

●外地(上海以外の地区)には出ないこと。
●デモに巻き込まれないように十分注意すること。デモ参加などはもってのほか。
●何かあったら御家人まで連絡すること。(同じ学科からの留学者では私が最年長だったので)

 ……との3項目を宿舎に貼り出しておきなさいと言われました。加えて最後に、つい最前線に飛び出してしまう私の性質を知る恩師は、

「御家人君、あなたも駄目ですよ。デモに参加したらいけませんよ」

 と念を押すように言われました。後日留学仲介業者からの連絡もあって、やはり同じことを念押しされてしまったのですが、結局この点だけは私は守れませんでした(笑)。まあ留学先が北京ではなく、オフサイドトラップにも引っかからなかった(1回だけ私服に尾行されて危ないことがありましたがw)という僥倖により、今こうしてブログを書いていられる自分がある訳です(真剣)。ちなみに一時帰国で恩師宅に挨拶に行ったとき「すみません約束を守れませんでした」と正直に白状したところ、恩師は上品に笑いつつ、

「そんなことわかっていますよ。わかっていますけど、一応言っておいただけです。ともかく無事でよかったですね」

 と言ってくれました。……まあそれは後日のことです。何はともあれまず仕事。貼り紙を作って貼り出し、一応後輩たちの部屋を回って一声かけておきました。

 ――――

 そういうことをしているうちに腹が減ってきたのに気付き、近くの馴染みの汚い麺屋に出かけようと校門を出たとき、ふと時計を見たら9時ちょっと前でした。あっこりゃいかんテレビのニュースをチェックしないと、と思ったとき、雲南出身のY君という私と仲のいい学生がのんびり歩いてくるのに出くわしました。

「おい大変だぞ。北京で軍隊が発砲したのを知っているか」

 と聞くと何も知らないのです。事態がよくわからずただ驚いてしまっている彼の腕をとって、

「もうすぐ9時だからテレビでニュースをやるだろう。一緒にテレビを観よう」

 と留学生宿舎に戻り、応接室に入ってテレビをつけました。

 ――――

 ほどなく9時です。背景が青一色でセットも何もない北朝鮮のテレビニュースを思い出して頂きたいのですが、最初にその青い背景に何の変哲もない大きな文字で、

「重要新聞」
(重要ニュース)

 という4文字が画面いっぱいに映し出されました。続いてやはり文字だけで、

「新華社消息/戒厳部隊遭到歹徒野蛮襲撃/被迫採取果断措施」
(新華社電/戒厳部隊は暴徒の野蛮な襲撃に遭遇し/やむを得ず果断な措置をとった)

「新華社消息/戒厳部隊平息反革命暴乱/進駐天安門廣場」
(新華社電/戒厳部隊は反革命暴乱を鎮圧し/天安門広場に進駐した)

 という画面が出て、その後北朝鮮のニュース同様女性アナウンサーが登場して、

「党中央の決定を断固擁護せよ」
「反革命暴乱を断固鎮圧せよ」

 といった『解放軍報』社説を読み上げました(戒厳令下ですから党中央機関紙の『人民日報』ではなく、人民解放軍機関紙の『解放軍報』なのでしょう)。現場の映像は一切ない、ただそれだけのニュースです。ただそれだけであることが、事態が緊迫していることを強調する効果をもたらしているかのようでした。

 ――――

 Y君はぼんやりして私の顔を見ています。私もこの異様な画面に呑まれていました。ただいつまでもそうしていられません。Y君には同じ学科のC君にこのことを急いで伝えてくれと頼みました。C君は私の学校の学生運動リーダーのひとりである上に、私にとって最も仲のいい学生のひとりなのです。そして急き立てるようにして2人で留学生宿舎を出て、校門の前でY君と別れました。

 私はともあれ食事です。自転車置き場を改造したような露天で汚い馴染みの麺屋へ行って自前の箸(箸持参はB型肝炎が流行していた当時の常識)でうどんのような麺をすすりました。すすりつつ、

●午後には上海大厦(ガーデンブリッジ=「外白渡橋」のそばにある高級ホテル)に香港の新聞(親中紙の『香港文匯報』と『大公報』)が入るからそれを買いに行く。

●買ったら大学に戻って戒厳令布告のときのようにC君にそれを貸す。

●C君はそれを江沢民(当時上海のトップ=市党委員会書記)に潰された『世界経済導報』編集部に持ち込んでガンガンコピーする。

●今夜か翌朝にはそれが南京路など市中心部の目抜き通りに貼りまくられることになる。

 ……などと行動計画を練っていました(すでに恩師のいいつけを破っているも同然w)。

 不気味な仮定ながら、上海にも戒厳令が敷かれるのだろうか、とも考えたりしました。当時、党中央は実際にそのつもりだったようで、事実軍隊が上海市をグルリと包囲するような形で待機していたそうです。最も郊外に位置する大学には戦車を目撃した学生もいた、という話も後日聞きました。

 それから数年後、香港でプロのチャイナウォッチャーに教えてもらったのですが、政治生命を賭けて上海での戒厳令実施に反対し続け、ついにそれを防ぎ切ったのは当時市長だった朱鎔基だそうです。ある意味、私の恩人といえるかも知れません。

 ――――

 現状に背を向けて、とりとめもないことを長々と書いてしまい申し訳ありません。情緒不安定になるこの時期だから、ということで諒として頂ければ幸いです。


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 今回は勝手ながら雑談及び楊子削りとさせて頂きます。標題の通りです。

「台湾」
「台湾人」

 という言葉を耳にすると、私はもう無条件で言い様のない情感と好感を覚えてしまうのです。

 ――――

 前回の「楊子削り」の冒頭で、
「ときに落ち着いて来し方を振り返ってみたりするのですが、どうも私は典型的な留学生崩れの道を歩んでいるようです」と書きましたが、誰も好んでそうなった訳ではありません(笑)。私だって駆け出しはマトモだったのです。ただ選択を誤ってしまいました。

