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日本の真の盟友は歴史が知っている。ASEANと中島慎三郎

2013年01月19日 23時18分59秒 | 歴史

 さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

「日 本の戦争目的は白人の植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、まだ植民地主義国が残っている。ソ連であり、そして中国もチベットやウィグ ルを併呑した植民地主義の国だ。これから我々が取り組まなければならない植民地一掃の大事業は中ソが相手となる。そんな時に行った海部演説は、日本の植民 地主義打倒の悲願を放棄したことになる。本来、海部さんは日本の歴史を踏まえアジア・アフリカの悲願を代表して、まだ残っている植民地主義国を攻撃すべき だった。たった一度の敗戦で大切な先輩たちの目的を忘れてしまったのか」(インドネシアの復員軍人省元長官のサンバス将軍)

これは素晴らしい記事です。これを読むと、日本が戦った戦争がどのような意義を持っていたか、それをアジア諸国がどう捉えたか、アジア地域が戦後の日本にどのように期待したかがわかります。

また戦後の日本がアジア諸国の期待を裏切っている部分が大きいこともわかります。そんな中でそれでも個人として中島慎三郎という人が、インドネシアを支え、日本を背負ってインドネシアを共産化から防いだことで、日本とインドネシアの絆が保たれたという、今の日本人の知らない歴史が書かれています。

近年の日本は、侵略国としての自虐史観から、中国韓国という被害者意識をむき出しにして日本へ謝罪と賠償を求める国々へのへつらいばかりで、親日的なアジアの国にはあまり関心を払わないところが多く、また言論マスコミ界は左翼的勢力なので、親日ということに却って拒否反応をしているようにさえ思えます。中国の首脳が来日すると、大々的に報道しますが、インドの首相が来日して、国会で、心温まる親日的な演説をしても、メディアは取り上げなかったほどです。

今回安倍首相が、アジア各国を回られてアジア民主主義セキュリティダイアモンド構想の第一歩を踏み出されたことは、実に素晴らしいことだと思います。サンバス将軍の言っていた、最後の植民地主義者中国の横暴から、アジア諸国と一緒になって、これを牽制するというその中心的担い手としての日本をうちだして来られました。数年前には、世界の多くの預言者が、日本は将来中国に飲み込まれるだろうという予言をしていました。

しかし、其の予言を跳ね返す力は本来日本にはあるのです。地球市民ばかりの国ではそんな力はありませんが、日本人が日本人という意識を取り戻せば、その力はあるのです。「日本を取り戻す」という安倍総理の言葉が、まさに日本に力を取り戻させることになるでしょう。

 

 

 

 

 

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安倍政権は発足直後にASEANの主要な国を訪問しましいた。
このASEANに最大の貢献をしてきた日本人がいます。中島慎三郎さんです。
ASEANには日本と信頼しあえる絆の歴史があるのです。
 
平成3年、海部首相がASEAN諸国を歴訪し、先の大戦について謝罪しました。
この時、「インドネシア・センター」代表の中島慎三郎さんはこう言いました。
「日本人は中国や韓国だけがアジアだと思っているが、日本のことが好きで好きで仕方がない親日アジア諸国が並んでいる」。
海部首相がアジアで謝罪外交して廻ったことに対してインドネシアの復員軍人省元長官のサンバス将軍は激怒しました。
「日 本の戦争目的は白人の植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、まだ植民地主義国が残っている。ソ連であり、そして中国もチベットやウィグ ルを併呑した植民地主義の国だ。これから我々が取り組まなければならない植民地一掃の大事業は中ソが相手となる。そんな時に行った海部演説は、日本の植民 地主義打倒の悲願を放棄したことになる。本来、海部さんは日本の歴史を踏まえアジア・アフリカの悲願を代表して、まだ残っている植民地主義国を攻撃すべき だった。たった一度の敗戦で大切な先輩たちの目的を忘れてしまったのか」
これに対して中島さんはこう言いました。
「戦争に負けたからと言って、その戦争で自ら掲げていた理想まで否定するのは無責任ではないか、とサンバス将軍は言っている。その無責任さが、現在の日本の東南アジア政策のお粗末さになって現れているのではないか」
 
