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パラオ・ペリリュー島の桜花  大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア「親愛なる日本の皆様に」

2012年04月16日 13時45分38秒 | 歴史

近野滋之・民族主義者の警鐘からの転載です。

パラオ共和国は、オセアニアのあたりの島国で、赤道付近にあります。大変素朴な人々で、非常な親日の国です。親日なのは、戦前に日本の統治下にあって、日本により教育や産業の開発が行われ、現地の住民のためを思う親身な統治が、彼らを親日国にしました。

此の純朴な親日国に、戦後の日本は少しでも、心を振り向けてきたかといえば、殆ど無視しているに近かったのではと思います。

戦前の日本の親身な働きかけに比べ、戦後は、日本人は自分達の過去の歴史はすべて悪かったとする自虐史観に陥り、そうした親日国の感情すらも、それらが日本統治の良さを証明することになるのは都合が悪いとして、否定し無視して来たと言えます。多くの東南アジア諸国の親日感情にも、ピント外れな謝罪外交のみで、ひたすら謝っており、彼らが独立のきっかけとして日本への感謝を表しても、ただただ迷惑をかけたという一点張りで謝って来ました。

自虐史観は、親日国の人々には、うんざりするような見苦しさに感じられるのではないでしょうか。過去の日本人を知る人々は、情けない思いで日本人を見ているでしょう。

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
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良識ある日本国民の皆様には、南洋にあるパラオ共和国はご存知だと考えます。
 
本日は、4月9日の記事「パラオ・ペリリュー島の桜花」(1)の続きになりますが、まだ(1)をお読みになられていない方はこちらをクリックして下さい。
 
 
 
 
 
ペリリュー島の戦いが終って島に戻った住民は、多くの日本兵の遺体を見て泣きました。
 
「アメリカ人は日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに征服民族の本性を見る」と。
 
住民はこぞって日本軍の遺体を葬り、そして日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。
 
敵将、ニミッツ提督は、その著「太平洋海戦史」の中でペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいます。
 
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られ なかった最高の戦闘損害比率(約40パーセント)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲 者を出して、この島を占領したことは今もって疑問である」
 
昭和57年に「ペリリュー神社」が再建されて、御祭神は「天照大神」と「戦死者一万余名の護国の英霊」です。
 
 
 
そして、敵将ニミッツの詩」が建立されて、以下の日英2文が記されています。
 
 
 
「諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」
米大平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ
 
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.」 
 
この詩は、戦終ればかつて敵であった日本軍の愛国心を、この島を訪れる旅人にその勇戦ぶりを伝えてくれと、日本兵戦死者に代って願っているのです。
 
大東亜戦争終結後、パラオなど南洋の島々は米国の統治領となりました。
 
大東亜戦争終結により日本が立ち去った後、パラオの公用語は英語に変わり、アメリカによる目に余る反日教育が行われていました。
 
歴史の授業では米国で作られた教科書が使われて、日本人による「パラオ人虐殺事件」などの掲載された、反日的歴史教科書もありました。
 
ところがパラオの年長者が、「そんな話しはない」と否定したために、この疑わしい史実はパラオには浸透しませんでした。
 
 
 
パラオとマーシャル諸島の切手
 
米国より独立後の1997年、パラオで初の「パラオ史」の国定教科書が作られました。
 
国定教科書では、全462ページのうち36ページもが日本統治時代にあてられて、章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルがつけられています。
 
日本がパラオを統治するようになった経緯だけでなくて、日本の行った学校教育・産業・経済活動などについても詳しく述べられています。
 
学校教育については、当時の日本式の教育方針がそのまま持ち込まれて、日本人は体罰で非常に厳格なしつけを行った。
 
としながらも、一年生ですらかけ算の九九を暗記することができたなど、教育水準の高さも語られています。
 
「当時の生徒は学年末、とりわけ権威のある年間賞をもらう儀式で認められたくて、とてもよく働き勉強したものだった。その儀式は特別で、村の人たち全員が出席し、子供がなしとげた誇りを分かち合った」と。
 
身分を問わず、努力次第で公平に認められる社会を構築した成果についても書かれて、日本教育を経験した人の、「学校の厳しいしつけが人生に役立った」というコメントも載っています。
 
産業に関する記述にも、「日本統治のもとで、パラオの島々の経済発展は産業の強化をもたらした」と、農業、漁業、鉱山業の発展について公平に評価がなされています。
 
また、「1年半働くと、7日間の一時帰休と永久就職の保証が与えられた。15歳以下の者は雇用されなかった」と、現代で言う福利厚生、労働基準が定められていた事も記されています。
 