 当時はバブルの末期で就職戦線は売り手市場。いくらでも口があったのですが、そこは若年客気、できれば小さな会社で自分の働きが会社の業績に反映されるようなところがいいと考え、新卒で中国貿易をメインとする商社に入社しました。他にも色々内定をもらったのですが、
「会社が人を選ぶのと同様に、こちらも会社を選ぶのだ」という不遜な考えでしたから、内定を蹴ることに何の罪悪感も感じませんでした。

 さて入社した商社ですが、上述したように当時はバブルの末期。その会社も御多分にもれず、実は土地を転がして利鞘を稼ぐことで商売が成り立っており、対中貿易も色々やっていたのですが赤字部門のようなものでした。

 小さな会社です。むろん研修めいたものなどなく、私は入社2日目から先輩に連れられて営業をやらされました。後に香港で真価を発揮することになる「口先三寸」技(笑)はどうやら生来のものらしく、ほどなく1人で動くように命じられました。

 むろん得意先を任されるのではなく、それを自分で見つけてこいという飛び込み営業です。でもこれで海外営業の第一歩を踏み出したのだという喜びがありました。……というのは嘘でして、こんなことをやっていて一人前になれるのだろうかというのが本音でした。「こんなこと」が何かは内緒ですが、あまり誇れる内容のものではありません。あ、もちろん法に背く行為ではありませんでしたけど。

 ――――

 で、繰り返しますがバブルの末期です。そのころには、いわゆるバブル崩壊はたぶん一部では始まっていたのでしょう。その証拠に土地転がしで稼いでいた私の勤務する会社があれよあれよという間に暗転していき、入社後3カ月で倒産してしまったのです(笑)。いや笑い事じゃありません。倒産、あれは実に呆気無いもので、変だな?妙だな?……と気配の微妙な変化に気付いたときにはもうどうにもならず、片目をつぶっていました(1回目の不渡り)。

 その後は営業どころではありません。債権者が押し掛けてくる前に会社の資産である商品やらリースしたコピー機をあちこちに運んで隠す仕事ばかりでした。士気もすっかり落ちて、勤務時間中に再就職先を探したり、終業後は専務とかがボトルキープしている店に出かけてそれを空にするまでみんなで騒いだり。この間のあれやこれやを具体的に書くだけで読みごたえのあるドタバタ劇になるのですがそれは割愛。

 ともあれ私も就職先を見つけなければいけません。営業部長とその得意先であるアパレルメーカーの社長の酒席に呼ばれて、「上海に工場を出すから現地駐在員になってくれないか」と誘ってもらったのですが、そのときは「もう対中貿易は勘弁」という気分がありましたし、中国語を使えるのは嬉しいものの、仕事でその社長に接していて呆然とするような現地の縫製技術を目の当たりにしていましたから、折角ですがと辞退しました。これは正確な選択だったと思います(笑)。

 ――――

 そのうちに新聞の片隅に香港の日系企業の求人広告が出ました。中国語の技術が問われる職種で、それならと思って応募してみました。しかし倒産当時のダラダラ気分が残っていたせいか、面接試験の時間に遅刻する始末。しかも軽い翻訳テストと面接と聞いて案内されたのは大部屋で、いかにも仕事の出来そうな女性や遣り手のビジネスマンといった風情の男性が黙々と翻訳に挑んでいるのです。

 試験は2回に分けて行われたらしいのですが、私のときだけで50人はいました。翻訳自体は鼻歌まじりの楽な文章でしたが、遅刻までした私は競争率の激しさにこりゃもういかん、帰っちまおうかと思いました。

 ところが、これに合格してしまったのです。百数十人受けて採用2名という話なので信じられませんでしたが、これには事情があって、

「中国語も一応できるようだし素直そうでいい(若いころ私が得意とした擬態ですw)。若いから給料も安くて済むし、営業が出来そうだから使えなかったらそっちに回そうと思った」

 と後に社長から直々に聞かされました。仕事に関しては全くといっていいほど期待されていなかったようです(笑)。

 そして7年に及ぶ香港生活(最初で最後の日系企業)がスタートすることになるのですが、意外なことは続くもので、回された仕事が大学時代の専攻と私が関心を持っている分野にドンピシャでした。それで重宝されることとなり、期待されていなかった分だけ過大な評価を受けることとなりました。

 海外に出て来たのに試用期間の3カ月でクビを切られたらどうしよう、と常に不安だったのですが、
「お前はよくやっている」と、正式採用と同時にドーンと給料を上積みしてくれました。それだけではなく、社長に呼ばれて旧正月期間の休暇中に台湾出張を命じられました。何で休み中に仕事?と思ったのですが、

「仕事はしなくていい。エアチケットとホテル代を出してやるからのんびり遊んでこい」

 と豪儀な話です。私はといえば、本当に期待されていなかったんだなあと実感したものです(笑)。

 ――――

 ようやく台湾の話となりました(笑)。1990年代初頭のころです。初日は夜遅くの便で台北入りしてホテルにチェックインして寝ただけで終わったのですが、翌日いきなりガツンとやられました。とは、旧正月ですからレストランなどが軒並み休業していて、ホテルの洋食レストランを別とすれば、あとはマクドナルドとかケンタッキー、あるいはデパ地下といった場所しか食べるところがなかったのです。

 いや、最初のガツンは床屋でした。「先生、要不要舒服?」(気持ちのいいサービスの方もいかが?)というアレではなく、正真正銘の散髪屋です(笑)。驚きました。広東語一辺倒の香港と違って、北京語がそのまま通じるのです、北京語が。……台湾なんだから当然といえばそれまでですが、髪型の注文に加えて、カットしてもらいながら散髪屋のお姉さんと北京語で世間話ができた、ということが例えようのない快感であり、広東語によるストレスが一気に散じられる思いでした。

 そのあとに台湾の新聞でも読んでみるかとコンビニに入りました。入った途端、店員に
「歓迎光臨」(いらっしゃいませ)と言われて再びガツンです。大袈裟でなく耳を疑いました。だって当時の香港のコンビニでそんな挨拶をされることは絶対あり得なかったからです。残念ながら新聞は売り切れていたので何も買わずに店を出たのですが、そこでまた一言、中国語は思い出せないのですが「有り難うございました」と言われたのです。

