「淡色椎茸」さんから前回のエントリーについてコメントを頂きました。長くなってしまったので今回はそれに対するレスということに。当ブログの趣旨からは外れる内容なので事実上「閑話扱い」とします。横着ですみません。m(__)m
●多数派と人権(淡色椎茸) 2008-05-08 01:57:15
一点だけ指摘させていただきます。ブログ主さんの感覚に対する私の違和感です。
>「ライトユーザー」の取り込みといった感覚が全く欠落している主催者に呆れ、そのマーケティング意識の低さに辟易しました。
この部分はよくわかります。
>自分たちがみんなの声を代表しているのだという昂揚感・・・多数派意識とでもいうべきものでしょうか。
>多数派のニオイを感じた、ということなのかも知れません。
>多数派意識と、安心感を与えてくれる敷居の低さ。
>一連のデモを後押ししているサイレント・マジョリティ
こういう表現を何度も使用されているところに違和感を持ちました。「多数派意識」が「昂揚感」や「安心感」をもたらすというのはよくわかります。これを否定する気はありません。素朴な気持ちとしてはよくわかります。
しかし、私たちが問題にしているのは人権問題です。「人権」が試されるのはまさに「少数派の権利」が問題になるときです。
人権とは、基本的には、多数派(民主主義とか公権力)から少数派(普通は弱者)を擁護し尊重するためのものです(自由主義とか立憲主義とか)。
少数派が、多数派の考えや感覚に反することを勇気を振り絞って訴え表現するときにこそ、その社会の多数派の人権感覚が試されます。
そして、中国でのチベット人たちの立場はこの「少数派」です。だからこそ、「少数派の人権こそちゃんと尊重しろ!」と私たちは言っているはずです。
「多数派意識」や「多数派意識がもたらす昂揚感や安心感」とははるかに遠い、というかまったく別の位置に存在するのが「人権」という概念であり中国でのチベット問題だと言っても過言じゃない、ということをご理解いただけたら嬉しいなと思いました。
淡色椎茸さんへ
真摯なコメントをありがとうございます。私も真面目に回答させて頂きます。
「人権」が試されるのはまさに「少数派の権利」が問題になるときです。
私もそう思います。ただし、例外的に「少数派の権利」に注目が集まり、「にわか」「流行」といった平素は人権問題に大きな関心を払わない「ライトユーザー」が出現することがあります。仮にチベット問題を純粋な人権問題として捉えるのであれば、いま現在がそれにあたります。チベット人にとっては、中共政権に実質的に併呑されてから、約半世紀を経てようやく巡ってきた好機です。
ところがその千載一遇のチャンスに、政治的な立ち位置を問わず、日本では従来型の人権団体が「ライトユーザー」の取り込みに成功していません。今回のデモの成功において、ネットを通じた組織臭の希薄なある種の連帯が主たる原動力になったことは、はからずも「従来型」の限界を露呈したものではないか、と私は考えています。
御指摘のように、「人権」問題そのものは少数派が弱者としていわれなく虐げられることに起因しています。今回のチベットの例のように「ライトユーザー」が出現する機会は常に稀です。いきおい、人権を抑圧される側の少数派、これを支援する応援団というものも往々にして少数派になってしまいます。少数派である以上、多数派の共感を得るための組織力や資金力、メディアを通じた訴求力にも限界があることはやむを得ません。
しかし、ひと昔前ならともかく、現在においては、
「多数派意識」や「多数派意識がもたらす昂揚感や安心感」とははるかに遠い、というかまったく別の位置に存在するのが「人権」という概念
……という考え方こそが自分で自分の限界を設定してしまっているのではないか、と最近私は考えるようになりました。これは「従来型」の限界でもあります。この壁を破る上で、巨大掲示板やブログ、またYouTubeやニコニコ動画のような、従来型の人権団体が長じているとはいえないツールを上手に使いこなす動きに、私は「長野」を控えた時期から注目し、また期待するようになりました。
顧みられることの少ない少数派の問題を広範に認知させ、問題意識を共有せしめるという点において、新手の媒体をしなやかに扱うことのできる人々による新しい動きが、「従来型」には出来なかった何事かをやり遂げるのではないか、というものです。期待過剰ではないかと半ば思いつつも、いまの私はそれを夢想し、その実現を願うようになっています。
