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陛下の祈り(四方拝)

2013年01月02日 21時25分28秒 | 天皇、皇室

美し国(うましくに)からの転載です。

この記事では、四方拝の様子が詳しく書いてあります。下の絵は平安時代の頃の四方拝の様子を書いたものですが、解りやすいように明るい状態に書いてありますが、実際には夜明け前の暗い時間で、夜の闇が青くたなびいて絵の上方に覆っていて、それを表わしてあります。

記事には、四方拝の中で天皇が唱えられる呪文が書いてあり、七つの災厄に対して、それぞれに

過度我身(我が身を過し度せよ

と唱えられるのですが、災いは全て我が身を通して悟りへとみちびかれよ、というような意味らしく、国家国民の災いをすべて我が身を通して無害なものへ清めずには置かないという、強い意志がそのままこの儀式に結実したもののような気がします。

室町時代の皇室が最も貧窮したときでも、御所の壁も破れ、外から御所の明かりの漏れて見える中で、寒風の中、天皇は四方拝を行われました。長い歴史の中で、ずっと続けられてきたこの四方拝は、天皇みずからが行われるもので、代拝はできないことになっている行事です。

天皇陛下のご祭祀は一年を通してたくさんあり、中には非常にお体に負担のかかるものも多いと聞きます。この四方拝は、その中でも重要で、しかもかなりの負担を伴う最たるものなのでしょう。

この伝統を見るだけでも、天皇という存在が、西洋の君主とは全く異なるものだとわかります。

 

 

四方拝(宮内庁書陵部蔵)
 
 
本ブログにご来訪の皆様は、元旦の早朝より、畏くも今上陛下が出御あそばされ、四方拝を行われたことはご存知だと思います。

数ある宮中祭祀の中でも、最も重要な祭祀の一つで、畏くも天皇陛下が御自ら行われることになっています。そのため、御代拝(ごだいはい)が認められません。

御代拝が認められないということは、御不例(ごふれい)(畏くも天皇陛下の体調が優れないこと)などの場合、四方拝は中止となります。

ほかに、畏くも天皇陛下が元服(げんぷく)を迎える前は、御座だけ作られて四方拝は行われず、また日蝕(にっしょく)や、諒闇(りょうあん)(畏くも天皇陛下が喪に服している期間)は行われないことが慣例となっています。

四方拝の起源は明確には分かっていませんが、文献に見える初例は、『日本書紀』に記された、皇極天皇(こうぎょく・てんのう)が雨乞いのために四方拝を行ったのが最初とされています。千四百年前のことです。

元旦四方拝は、平安初期の嵯峨天皇の御代に始まったとみられ、中世、近世にも京都御所の清涼殿東庭で続けられてきた。
上記の画像はその当時を描いたものです。

左上の柱の陰に顔が隠れているのが天皇陛下で、 「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」という天皇陛下だけの束帯装束が見えます。

そのすぐ前にいるのが蔵人頭(くろうどのとう)で、「御草鞋(そうが い)」という履き物を差し出しており、その次には近衛中将(このえのちゅうじょう)が御剣を捧げ持っています。

寅の刻(現在の午前4時前後の2時間)といえば図とは違って実際にはまだ暗 いので、四方拝の座まで敷かれた「筵道(えんどう)」を殿上人(てんじょうびと)が紙燭(しそく)という灯りで照らしています。

庭には、漢竹(かわたけ図 の・左側)と呉竹(くれたけ)の間に唐人打毬(とうじんだきゅう)の図を描いた大宋(たいそう)屏風がめぐらされ、中に両面の短畳で三つの座が設けられて います。

図の上の方に見える青い畳は実際には北西側に置かれていることになりますが、まずここで北斗七星を拝します。

次に図の右側、実際には北東側の紫の 褥(にく=しとね)の座で天地四方を拝します。さらに図の下側、実際には南東側の青畳の座で山陵を拝するのです。このほか、張りめぐらされた屏風の中に は、北向きに燈台と机を置き、机にはお香と花が供されてあるのが見えます。

『公事根源(くじこんげん)』という書物には「昔は殿上の侍臣なども四方拝はしけるにや、近頃は内裏・仙洞・摂政・大臣等の外は、さることもなきなり」とありますので、はじめは臣下の人々もそれぞれ自宅で行っていたようです。

四方拝は、明治四十一年に制定された皇室祭祀令(こうしつ・さいしれい)で規定され、戦前までは国家行事として行われていました。

現在も明治時代の作法に準拠して行われています。
現在、四方拝で畏くも天皇陛下が拝される諸神は次の通りです。

神宮(じんぐう)(伊勢神宮)
天神地祇(てんじんちぎ)
神武天皇陵(じんむ・てんのうりょう)
先帝三代の陵(みささぎ)(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)
武蔵国一宮(むさしのくに・いちのみや)・氷川神社(ひかわ・じんじゃ)
山城国一宮(やましろのくに・いちのみや)・賀茂神社(かも・じんじゃ)
石清水八幡宮(いわしみず・はちまんぐう)
熱田神宮(あつた・じんぐう)
鹿島神宮(かしま・じんぐう)
香取神宮(かとり・じんぐう)