 衝撃でした。香港なら何も買わない客に聞こえるように「チッ」と舌打ちしてみせたりするのが常識でしたから。どうやら違う、台湾は違うようだということに気付きました。日本と同水準の、マニュアル型の受け答えをこなせるレベルのサービスがしっかり根付いているということです。

 そこでマクドナルドに行きました。ああ、やはり香港と違いました。営業スマイルから始まって最後まで日本同様の応対ぶりです。念を入れてケンタッキーにも行きましたが、やはり同じでした。マニュアルをこなせるのです。そういう店と違い、デパ地下の安っぽい食堂や街角でまれに開いていた豆乳の店などでも香港とは正反対の、客を客として丁寧に扱うことがリピーターにつながって長い眼でみると得、という考えに基づいたサービスが根付いていました。

 あるいはそれはサービスの観念とかではなく、台湾人の対人接触に一種の優しさがこもっていることに起因しているのかも知れません。いずれにせよ、私は社長からの御褒美による台湾出張で得難いものに接することができました。そのときの別種の体験(台湾独立派の新聞記者に会ったり、アマチュア専用のライブ喫茶へ行ったり、そごうの喫茶店で隣席のお姉さんたちを捕まえて色々話を聞いたり、コンビニで『non・no』が売られていて驚いたり)も含め、これが私の台湾観、台湾人観の基礎となったのですが、その後仕事で何度足を運んでも不愉快な目に遭うことがなく、台湾は常に香港生活でストレスが蓄積された私を癒してくれました。

 ――――

 その後歳月が流れ、私が香港・台湾メディアと関わっていたころ、とある台湾の出版社にスカウトされました。副業で書いていた中文コラムを読んで社長が私の物の見方を評価してくれたとのことで、そんな殺し文句を言われたら私も動揺します(笑)。ただそのころは香港とのつながりが深く、仕事も重要な時期にあったのでそのときは辞退し、様々な経緯から数年後に改めて招請を受け、その台湾企業に入りました。

 最初は社長室付の東京駐在員だったのですが、何年かして社長から台湾本社への異動を打診されました。どうにも元気がなく業績も上向かない編集部があるのでそれを建て直してほしい、ということで、いわば再生工場役なのです。もっとも私も台湾出張を重ねていましたから、会社にいくつかある編集部の中でそこだけは手の付けようがないことはわかっていました。

 その編集部だけ士気も低いし、元気もないし、制作レベルも低いのです。ただそれは責任者の問題によるもので、下っ端にも機会をどんどん与えて、じっと我慢して褒めて伸ばすことで自信を付けさせ、その過程で本当に使えない者を整理しつつ外から人を入れて戦力強化すれば何とかなるだろうという目で私は東京から眺めていました。

 ただ営利企業ですからそう長くは待ってくれません。採算を考えるなら盲腸を切るように潰した方がいいだろうと考えていたのですが、他人事ではなくなってしまったのです。潰せばいいのはわかっているが、草創期に会社の柱として活躍したその編集部に思い入れが深いので何とかしてほしい、というのが社長の弁です。

 私はこの社長が好きで、現在に至るまで、この社長ほど英気溌溂としていて人間的にも尊敬に値する、また人生の師とするに足る人物には巡りあっていません。浪花節ですが、最初にスカウトしてくれたときからの恩顧に応えるべく、討ち死に必定であることを承知しつつ異動を受け入れました。

 ――――

 これでまず喜んだのが他の編集部で、着任したところ社内で唯一広東語に通じた人間(笑)と重宝されて、香港からの電話を通訳させられたり、挙げ句は香港誌に載せる広告の広東語コピー作成を頼まれたりしました。「ひとりだけ日本人」状態は相変わらずです。……仕事では苦しいことが多かった割に、頭に浮かぶのは楽しい思い出ばかりです。

 以下はちょっと劇的なのですが、私が赴任して編集部長兼編集長のようなものになり、社長の支持とそれなりのポストであるのをいいことに、かなり無茶な、破天荒なやり方で建て直しと意識改革の手を次々と打つうちに、編集部が生まれ変わったように元気になり、士気も高まって、会議でも開けばみんな下を向いて黙然としていたのが、どんどん手を挙げて積極的に意見を言うようになりました。

 機会を与えられれば嬉しいでしょうし、その仕事ぶりを褒めてやればヤル気も出るのでしょう。その気になれば相応に仕事の質もよくなりますし、それゆえ積極的にもなるもののようです。非常にベタな展開なのですが、現実にこんなマンガみたいなことがあるのかと私自身が信じられませんでした。

 もちろん無茶で破天荒な分だけ秩序紊乱な部分もあるため抵抗勢力による排撃も相当受けたのですが、私はそのたびに白髪を増やしボロボロになりつつ(笑)、辛うじてそれを跳ね返し、編集部を守るという姿勢を崩しませんでした(配下に対する演出・演技という側面もあります。そりゃもう元「漢方医」ですからw)。あるいは、そういう私を間近で見ていたので部下たちが哀れんでついてきてくれたのかも知れません。

 唯一心残りなのは、親が病気になったため1年ばかりで退社して台湾生活を切り上げる破目になったことです。そのため任務も完遂するまでには至らず、社長にも部下にも申し訳ない気持ちがあります。ただ、仕事が忙しくて観光するヒマもありませんでしたが、日常生活で接した台湾人たちはみんな親切で優しく、私の台湾と台湾人に対するイメージは最初のガツンから損なわれることなく、より好もしく強固なものとなりました。

 ――――

 そして楊子削りとなる訳ですが、これは紹介するまでもなく皆さんは一読した御経験がおありかと思います。私は文学というものが苦手で、小説といえば故・司馬遼太郎氏の著作ばかり読んでいましたが、散文に傾くようになってから出た『台湾紀行』は氏の著作のベストテンに入れる価値のある名作だと思います。

