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伊勢神宮の由来2

2012年02月06日 17時23分56秒 | 無題

新田均皇學館大學教授の論文の続きです。



伊勢神宮ご鎮座の由来

 

ここから話は初代神武天皇から第十代崇神天皇に移ります。この間ずっと三種の神器は天皇陛下のおそばにありました。第十代の崇神天皇の時に、『日本書紀』にはこう記録されています。

  

                         崇神天皇陵


「神の勢いを畏(おそ)りて、共に住みたまふに安からず」。神の威力を恐れられて自分のおそばに八咫鏡を置いてお祭りしていることを恐れ多いと思われた、というのです。

この崇神天皇の時代には『日本書紀』によりますと、流行病、今でいう感染症がはやったり、それにより反乱が起きる、人民が離散するなど治安の乱れがあって、これをご心配になった崇神天皇はもっと丁寧に天照大御神をお祭りする必要があるのではないか、と考えられ、ご自分の皇女であられる豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に八咫鏡をお渡しになって、皇居を出て大和の笠縫邑(かさぬいのむら)というところで専門に豊鍬入姫命によって鏡を祭るようにされました。

それでは皇居の中で一切お祭りがなくなってしまったかというとそうではありません。『古語拾遺』という書物を見ますと、この時に別の鏡が作られて、宮中ではその鏡をお祭りし続けられました。それが今の宮中三殿の中心になっている賢所の起源になります。八咫鏡本体は外に出られたのですが、それは、より一層お祭りを厳重にするためだったということです。

天皇のお名前には後になってその天皇のご業績を考えて奉られたお名前が多いのです。神武天皇は神のような武力を行使された。崇神天皇は神を崇められた天皇ということで付けられました。ですから崇神天皇のご業績といえば、それまで宮中でお祭りされていた八咫鏡を、もっと丁寧にお祭りするために外に出された、ということです。

その次は第十一代の垂仁天皇です。仁を垂れた天皇、愛情深い天皇と言えます。この御世の時に今度は豊鍬入姫命ではなく、ご自分の皇女の倭姫命に、もっと鏡をお祭りするのに相応しい場所を探させます。お父上のご命令により倭姫命は、天照大御神を祭るに相応しい場所を求めて、今でいう奈良県そして琵琶湖の東岸滋賀県、そして岐阜まで行かれて、、今度は三重県に降りてこられて、ようやく五十鈴川のほとりに来たときに、天照大御神が、ここで祀られたいとおっしゃられたので、神宮が立てられることになったといわれています。西暦にすると大体三世紀末、三〇〇年少し前のことではないかと古代史家は推定しています。

ここで天照大御神を祀る皇大神宮がまずできます。それから十代下って第二十一代の天皇、雄略天皇の夢枕に天照大御神が御出現になって、一人で祀られているのはさびしいとおっしゃって、自分に食事をささげて下さる神様を招いてほしいと言われます。そして丹波の地域から天照大御神に食事をささげる神様として豊受大御神が招かれました。それが西暦五世紀後半、四七八年くらいではないかといわれています。

ここまでが御鎮座の由来ですが、日本神話の一つの特徴は、キリスト教の神話に比べてよくいわれることですが、国土も国民も神々から生まれたとなっていることです。キリスト教の神話は、人間は神によって作られたことになっています。これはある意味決定的な違いです。作ったものと作られたものの間には大きな溝がありますが、生んだものと生まれたものとの間にはそれほど大きな違いはありません。親から子供が生まれますが、子供はやがて親になります。神々と人間との関係は日本人においては親子のような関係で、そこには絶対的な違いはありません。ですから立派な人が神様として祀られることもあるのです。

もう一つは、国土も、その国土を治めるべく使命を与えられた君主つまり天皇も、その君主に治められるべき国民も、すべて神々の子孫ということになりますので、神々の子孫という点では、国土も君主も国民も違いはないのです。違いは、天上界の中心である天照大御神の子孫であるか、その他の神々の子孫であるか、、あるいはこの地上で生まれた神々の子孫であるか、の違いに過ぎません。ここが日本神話の大きな特徴であるといわれています。

 

 


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