中島慎三郎さんは大正8年生まれで、平成23年11月23日に逝去。92歳でした。
東京府立実科工業学校を卒業し、陸軍航空本部に勤務、昭和14年に陸軍野砲兵第一連隊に入隊し、昭和15年に南支那、仏印、中支那を転戦し、昭和16年にマレー・シンガポール作戦に従軍し、昭和18年から昭和20年まではインドネシアのスラバヤ、アンボンで防疫給水部の衛生兵として伝染病の消毒や薬の配布の活動をしていました。
 
戦時中、インドネシアでは日本軍を大歓迎しました。その一方で、オランダの植民地であったインドネシアのひどい実情に接した中島さんは胸を痛めました。
インドネシアの村々には高利貸しの華僑がいて米や石鹸などの商品の値段を普通の値段より高く貸し、インドネシアの人が物を売りに来ると安く買ったのです。インドネシア人はこの華僑の高利貸しで搾り上げられ、オランダ人にも搾取されたため、栄養状態も悪く、当時の平均寿命は35歳だったというのです。
この実情に心を痛めた中島さんは詳しく内情を知るために現地でインドネシア語を懸命に覚え、マスターしました。
 
中島さんは終戦後、1年の捕虜生活の後、帰国し、東京で花屋を始めました。ここにインドネシア時代の戦友たちが訪ねて来て、「戦争中に日本の陸軍士官学校や早稲田大学に留学していたインドネシアの青年たちが帰国できずに日本で独立運動をしている」と知らされました。
インドネシアは昭和20年8月17日 に独立宣言しましたが、再度植民地にしようとオランダが侵攻し、血みどろの独立戦争となったのです。在日インドネシアの青年たちは「インドネシアの発展に は日本の協力が必要だ」と考え、日本と特別な関係を築こうとしました。焦土の東京で誰もが食べることで精一杯でしたが、中島さんはインドネシア・センター を設立し、インドネシア情報を発行しました。ここには後にインドネシアのCIA長官になったヨガ・スガモ将軍はじめ、インドネシア政財界で活躍した青年達がたくさん集まりました。この人脈で、中島さんはアジアの命運を左右する仕事に携わることになります。
 
インドネシアはオランダ軍と3年半に亘る独立戦争を戦い抜いて、独立国家として承認されました。初代大統領はかつて日本軍に協力し、独立運動を進めた知日家のスカルノが就任しました。
このオランダとの独立戦争の主力は、日本軍がかつてインドネシア青年を独立のために育てた「ペタ」という義勇軍でした。しかも日本兵は終戦後、オランダに渡すべき武器や弾薬をペタ側に横流ししたばかりか、「アジア解放の理想を貫くべきだ」という日本兵2千人がインドネシア独立軍に身を投じてオランダ軍と戦いました。こうした日本の先人達の経緯からスカルノはじめ当時の指導者たちは日本に好意的であったのです。
 
しかし、国家としてインドネシアを支援したのはシナ共産党やソ連といった社会主義国でした。このためスカルノはソ連やシナ共産党との関係を重視し、インドネシア共産党を擁護する容共となっていきました。昭和31年には北京で毛沢東と会談し「新植民地主義と帝国主義をアジア・アフリカから一掃し、民族の独立を達成し、共通の目標に向かい歩み続けよう」と演説し、共産圏寄りを明確にしました。
 
この頃、スカルノの容共を憂慮するインドネシアの政治家や軍人たちが相次いで来日しました。秘密裏に自民党の石井光次郎や福田赳夫、久原房之助らと会談します。この時の通訳が中島さんでした。
反 スカルノ派の要人たちは「左へ傾斜するスカルノにシナとソ連が応援し、スカルノの野心は益々膨張し、国の予算が軍事費や大統領のためにしか使われず、国民 はモノ不足と食糧不足で栄養失調になり、赤痢やマラリアが流行し暴動も起きている」とスカルノに対する怒りが爆発していました。
 