 もう一冊の『台湾人と日本精神』は討ち死に覚悟で台湾に赴任する際、何かすがるものが欲しくて愛読書たる『台湾紀行』に加えて選んだのがこの本でした。仕事で苦労するたびに、「日本精神」という言葉に勇気づけられたものです。

 長くなったついでに司馬遼太郎の作品の中で私が最も好きで影響も受けた『峠』も加えておきます。深い部分でヲチの基礎にもなりました。ただ御家人を再生産してもロクなことはありませんから、前途のある真面目な学生さんは万一を考えて読まない方がいいかと思います(笑)。

『ワイド版』 街道をゆく 40 台湾紀行

朝日新聞社

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台湾人と日本精神(リップンチェンシン)―日本人よ胸をはりなさい

小学館

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峠 (上巻)

新潮社

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峠 (中巻)

新潮社

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峠 下  新潮文庫 し 9-16

新潮社

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 最近私は東京に腰を据えて海外に出る機会が減っているので(東京駐在員ですから)、ときに落ち着いて来し方を振り返ってみたりするのですが、どうも私は典型的な留学生崩れの道を歩んでいるようです(笑)。中国語に関する需要に応じるままに中国、香港、台湾と流転してしまい、おかげで組織の中で仕事をして人付き合いをして昇進して……という感覚がすっぽりと欠落したまま歳を重ねてしまいました。

 ですから、
「職業に対する好き嫌いと適性の有無は別物である」という当たり前のことにようやく思い至ったのも20代も半ばを越えたころでした。自分が嫌いな仕事でも、好きな仕事より適性があって向いている、というようなことがあるんですねえ。

 これを応用すると、「自分のタイプである女性と、自分を好きになってくれる女性は必ずしも一致しない」ということにもなります。むしろ一致しないことの方が多くて全くもう×○△◇……(笑)。

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 香港に住んでいたころ、1年ほど自暴自棄というか公私ともに荒んだ生活をしていた時期がありました。遊んでばかりもいられないので就職でもするかという気になったのですが、ふつう邦人なら日系の人材派遣会社を訪ねるところ、そこは自棄ですから地元紙の求人広告で適当に選んで、面接に行った地元企業に日本語力を買われて即入社決定(笑)。日本人観光客相手の漢方薬の店を立ち上げるとのことで、その準備一切に関わりました。もちろん日本人は私だけです。

 香港ツアーに参加したことのある方ならわかるでしょうが、ガイドは観光二の次で革製品や免税店や土産物屋や漢方薬店へと団体客をやたらと連れ回します。その集客数(人頭税という隠語が使われていました)と売り上げに応じたコミッションがガイドの重要な収入源になるからです。

 で、そのタイプの漢方薬屋を新規開業しようという訳です。色々な仕事をやらされました。店鋪建築を督促したり、日本語パンフレットを作成したり、商品パッケージの吟味をしたり。店内に掲げる木彫りのキャッチコピーも作らされましたし、店員の面接官もやりましたし、採用した店員の日本語教育も私の仕事。果てはプロモビデオの声優までやらされました(笑)。

 それから出店地一帯を仕切るヤクザの親分と会食したのも今となっては貴重な体験です。香港の俳優である黄秋生に瓜二つの顔をしていまして、それだけでもドスが利いているのに隻腕なんです。左腕が肩から先はなくて、ポロシャツの裾がクーラーの風でヒラヒラと揺れていました。

 ――――

 で、オープンすると副店長をやらされたのですが、その役職での実務はシャッターの開け閉めと在庫管理ぐらいで、実はその一方で兼務する仕事の方が重要なのでした。簡単に書きますと、ガイドが団体客を連れて入店し、教室のような部屋に案内して座らせる。するとおもむろに白衣を着た漢方医が悠然と登場し、商品である漢方薬を並べた前で30分ほど面白おかしく病気の話をする。商品の話をせずに病気と漢方の話を具体例や正確な数値を挙げて感心させつつ語るのがミソです。

 すると不思議なことに、漢方医の話を聞くうちに団体客はなぜか並べられている薬を無性に買いたい気分になるのです(笑)。そしてその雰囲気が室内を支配した頃合に実にタイミング良く、駅弁売りのように肩から下げた箱に漢方薬を満載させたセールスたちが部屋に入ってきます。当然ながらどっと売れます。その間、白衣姿の漢方医は客の質問に答えたりして専門家らしく振る舞います。で、販売が終わるとガイドが団体客を連れ出して別な店へと連れていくのです。

 私はこの「講師」(話し手)と呼ばれる白衣姿の「なんちゃって漢方医」を兼務させられました。むしろそれが本務でした。何人かいるうちの一人(もちろん私だけ日本人)ですが、やれと言われて「それだけは勘弁」と思ったものの、社長命令ですから仕方がありません。

 当時の香港には漢方医の資格制度がなかったので漢方医を自称しても法的には問題ありませんでした。でも芸名?で漢方医になりすまして白衣姿で同じ日本人である団体客の前に立ち、あれこれ喋って頷かせたり笑わせたりした挙げ句、原価1000円の薬を2万円で売るというあくどい商売です。嫌で嫌で仕方ありませんでした。

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 ただやる以上は徹しようと思い、普段から白衣を着て医者らしく振る舞う練習を自分なりにやりました。俳優がやる役づくりのようなものです。本物の医者ではなく、テレビドラマに出てくる医者の真似をすればそれっぽく見えるだろうと、一挙手一投足や説法をするときの雰囲気や語調などに心を砕いたものです。いや、本当に嫌だったのですけど、そこはオトナの世界ですから(笑)。

 説法のコツなどは、ライバル店から引き抜いた「漢方医」のベテランで日本語ペラペラのエース格の人が親切にも教えてくれて、それを自分なりにアレンジしました。すると試してみたら売れること売れること。エース格の人は中高年の男性客に強く、私はなぜか女性客に売り付ける(ではなく、買いたい気持ちにさせる)のに長じていて、婦人用漢方薬の在庫があっという間になくなって慌てて増産するという有様でした。

