一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

マルでダメ。

2006-06-10 | 余計なひとこと

日経BPの"Safety Japan"というサイトで、「政治アナリスト 花岡信昭」という人が「我々の国家はどこに向かっているのか」という連載をしているのですが、そこでブログ再炎上、きっかけはアイドル名と句点 という記事がありました。

要するに自分のブログでモー娘を非難したら炎上してひどい目にあった、という話です。

ネット・リテラシーの話とか、ネットウヨ(・サヨ?)などについての分析があるのかと思ったら、炎上の経緯を説明して  

ネットの技術的習熟にはほど遠い筆者がこの世界をのぞき込んでいるのは、ネット社会と政治が結びつく時代が目前に迫っていると思うからである。いずれネット選挙、ネット投票などが現実のものとなるだろう。そのとき、ネット社会の持つ「素顔」を知っておかないと、具体的に提言を考えようとしても空論に終わりかねない。そんな思いで、「炎上」の事態を踏まえて、さらにネット社会との取り組みを積み重ねなければと思っている。

ともあれ、貴重な体験となったのは確かである。

という感想で終っていて、ナンじゃこりゃ、という記事になっています。


もともとのブログの記事は正しい日本語の使い方についての話だったそうです。  

「・・・。」と、かぎかっこ「 」の中の文章の最後に句点(。)が付いているのである。これは日本語文章としておかしいのではないか。文学作品ならともかく、新聞も雑誌も単行本も、ほとんどがそうはなっていない。  

ということで、句点はどこに付けるべきかという論争(というのも大げさだが)に発展した。文部省の古い通達には「 」内の文章の末尾にも句点を付けるよう規定されており、最近の教科書でもそう指導しているという。それでは一般的な現代日本語文章の書き方と違うではないか。

確かに新聞・雑誌は最後に「。」をつけませんが、私は学校では最後に「。」をつけろと習ったし、このブログでもそうしてます。これってダメだったんだ・・・

筆者は元産経新聞の記者とので、マスコミ、出版の常識はそうなのかもしれませんが、それが「一般的な現代日本語文章の書き方」(このようにフレーズの引用のときは僕も「。」はつけません。)と言い切られると違和感があります。
(扶桑社の教科書はどうなっているんでしょう?)

そして、話はモー娘問題に続きます。  

そんな議論になっていったとき、こちらがよせばいいのに「モーニング娘。」という表記がそもそもいけないとやってしまったものだから、大騒ぎになった。歌も下手でダンスもまずいこの少女集団が売れっ子になったのは、日本語を意識的に誤用したグループ名の付け方が効果的だったという側面があるのではないか、という趣旨のことを書いた。歌も下手でうんぬんが余計だった。

私はモー娘については全然詳しくないのですが「日本語を意識的に誤用したグループ名の付け方が効果的だったという側面」というのはさすがに穿ちすぎだと思います。
少なくとも「歌もダンスも下手だけど「。」の力のおかげで売れた」(これこそ言葉のチカラw)などという因果関係は天地がひっくり返ってもない、と思います(ここで、天地は1日に1回ひっくり返ってるじゃないか、というツッコミはしないように。)。

筆者はあとでブログ上で謝罪したそうですが、日経BPのサイトにコラムを書いている(一応)有名人のブログで突っ込みどころ満載の記事を載せてしまったことは「炎上」をもたらすには十分でした。

ブログというのは壁新聞のようなもので、人通りの多いところに変な記事を張れば、通行人に冷笑されます。
ただ、壁新聞に反対意見をわざわざ隣に書き込むのはけっこう勇気が要ります。

同様に、ブログでも「馬鹿だな~」と思った読者が、わざわざそれに理路整然とした反応をしよう、という人は(書いてあることが馬鹿げたことであればあるほど)少ないと思います。
ただ、何もしないでいると、肯定的な閲覧者も否定的な閲覧者も「アクセス回数の増加」という形でしかあらわれないので、当の本人は「さすが俺様がいい記事を書くとアクセスが増えるな」と悦に入ってしまう可能性もあります。

そこで読者の側も自分のアクセス履歴を筆者に誤解されてはたまらんと、「自分がこの記事を閲覧した、ただしネガティブな評価だった」という足跡を残すために、一言書き込もうとする人もいるわけです。
その結果、書き込みには理路整然としているものだけでなく、直感的にネガティブな意見を表明するような「馬鹿」とか「死ね」とかいう感情的なものも多くなるわけです。

「炎上」といういのは、記事に対する非難が、論理的なコメントに加えて、「ひとこと言いたい」という気持ちを表す断片的で制御の利かないコメントが殺到した状態と定義できるのではないでしょうか。

それに対して(自分があとで反省するほどモー娘を非難しておきながら)批判的なコメントを受けたことに対してナイーブに傷ついたり、日本語の「言論空間」のために悲憤慷慨したりする筆者は、ちょっと狭量なんではないでしょうか。

傷つくのがいやだったら、最初からコメント不可にするかはたまた削除あるいは無視すればいいだけです(そうでなければ、ヘンな奴に目に付かない程度にひっそりとやってればいいわけです)。
そして論理的・理性的でない反論も「なんとなく嫌だ」という意思表明と見て、(非難の内容に対してはともかく)その数の多さに自省してみるのが謙虚な姿勢といえると思います(あ、これは自分自身への反省も込めてですね(^^;)。

「政治アナリスト」である筆者は、「なんとなく」の気分が「yes」か「no」になって現れる選挙という制度を仕事の現場にしていわけです。そこでは個人個人の投票行動に合理的に論述可能な根拠は求められていません。
そういう人間の情緒的な行動の集大成が正統性の根拠となっている世界で仕事をしながら、なぜ、筆者は自ら勝手に外に開いたブログへの読者の反応に対して論理的かつ礼儀作法にのっとることを期待しているのでしょうか。

筆者は、炎上の誹謗中傷のひどさに深く傷ついたようで、コラムを冒頭の「貴重な体験になった」で結んで、以上終わり、です。

全然「貴重な経験」が身になっていないですね。
(おまけに「。」の「正しい用法」にも納得がいきませんw)


筆者はネットにかかわる理由を「ネット社会と政治が結びつく時代が目前に迫っていると思うからである」と言ってますが、そういうご時世であるならばなおのこと「炎上」を冷静に分析すべきだったと思います。

私としては、それ以上に

日経BPのような既存メディアがブランドを背景にしながら愚にもつかないコンテンツを垂れ流すこと

が問題なのではないか、と思いました。

コメント
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