日本統治時代について当然の評価をし、理由なき糾弾もなく、実に冷静な視点で事実のみが教えられているというのが、パラオの国定教科書です。
 
パラオ共和国は1981年に憲法を制定して、日系人のハルオ・レメイク氏が初代大統領に就任し、1993年にクニオ・ナカムラ氏が大統領に就任した翌年、1994年に米国より独立して国連に加盟しました。
 
パラオ共和国が独立した際には、「ペリリュー兵士の歌」が作られて、ペリリュー兵士とは日本兵のことです。
 
題して「ペ島の桜を讃える歌」、作詞者はオキヤマ・トヨミ氏・ショージ・シゲオ氏、パラオの人々です。
 
今でも日本を慕って止まない心から、国民の半数以上は姓名のいずれかに日本名を名乗る習慣もあります。
 
国のために尊い命を捧げて、命に代えてパラオのペリリュー島民を守り抜いた日本兵を桜にたとえ、その日本兵への感謝の心をつづった歌です。
 
1、激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた、強兵たちはみな散って ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる

2、小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ、山なす敵を迎え撃ち 弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない

3、将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ これが最期の伝えごと、父母よ祖国よ妻や子よ 別れの”桜"に意味深し

4、日本の”桜"は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散る、ペ島(じま)の”桜"は散り散りに 玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に

5、今 守備勇士(もののふ)の姿なく 残りし洞窟(じんち)の夢の跡、古いペ島(じま)の習慣で 我等勇士の霊魂(たま)守る

6、平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に、教えて散りし"桜花" 今では平和が甦る

7、どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは、椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる

8、戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく、必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを
 
 
南洋に住むパラオの人々は、桜を見た事はないかもしれませんが、桜を日本人の心だと感じていたのです。
 
 
靖国神社の桜花
 
パラオがアメリカから独立した際に定められた「国旗」は、一般国民から公募した70数点の中で、「青い太平洋に浮かぶ、黄色い月」が一番の人気で現在の国旗となりました。
 
 
 
パラオでは、この国旗について伝えられるエピソードがあります。
 
 
 
 
「太陽(日本)」があってこそ「月(パラオ)の輝きがある」という意味が込められて、月が中心から微妙にずれているのは、「日本に敬意を表し、同じでは日本に失礼だから」と、わざと中心からはずしたといわれています。
 
パラオの人々は、日本軍は私たちを命に代えて守ってくれたという感謝の気持ち、そして、強力な米軍と戦った日本人の勇敢さと純粋さに敬意を抱いています。
 
日本兵は勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのだと、今でも日本を敬っています。
 
1995年10月1日、パラオでは独立一周年を祝う式典が催され、世界の国家元首が祝電を贈っても、村山首相だけは、親日国家のパラオに祝電さえ贈りませんでした。
 
 
 
パラオ共和国は、中華民国(台湾)を国家として認めて、中華人民共和国を国家として認めていないからです。
 
この日、世界各国の国旗の中に「日の丸」の旗はなくて、クニオ・ナカムラ大統領は深い悲しみに包まれました。
 
2006年8月15日、靖国神社を参拝した小泉元総理に、トミー・レメンゲサウ大統領は、「すべての人のために祈るのは正しいこと」と、支持を表明しました。
 
また、「死後の魂は安らかな場に置かれるべきだ」と、所謂A級戦犯を合祀する靖国神社のあり方に理解を示しています。
 
靖国神社参拝への批判についても、「生きている人間の間で善意の交流を促進すべきで、過去に集中すべきではない」と指摘しました。
 
親愛なる日本の皆様に
 
日本は第二次世界大戦終戦から今日に至るまでの年月で敗戦から見事に立ち上がり、それどころか、産業・経済・文化など様々な分野において、世界のリーダーとして活躍されています。
 
そんな日本の皆様たちのバイタリティが、実は私たちの国パラオを造ったという事実をご存じでしょうか。
 
終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。
 
そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです。
 
パラオ共和国大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア
   
 
 
 
 
「日本パラオ国際交友協会」抜粋
 
 
 
「サクラサクラ」の電文で桜花のごとく散った日本兵と、日本国に感謝をしているのがパラオ共和国で、日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実です。
 
良識ある日本国民の皆様、桜花のごとく散った日本軍の美徳ある武士道精神についてご考慮下さい。
 
 
 
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