 忙しいときは「説法」に次ぐ「説法」で息つくヒマもありません。1回の「説法」を終えて室外に出て、すぐ次の「説法」の部屋に向かおうとしたときにガイドの人に腕を掴まれて最敬礼されたことがあります。後で聞いたところ、その「説法」1回の売り上げが40万円だか50万円だかに達したそうで、これには自分もちょっと怖くなりました。

 嫌な仕事でしたけど、自分の話でどんどん薬が売れていくのが面白くなかったといえば嘘になります。意外なことに、月単位の売り上げで新人の私がエース格の人とトップ争いをするまでになりました。こちらは基本給に加えて売り上げに応じたコミッションが入ってきます。月間1200万円ぐらい売ったのですが、とんでもない金額が私の銀行口座に振り込まれたていたのでびっくりしました。自分でも不思議に思ったものですが、どうも私にはその仕事の適性があったようです。

 でもやっぱり嫌なものは嫌でして、最初は面白がっていた部分もありましたけど、だんだんモチベーションが落ちていきました。高収入は嬉しかったのですが、こんな仕事をやっていたら人間がダメになる、と思ってほどなく辞めました。

 ――――

 そのあとに知人の紹介で通訳の仕事をしました。この商売も合法的で香港や台湾ではありふれたものなのですが、日本人の感覚でいうと怪しげな仕事です。その通訳で、日本企業が顧客のときに声がかかり、日本に出向いて通訳を務めるだけです。ただそのまんまの通訳ではなく、中国人らしい考え方や表現を日本人に納得しやすい内容に話を変えたり、例え話を勝手に追加したり、日本人に理解しにくい概念をわかりやすく説明する点などに創意と技量が必要でした。

 これまた好きか嫌いかと問われれば嫌いの範疇に入る仕事なのですが、どうもこういう舌先三寸の仕事が私には向いていたようです(笑)。10日間日本に行って仕事をして帰ってくると90万円。仕事はほぼ毎月1回のペースで入ってきましたからあとの20日間は遊んで暮らしました。これも嫌々やっていたので1年と続きませんでしたけど、今でもオファーが入ってきます(笑)。

 自暴自棄ゆえにそういう仕事に転がったのですが、お蔭で人生をリセットする切っかけになりました。その後は縁に恵まれて香港や台湾のメディアに関わり、現在の副業をやり、それを続けつつやがて分野の異なる世界に入って、そちらが本業となって現在に至っています。

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 さて標題の
「頑張れ健治!」ですが、私が自棄になっていた時期に偶然知り合った年下の青年です。谷垣健治という名前は、香港のアクション映画に詳しい方なら御存知でしょう。小学生の頃にジャッキー・チェンに憧れてスタントマンを志し、日本国内で腕を磨いた後、香港のスタント(武師)の世界に日本からたった一人で飛び込んだ好漢です。

 その日本から飛び込んでほどないころが私の自棄時代で、そのころに彼と知り合い、毎日のように顔を合わせては取りとめのない話で時間を潰したものです。その後、健治は仕事の世界で着々と地歩を固め、色々な香港映画に出演する一方、最近は自ら監督を務めて作品を世に送り出しています。ローカル受けする性格も幸いしたかと思いますが、もうすっかり香港のその業界に溶け込んでいます。

 その後、私の仕事の拠点が香港-東京-台北-東京と転々としたために連絡も途絶えてしまっているのですが、私の可視範囲内にある才能の横溢した若い世代を応援するという意味で、また海外で頑張る日本人へのエールとして以下の書籍を紹介させて頂きます。上が健治の著書、下では監修を務めており、付属のDVDに通訳などの形で健治が登場します。

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香港電影 燃えよ!スタントマン

小学館

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ドニー・イェン アクション・ブック

キネマ旬報社

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「上」の続き)


 ところで留学日記ですが、結局私は書くことなく、大学へ提出できずに終わってしまいました。私の若年客気を知る周囲から随分からかわれたものですが、これは仕方がなかったのです。正確にいえば、ありのままに書いたことは書いたのですが、それはとても大学に提出できる代物ではありませんでした。

 1989年の天安門事件で退避勧告が外務省から出され、夏休み期間に一回帰国させられたのですが、その際大学に顔を出してみると、教務課の掲示板に北京へ留学した女子学生の留学日記の一部が「重要」という朱印を押されて貼り出されていました。読んでみると民主化デモの勢いで大学構内でも騒ぐ中国人学生たちを宿舎から眺めていた、という目撃談なのですが、それが「重要」扱いされているのを見て、ああこりゃいかんと私は思ったのです。

 だってそうでしょう。業務提携の関係もあって、民主化運動が生起した当初から「デモ参加は不可」という通達めいたものが日本の大学から届いていたのに、私はといえば、授業をサボって市内の大手大学を回って四五運動(1976年の第一次天安門事件)記念日への反応を探ったり、偶然とはいえ初の組織的デモを決議した学生集会に居合わせてしまったり、当然デモに参加したり、朱鎔基の勤務する市政府前で座り込むハンスト学生たちに話を聞いたり(笑)。

 まだあります。江沢民の家まで押し掛けて門前で「江沢民出て来い」とシュプレヒコールを叫んだり、その帰路に私服警官(ではなくたぶん国家安全部系統)に尾行されて危うく捕まりそうになったり、天安門事件後に上海で開催された追悼集会をのぞいたり、無政府状態下の繁華街で「軍隊だぁっ」という虚報に大パニックが発生したのに出くわしたり……。そういえば民主化運動を「動乱」と決めつけた『人民日報』の「四・二六社説」が大学の職員室にちゃんと貼られているのに感心しつつそれを隠し撮りしたりもしました(笑)。在東京の反中共・民主化運動筋が間接的な電話連絡で色々な情報を伝えてくれたりもしましたねえ。

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 「デモ参加は不可」だけでなく、天安門事件後は「外出は極力控えるように」との厳命もありました。それら一切合切を無視した内容の留学日記(しかもNG写真満載w)を提出なんかしたら後難が恐ろしくて恐ろしくて(笑)。真面目な話、それによって学内で恩師の立場が悪くなることも考慮しました。