さらにこの時、ソ連のフルシチョフ書記長が10億 ドルの武器援助をしました。中島さんらはスカルノ政権の共産化がどんどんアジアに広がる危険性を日本国内で訴えましたが、逆に命が狙われるようになりまし た。これは当時日本は内ゲバ全盛で、新左翼たちがお互い殺し合いをしていた時で、インドネシア共産党を支援する新左翼らが中島さんを殺そうとしたのです。
しかも右翼からも「反スカルノをやめろ」と脅迫されました。これは日本政府が親日的なスカルノということで共産化していくことをを軽くみており、さらには日本の一部政治家や政商は石油や天然ガス、ODAなどインドネシア利権の確保に躍起で、こうした人々からスカルノを危険視していた中島さん達は「日本政府の敵だ」とみなされて狙われたのです。
 
スカルノ大統領は連日、「革命」、「革命」、と叫ぶために欧米諸国は援助を控えると、その隙にシナ共産党が援助を増やして共産党勢力を拡大しました。ついにスカルノはシナ共産党と手を結び、容共内閣を樹立し、国連を脱退しました。
そして、インドネシア共産党がインドネシアで共産クーデターを起こそうとします。
このクーデターを食い止めようとインドネシアの反スカルノ派は中島さんらに相談をしに来日しました。この時、アリ・ムルポトが反スカルノの司令塔となると紹介されました。中島さんはこの時、何としてもインドネシアの共産化を防ごうと奮闘します。
そしてついにインドネシアでは「九・三〇事件」と言われる共産クーデターが起きました。各地で民衆が左右に分かれて激突し、半年間で100万人も死者を出しました。
この結果、スカルノ大統領は実権を失い、シナ主導のアジア共産化構想を防ぐことができたのです。
 
その後、共産化を防いだアリ・ムルポトは来日し、中島さんが福田赳夫邸に連れて行き、中島さんが通訳しました。
「インドネシア共産党を打倒しました。今度、反共のASEANを結成します。もうこれ以上、シナやソ連、アメリカにアジアの土地を荒らされるわけにはいかない。他の東南アジアのリーダーたちも一致した考えです」
これを聞いた福田は佐藤栄作首相に電話し、アリ・ムルポトにすぐ会ってほしいと伝えました。佐藤首相は理解し、ASEAN結成まで1年半の間、中島さんが日本政府とインドネシアの間を100回以上も往復してASEAN結成に尽力しました。
そして、スカルノからスハルト大統領体制になると、直ちに日本政府は大規模なODAを供与し、反共インドネシアを支援しました。
 
その後、福田赳夫政権になると、福田首相は東南アジア諸国を歴訪し、ASEANの全面支援を約束すると演説しました。この時、アメリカはASEANに否定的であるのにアメリカの意向に逆らって日本独自の判断でASEANを支持する演説をしたため、ASEAN諸国からはこのことが今も高く評価されています。この背景には中島さんの活躍があったことは言うまでもありません。
 
小泉首相が靖国神社参拝をめぐってシナ政府から猛烈に反発された時、ちょうどインドネシアのバンバン・ユドヨノ大統領が来日しました。
この時、中島さんはインドネシア経団連の幹部に「今こそ日本を助けてほしい。首相の靖国参拝を支持すると大統領に言わせてほしい」と頼みました。
「父とも仰ぐ中島さんからのお願いならば何とかします」と回答し、その2日後の6月3日、バンバン・ユドヨノ大統領は帝国ホテルで自民党の安倍晋三幹事長代理と会見し、「国のために戦った兵士のお参りをするのは当然のことだ」と述べて、首相の靖国参拝を支持しました。
 
我々日本には大東亜戦争の理想を信じ、その理想に殉じてアジア諸国との絆と信頼関係を築いてきた先人達がいました。そして、戦後も中島さんのような民間人が懸命に奮闘したおかげで東南アジア諸国との強い絆と信頼を生むことになりました。
これは先人達が残した我々への財産でもあります。
このことは我々日本人が日本人として肝に銘じなければならないことです。
先人の偉業に恥じないような日本であるためにも、安倍政権が真っ先にASEAN訪問と支援を打ち出したことは、歴史を知れば的確な行動であったと評価できるでしょう。
 
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転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」






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