四方拝は、畏くも天皇陛下お一人がされる特別の祭祀で、その詳細は一般人はおよそ知る必要もないものですが、『内裏儀式(だいり・ぎしき)』や『江家次第(ごうけ・しだい』など、平安時代の儀式書には、四方拝の様子が記されています。

江家次第は、平安時代後期の有職故実(ゆうそくこ じつ)書。著者は大江匡房で全21巻(現存19巻)からなっています。有職故実とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・ 習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究することをいいます。

当時は、知識に通じた者を有識者(ゆうそくしゃ)と呼んだ名残から、現在も深 い学識・見識を持つ人を「有識者(ゆうしきしゃ)」と呼ぶのです。

 
畏くも天皇陛下は大晦日の夜、御湯(みゆ)で玉体(ぎょくたい)(畏くも天皇 陛下の身体)を清められ、黄櫨染御袍で出御され、御座に着座された天皇陛下は、御笏(みしゃく)(「笏」とは、よく神主が手に持つ白木の板)をおとりにな り、北に向かい、新しい年の属星の名字を七回唱えられます。
 
①貪狼星(どんろうせい)(子年)
②巨門星(こもんせい)(丑年、亥年)
③禄存星(ろくそんせい)(寅年、戌年)
④文曲星(ぶんきょく)(卯年、酉年)
⑤廉貞星(れんていせい)(辰年、申年)
⑥武曲星(ぶきょくせい)(巳年、未年)
⑦破軍星(はぐんせい)(午年)
 
再拝(さいはい)(深く拝む動作を二回繰り返すこと)に続けて、呪文が唱えられます。『江家次第』によると、その呪文は次のようなものです。
 
賊冦之中過度我身(賊冦の中、我が身を過し度せよ
毒魔之中過度我身(毒魔の中、我が身を過し度せよ
毒氣之中過度我身(毒氣の中、我が身を過し度せよ
毀厄之中過度我身(毀厄の中、我が身を過し度せよ
五急六害之中過度我身(五急六害の中、我が身を過し度せよ
五兵六舌之中過度我身(五兵六舌の中、我が身を過し度せよ
厭魅之中過度我身(厭魅の中、我が身を過し度せよ
萬病除癒、所欲随心、急急如律令。
 
ここで注意したいのは、原文中の「過度」という言葉です。
学術研究においては、一般に道教の常套句的文言として「守りたまえ」の意味として解釈されてきました。中国語の古代辞書『説文解字』や『経籍餐詁』によると、
「過」とは
・すぎる、わたる、よぎる、あまねく
「度」には
・ここでは、悟らせるを意味します。
 
すなわち、罪障は我が身を通して悟りへ至らしめん、「罪障から私を守ってください」ということではないのです。

この世に起こる罪障をすべて引受けられることを意味します。

陛下の民(臣民)を陛下が身を挺して護ってくださっておられるのです。

臣民は、難事が起こると、安易に限りを尽くして「魔除け」を望みます。しかし、陛下は引受け遊ばされておられるのです。

臣民は安易なほうへ流されます。しかし、陛下は困難をすべて受入れられるのです。
 
罪あらば我を咎めよ天津神民は我が身の生みし子なれば
 
大逆を侵そうとして捕らえられた、社会主義者たちのことを詠まれた、明治天皇の御製です。

御身を害しようとするものでさえ、自分の子であると庇う心をお持ちなのが、天皇陛下という存在なのです。

先帝陛下もマッカーサーに対して「我が身はどうなってもかまわぬ。国民を救ってほしい。」と覚悟を示しあそばされました。

臣民が始めた戦争でしたが、最後は臣民を護るため、ご聖断あそばされ、食糧難にあえぐ臣民を救われた。
 

我国には現在、内閣総理大臣はじめ大臣が存在します。かっては国政を預けられた氏族を大臣(おおおみ)と呼びました。

政(まつりごと)は、祭事(まつりごと)と同じ読み方をします。語源は同じ意味になります。すなわち、政と祭事は一体なのです。政は祭事なのですから、政治は祭事、神事であり、ご神示に則って執り行われるのが、本来の姿であり、『祭政一致は』は日本の伝統でした。

しかしながら、現在の政(まつりごと)は神意に則ったものとは程遠い状況です。
また、政(まつりごと)の混迷を現した世相も乱れています。
 
しかし、陛下は一億三千万人の「罪障」を引受けておられるのです。
まつろわぬ民も同じ「赤子」として・・・
 
 

転載元 転載元: 美し国(うましくに)

 


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