 9月からの後半戦でも内陸部を回って古戦場(天安門事件が飛び火して焼き打ちされた商店街など)巡りをしたり、政治的に際どいことをやったりしていました。民主化運動でリーダー格だった学生たちが好んで訪ねてきては私の部屋で普段口に出せないことを話してくれたのもいい思い出です。私などは早くから大学当局にマークされていましたから、連中はいつも他の留学生への中国語個人教授(アルバイト)、との名目で留学生宿舎に入り、私と話し込んでいきました。

 私自身はマークされていてもそこは顔が利く大学ですからどこ吹く風。もちろん説教されたりすることもありません。それをいいことにやりたい放題でしたが、さすがにその一部始終を綴った文章を母校に提出することはできませんでした。

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 思いがけない展開になって歴史的事件に遭遇してしまったため、本来据えていたテーマもどこかに吹っ飛んでしまい、不本意な結果に終わりました。後半戦には多少は取り組めたのですが、郊外の様子を観に泊まり掛けで行ってみたら日本政府か何かの調査員と間違えられて、宿泊していたホテルで1日に10回近く「査房」(抜き打ちの室内検査、というか捜査)されたこともありました。

 内陸を回った当時は活動家の落ち武者狩りが厳しかったころで、行く先々でそれがあったので慣れてはいたのですが、回数が回数だけにそのときはさすがに腹が立って、机の引き出しの裏側に赤ペンで「毛主席万歳!」と大書してから何食わぬ顔でチェックアウトしました。ルーマニアの社会主義政権が崩壊してチャウシェスク大統領夫妻が銃殺されたというニュースを短波放送のVOA(美国之音)やNHKのニュースで耳にした頃のことです。

 ま、昔の話です。私が在籍していた学科(日本の大学)の凋落著しいことを風の便りに聞いたりするにつけ、私の綴った留学日記、いまも手元にあるのですが、あのときこれを大学に提出しておいた方が多少のカンフル剤になって学科の発展に寄与したかも知れないなあ、と考えてみたりもします。

 ……んなわきゃーない。冗談です。そんな大層なものではありませんし、それに当時は万一の祟り(処分)が怖くてとてもそんな勇気はありませんでした。私服に尾行される方がまだマシです。……いやあれもスリル満点なのでもう勘弁ですけど(笑)。


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【関連記事】

 「昔話その1」(2004/10/29)

 「昔話その2」(2004/10/29)

 「往年の文匯報をしのびつつ。」(2005/01/31)

 「五四記念:その人の昔話」(2005/05/04)



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 いま日本で中国語を学んでいる人たちがどの位いるのかは知りませんけど、たぶん私が大学生だった約20年前よりはずっと増えていることでしょう。関東地区の大学で中国語学科を置いているところが随分増えていますし。私のころはあまり選択肢がありませんでした。

 その時代の話です。私の在籍していた大学でも中国関連を専攻する者は大抵が1年間、中国の大学に留学していました。真面目に勉強していない連中も春休みを利用した1カ月程度の超短期留学に参加したり。あんなの留学のうちには入りませんけど、とりあえず1カ月滞在する訳ですから、観光を兼ねて現地のニオイを嗅いでくるという意味では意義のあるものだろうと思います。そういう意義を認めて参加した連中がどの位いたかは甚だ疑問ですけど。

 日本の大学に在学中の身で留学しますから、中国で本科生になるケースはほとんどありませんでした。いわゆる語学研修です。留学生専門の授業があって、そこで他国の留学生と一緒に実力別にクラス分けされて、1年間とか2年間で中国語を学習するというシステム。いまは中国も大学の数が増えて、留学生大歓迎のところが多いようですから、私のころに比べれば日本人留学生の数も増えたことでしょう。

 ――――

 当時私のいた日本の大学は北京や上海のいくつかの大学と業務提携のような関係があり、そのパイプを利用して留学することができました。他に民間業者を通じて手続きする方法がありました。

 私が選択したのは後者です。理由は値段が安かったのと、プロの斡旋業者という手堅さによるものです。教務課かどこかが片手間で手続きする心許なさに加えて、その割には手数料をせしめる大学の制度を利用する気にはなりませんでした。大学ルートだと単位交換制度というメリットがあった筈ですが、それでもらえる単位はほとんど日本で取ってしまっていたので、私には無意味だったこともあります。

 私が選んだ中国の大学は、業務提携関係にあるところのひとつでした。それならなぜ民間業者を通したのかという理由は上に書いたばかりです。なぜその大学にしたかというと、ある意味コネが効くから、ということになります。

 亡命といえば大袈裟になりますが、業務提携先から半年単位で交代でやってくる中国人教授には、そのまま日本に居残って帰国しないケースがしばしばありました。ちゃんと帰国する教授でも、子女を日本へ留学させるための仕込みをちゃっかり行ってから中国に帰っていました。

 で、「亡命」のために一役買ったり、息子夫婦が留学のため来日したときにアパート探しその他で汗をかいたりしていたのが私です。恩師の親しい教授が学部長のような役付きだったということもあり、ある程度顔が利くというか、一種の保護者が複数いる大学が上海にありました。当時の中国の社会状況に照らせば2年前に発生した大学生の民主化デモが再燃しても不思議ではない雰囲気でした(でもあそこまで盛り上がるとは全く予想外でした)が、「後台」(後ろ盾)がいるその大学なら多少の無茶をやっても大丈夫だろう、と多寡をくくっていたのです。

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 ところで私の大学では、中国に長期留学(1~2年)する学生は留学先での様子を綴った留学日記なるものを学校に差し出すことになっていました。命令された覚えがないので義務ではないのでしょうが、慣習というか不文律というか、誰もがそれに従っていました。その留学日記が私の在籍する学科の教員休憩室かどこかに置かれていて、学生でもそれを読むことができました。