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ところで、ただ一点だけ、私が強調しておきたいことがあります。
「多数派意識」や「多数派意識がもたらす昂揚感や安心感」とははるかに遠い、というかまったく別の位置に存在するのが「人権」という概念であり中国でのチベット問題だと言っても過言じゃない
という御認識には致命的な誤りがあるのではないか、というものです。チベット問題は純粋な人権問題などという単純なものではありません。異なる思惑を秘めた大国など複数の政治勢力が切り結ぶ、その磁場がチベットであり、磁場であるがゆえにチベットの人権問題が折にふれクローズアップされるのです。政争の具、と表現してもいいかも知れません。
北京五輪を控えたこの時期にチベット問題が脚光を浴びたのも決して偶然ではなく、明らかにタイミングをはかって行われたものだと私は考えています。中国当局もそれに備えていたでしょうし、実際に当ブログで予測し、また跡づけてきたように、内外に対しきわめて迅速に「結界」を張り巡らすなどの手を打っています。
しかしこの密やかなつば迫り合いは、聖火リレーに対する抗議活動という形で一気に表面化し、国際問題化します。中国は、それに対してもマニュアル通りの対応。……するとその思惑通り、主要各国政府の出足は揃って鈍いものでした。初動期において、チベットに対する人権弾圧に真摯に向き合い、中国に対し実のある圧力・制裁的措置を具体的にチラつかせた国があったでしょうか?
とはいえ各国の世論はそれでは収まらず、主に対内的措置(世論対策)として日本などを除く主要国政府,特に英仏をはじめとする欧州各国が中国に対しやや厳しい姿勢を示すこととなりました。それでもせいぜい「政府首脳の五輪開会式ボイコット」(するかも)程度ですけど、国際世論が中国の姿勢に非を唱える形にはなりました。
欧米の主要メディアも頑張りましたね。五輪イヤーに開催国でこんな事件とは絶好のネタ。何たって絵になりますし,数字も取れますから。
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実はそれゆえに、今回は日本でも「海外の人権問題」というテーマにおいては珍重すべき「ライトユーザー」が出現した、といってもいいでしょう。「長野」にせよ今回のデモの成功にせよ、そうした要因の存在を無視することはできません。「従来型」が超えられなかった壁を突き破るかも知れない「新しい動き」について、私が「期待過剰ではないかと半ば思いつつ」と但し書きをつけるのも、チベット問題の背景の複雑さを考えてのことです。
チベットにおいて、不条理な人権弾圧は確かに行われています。これは断じて改善させなければなりません。ただしそれを試みる上で、単に人権人権と指弾するだけでは余りに素直で純粋に過ぎ、書生論に傾き過ぎているのではないかと私は思うのです。
きっかけとしては、義憤、可哀想、何とかしてあげたい。……それで十分です。でも考えを深めていくに際しては、抑圧を非難する一方で人権とは別口の搦め手からも攻めるなど、もっと現実的なアプローチを考えることが必要ではないかと。
ダライ・ラマ十四世の偉大さは、宗教的存在としてだけのものではありません。現実的なアプローチという点についてのバランス感覚に富んでいるという一面についても高く評価すべきです。政治力といってもいいでしょう。その面も含めて偉大な存在であり、ノーベル平和賞もその「偉大なる両面」への賞讃であろうと私は思います。
要するに、人権問題としての方法論だけでは解決しようのない複雑さがチベットにはあり、「チベットの人権問題」だけを見つめていても、やや視野を広げて「チベット」そのものだけを見つめていても、問題解決の糸口など到底見出せない。……というのが私の認識です。
ではどうするかといえば、私たち国民レベルに照らしていうなら、自国政府に現実的アプローチを採らせるべく迫る世論形成を図る、ということになるでしょう。そのために、私たちが人権問題だけでなく、チベットをめぐる複雑な情勢や弾圧者たる中共政権の泣き所・アキレス腱などについての認識を深める必要があることはいうまでもありません。チベットと無縁な場所を叩くことでチベットの人権状況が改善される可能性もあるのです。