 私はそれが送られてくるのを楽しみにして熱心に読む方でしたが、毎回毎回、ケッ下らねぇ所詮はこの程度かよ、という感想しか湧きませんでした。当時の私が生意気盛りだったということもありますが、授業と身辺雑記のような内容ばかりで、読み手(例えば留学予備軍)の参考になるような情報が全くありません。それに中国社会などに関する観察や考察が全くみられなかったからです。

 ちょうど胡耀邦総書記が失脚したり(1987年)、価格改革による混乱でスーパーインフレが発生して市民の生活が混乱し、趙紫陽ら改革派が窮地に立たされていた時期(1988年)にも関わらず、です。図書館で『九十年代』や『争鳴』といった香港の政論誌、それに霞山会の『東亜』などをいつも読んでいた私は、おれはこんな下らないものは書かないぞ、馬鹿な先人どもや教授・助教授の度胆を抜くようなものを書いてやる、と誓ったものでした。いまから思えば若年客気の一言です(笑)。

 ――――

 上海という街を選んだのは、当時の中国では改革という意味で最も象徴的な都市だと考えていたからです。そのころ改革開放の最前線といえば経済特区の深セン市でしたが、あんなものは何もないところに外資を呼び込んでビルを建てただけのものだ、と私は決めつけていました。

 それよりも「改革」という以上、それまでの古いカサブタを剥がし、何かを壊した上で新しいものを造り上げる難しさを実感できる都市がいいと思い、それなら上海だ、という結論に至りました。外灘(バンド)の洋風建築が象徴しているように、中共政権成立後も租界時代のインフラに頼らざるを得ず、当時もまだ頼り続けていた上海で何をどう壊し、何が造り上げられていくのかをみたかったのです。

 市のトップ(上海市党委員会書記)が江沢民で、市長が朱鎔基という時代でした。確か現国家副主席である曽慶紅も下っ端で働いていたころです。上海自体を開発しようという「浦東計画」が総書記になった江沢民によってぶち上げられる前の話で、深センや広東省に比べれば、当時の上海は開発面で大きな後れをとっていました。……そういう街に飛び込んで、いままでにない留学日記を書こうと私は思っていました。

 そういう生意気盛りの私でしたから、留学についても自分なりに色々定義していました。昔のことなのでもう忘れてしまいましたが、ひとつには留学するまでに中国語を一応仕上げてしまおう、ということがありました。語学研修の名目だけれど、現地についたら高級班(実力がいちばん上のクラス)の授業を鼻歌まじりにこなせる程度の実力はつけておこうと。

 ――――

 よくある喩えですが、例えばフランス料理を食べるなら、その味覚を楽しむべきなのに、フォークとナイフの使い方ばかり気になってしまって、ゆったりと余裕を持って料理を味わうことができなければ意味がありません。私にとっては「料理」が上海を対象として改革開放政策を観察することであり、「フォークとナイフ」が中国語ということになります。観るべきものを観るためには、道具の使い方なぞ軽くこなせて当然、ということです。

 他に、中国とのチャンネルはたくさん持っておいた方がいいだろうと思い、当時の中国では学習人口がそれなりに多かったエスペラント語(魯迅とエロシェンコです)をかじったりもしました。これは結局留学では役に立ちませんでしたが、後に香港に住むようになってからそれを機縁に有益な出会いを得ることができました。……あ、チナヲチの「チナ」や「Japanio」の由来でもあります。

 もちろん、大学図書館にあった留学体験記のような書籍は片っ端から読破しました。という訳で楊子削りになるのですが、その中で最も参考になったのが以下の2冊です。いずれももはや古典なのですが、読み手の姿勢次第ではいまでも十二分に益するところのある名著です。『中国・グラスルーツ』は中国観察の上でも参考になりました。

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中国中毒―チャイナ・ホリック

三修社

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中国・グラスルーツ

文藝春秋

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「下」に続く)


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【シリーズ:反日騒動2005(32)】
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 私は五四運動には関心がありませんが、16年前の5月4日には思い入れがあります。……と私に話してくれた人がいた、ということにします(笑)。

 ――――

 その日は朝から隊列を組んで歩き回ったり、
後に首相となる人の執務するビルの前でシュプレヒコールを叫んだり、季節柄ちまきを買って腹を満たしつつ市中心部の目抜き通りを練り歩いたりしたそうです。

 挙げ句の果てに夜には直後に
総書記となる人の家の前まで行って、みんなで座り込んだり「×××出来!」(×××出て来い!)と唱和したり。あとはインターナショナル(国際歌)とか当時流行していた台湾人歌手の歌もみんなで歌った覚えがあるとのこと。

 途中で他大学の女子大生二人組にナンパ?されたりもしたそうです。いや本当のナンパではなくて、物腰にせよ何にせよ中国人とは違う雰囲気だし写真も撮りまくっていたので、党の息がかかった学生会あたりの人間が何者かを掴むべく雑談で絡んで探りを入れてきたのだろう、ということでした。

 面白いもので、座り込みに入った彼らデモ隊を取り巻く野次馬の顔ぶれが、時間が経つにつれて変化していったそうです。最初は近所の家族連れといった風情だったのが、午前0時を回っても人数が減らぬまま、
屈強な野郎どもばかりになって(笑)。

 当時から2年前にもその街では学生デモがありまして(その責任を問われて胡耀邦総書記が失脚しています)、そのときは明け方に公安が突入して学生の首謀者を捕えたりしたという香港政論誌から得た知識がその人の頭にはあったので、このままここにいては危ないと考えたそうです。でも、それがそもそもの誤りでした。

 ――――

 手入れに巻き込まれちゃかなわんと、その人は午前3時ごろ独りで帰途についたそうです。案の定、1名が100m近く間合いをとってついてきました。
私服警官のようです。

 で、一応確認してみようと、その人はかつて読んだ『鞍馬天狗』の一場面を思い出し、それを試してみたそうです。ただ走るだけなんですけど(笑)。100mくらい走って振り返ると、
向こうも一定の間合いを保ったまま走ってくるではありませんか。

 何せ大通りなんですけど深夜で人気の絶えた街路です。相手も走ったのを見てその人はゾーッとしたそうです。恐怖感とかではなく、どうしよう身元がバレたら大学に迷惑がかかる、とか、「あなたはそういう性質なんですから特に気を付けなきゃだめですよ」と出発前にわざわざ訓辞してくれた恩師の言葉を思い出し、先生すみません、やっぱり私はバカでした……などと思ったそうです(笑)。

 幸い、近くに高級ホテルなどがある一角だったためか、偶然空車のタクシーが通りかかり、値切り交渉もそこそこに乗り込んだその人は、運転手を急かして車をスタートさせました。そのときには尾行していた私服が猛然とダッシュしてきていて、間一髪のタイミングだったそうです。一応、そのあともわざとタクシーを何度か乗り換えて無事帰ることができたそうですけど、残っていたグループも何事もなく、恒例の公安が手配したバスで帰ってきたそうで、それなら残っていればよかった、全く馬鹿な目に遭ったとその人はこぼしておりました。

 ――――

 ここからは私の話になります(笑)。

 テレビのニュースを観ていて驚きました。5月1日の警備状況、あれは上海だと思いますが、日本総領事館への路地を封鎖しているのです。それも通せんぼする形で
コンテナを並べての封鎖です。

 あのコンテナ、外側に向いた一面を海外のプレスが例外なしに撮影していく訳ですから、いっそその部分を広告スペースにして売り出しておけば、結構いい稼ぎになったかも知れません(笑)。

 しかし、コンテナですか。爆弾を満載した車の自爆テロとか、装甲車とかをデモ隊が保有しているならともかく、ああまでしないと万一ということがある、というのでしょうか。大袈裟な気もしますが、もし大袈裟でないというなら、他の場所はどうするんだ、ということになります。

 上海全体での警官の配置状況や警戒線の位置などはわかりませんが、仮にデモ隊が前回(4月16日)同様に出現したとして、日本総領事館を目指して歩いてきたものの、コンテナが道を塞いでいるから先には進めない。……ということで目標を急遽変更、日系スーパーとか日本人居住区に向かったときに、治安当局は対応できる態勢にあったのかどうか。現場を知らないのでそういうことが気になりました。

 ――――

 さすがにコンテナは使われませんでしたが、1989年の6月4日、いわゆる「天安門事件」以降、私のいた街でもそれに似たことが行われました。軍隊が市内に入ってきたときの対策ということで、バス、あの蛇腹で2両編成になっているバスをパンクさせて、通せんぼをする形で道を塞いだのです(写真)。市内各所でそれが行われ、その屋根に北京市民や学生を悼む花輪が飾られたりもしました。郊外の大学で正門前の道が軍隊の侵入路になる可能性が高い、とされていた場所も要所をバスで道を塞ぎ、その中に学生が詰めて24時間態勢での警戒がとられていました。

 何事もなかったとわかっている現在から振り返れば滑稽のようでもありますが、上空では戦闘機が旋回していましたし、半ばパニック状態に陥った日本人女子留学生たちはほとんど身ひとつといった状態でタクシーを呼んで空港近くのホテルに移ってしまいました。印象的だったのは米英豪の留学生たちです。夜中になってから非常呼集がかかりまして、全員荷物をまとめて午前2時までに英国大使館に集合、との命令が伝達されたのです。何だどうしたんだとクラスメートである豪州人のオバサンに聞いてみると、

「軍隊。軍隊が入ってくるのよ!」

 と動転しつつも教えてくれました。彼女の言を信じるならば、
米国の偵察衛星が私のいた街の周辺を軍隊がびっしりと取り囲んでいる状況を捕捉、急ぎ現地在住の自国民を避難させるべく、特別機の手配と深夜の集合命令となったそうです。

 ――――

 後に資料などに当たってみたのですが、どうやら軍隊が私のいた街を包囲しており、命令一下、市内に侵入して戒厳令を敷く態勢で待機していたようです。当時、警官は全市がデモで盛り上がり始めた時期からなぜか姿を消して、街は無政府状態。それでも学生と市民がよく協力して秩序を維持し、略奪騒ぎなどは起きませんでしたが、列車焼き打ちか何かで5人くらい死んでいる筈です。

 北京の意思は戒厳令にあったようですが、私のいた街の市長がそれにあくまでも反対し、軍隊の進入を拒んだとされています。この市長はそのためにテレビ演説も行い、学業や仕事に復帰するよう切々と市民に呼びかけもしました。その中で吐いた有名な言葉が、

「事件(天安門事件)の真相は、やがて歴史が明らかにする」

 ……というものです。当時、「事件の真相」と題して北京の大学生や市民を悪者扱いし、人民解放軍を讃える内容のドキュメント番組が散々テレビで流されていました。この言葉はそれを否定したも同然で、大袈裟でなく
自らの政治生命を賭けた一言でした。現にその後、中央の方針に背く発言だとしてこの市長は保守派から非難され、あわや失脚という目に遭っているのですが、この一言が混乱した事態収拾の引き金になったとされています。

 この有名な言葉以外にも市民の口碑に残る様々な施策を実現させて名市長と慕われたその人物は、後に首相となり、市長時代同様に難題に取り組んでは剛腕を振るいました。いまは政界から引退して趣味で胡弓(二胡)を習ったりしているそうです。「随分上達したものだよ」と記者に話したそうですが……実は市長時代、大晦日のテレビ番組にゲストとして登場し、

「退屈な挨拶より歌の方がいいかな」

 と気の利いたことを言うなり、即興でノドを披露したことがあるのです。ただあれは……お世辞にも上手とは言えませんでした。そこがまた愛敬なのですが、あの音感であれば、胡弓の腕前は期待しない方がいいと思います(笑)。

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 以上、何だか安保闘争の時代を熱く語る団×の世代のようで気がひけるのですが、あれから16年経ってもまだ同じようなことが起きている、……いやむしろ16年前よりタチの悪い方向に進んでいる、ということに改めて思いをはせ、言葉を失ってしまう次第です。



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