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以前のエントリーでも書いたことですが、中共政権によるチベット人への人権弾圧について、私は純粋に義憤する一方で、まことに拙くはありますが中国情勢(ひいては国際政治)の一部分という捉え方もしています。当ブログの趣旨に照らせば、むしろ後者に軸足を置いているという方が正確でしょうし、私自身のスタンスもまた然りです。その方が、チベット人の身に降りかかっている問題を改善するためにはより確かなステップだと思うからです。
「多数派意識」や「多数派意識がもたらす昂揚感や安心感」とははるかに遠い、というかまったく別の位置に存在するのが「人権」という概念であり中国でのチベット問題だと言っても過言じゃない
という御認識は、当ブログの慣用句で表現するなら「極めて大胆で,野心的」ということになる、というのが私の考えです。私のスタンスは異なります。義憤はします。しかしあくまでも現実的なアプローチをより好み(しばしば無茶や暴走もしますけどw)、「ライトユーザー」の取り込みを常に私なりに念頭に置いています。歳が歳ですから、若い世代の純粋な部分に訴えかけるべく確信犯になることもあります。
でも、それが目標達成(問題提起や問題解決)への近道であるなら、それでいいじゃないかという考え方です。「人権」というお題でいうなら、少数派の問題から発展しないことに切歯扼腕するより、いかにして多数派を形成するか、あるいは幸運にも取り込むことのできた「ライトユーザー」をいかにして逃がさずにおくか、という方策・謀略を練ることの方に私はより積極的に時間を割きます。
チベットの人権問題に対しても同様です。今回のチベット問題で日本では大きな役割を果たしている2ちゃんねるにおいても、初動期の激情がほとばしるかの如き義憤モードから、幾度かの「実戦」という実践を経て、現実的な方法論を模索する方向へと流れが変わりつつあるようにみえます。もともと中国に対する反感の強い傾向がある巨大掲示板ですから、私などには考えも及ばないような、ユニークながらも確実なアクションを思いついてくれるのではないかと、私は但し書きをつけながらもやはり期待しているのです。
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最後になりますが、当ブログにおいて素人を標榜しているのは伊達ではありません。私は本当に無学ですから、頂いたコメントに対して噛み合わないレスになっているかも知れません。そのときは申し訳ありませんが「どうせ御家人は馬鹿だから」ということで許して下さい。
とりあえず、
「多数派意識」や「多数派意識がもたらす昂揚感や安心感」とははるかに遠い、というかまったく別の位置に存在するのが「人権」という概念
という物言いについて、私は真っ向から否定するつもりはありませんが、素直に同意することはできません。10年前であれば御説の通りでしょうが、個人個人の情報発信やネット上での連帯が現実のものとなっているいま現在においては説得力を失いつつあるのではないか、というのが私の認識です。こと「人権」に関しては、これまでマスメディアが障害物として立ちふさがっていた部分も結構あるように思います。今後は隠されていた部分に光が当てられる事例も増えていくのではないでしょうか。
●「多数派と人権」という課題は、これだけ道具が揃ってきたのだから、後はそれをどう上手に扱うかという頭の使い方次第で克服していけるのではないか。
●同時に、問われるべき「多数派の人権感覚」もまたそうした新しい道具によって成熟していくのではないか。
……と私は考えています。もちろん新手のツールにも光と影があることでしょうが、私は基本的に楽観論者です。
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【※】もし前回のエントリーの内容と矛盾する部分があるとお感じになった場合は、こちらの方を正解とみて下さい。m(__)m
とはいえ、あのデモは私にとってやはり理屈抜きにただただ感動的でした。「長野」組の皆さんには及びませんけど、今回参加できたことは一期の語り草になると思います。