アメリカ放浪;アラモに日本語の石碑があった(2007.8.6)

2007-08-06 17:46:22 | Weblog

テキサス州サン・アントニオにアラモの砦を訪ねたことは、3、4日前に書きました。<ここです>

アラモ砦の敷地(庭)で、日本語の石碑(1914年ー大正3年9月建立)がありました。
こんなところに明治時代の日本人の足跡があるのかと、まず驚いたのです。日本語ですから、漢詩であっても多少はわかります。

むろん、拓本をとる準備はありませんから、写真に撮ったのです。
なかなかうまく読めるように撮れないので、苦労していると、何人ものアメリカ人が、立ち止まっていきます。2,3人が、話しかけてきました。<何をしているんだ?><これはなんだ?>ですね。
旅行中に、あまり口を開かなかったので、話しかけられるのは嬉しいもので、笑顔を作って応対していました。

 *裏面の上の方です。

そして、志賀重昂(1863生-1927年63歳で没)が建てたことに、また驚いたのです。
なぜ、志賀重昂がこんなテキサスに?という疑問です。

 *別冊太陽<日本山岳人物誌>から。

山好き(だった)私には、日本のアルピニズムの先導者(あるいは煽動者)、バイブル的な“日本風景論”の著者として、志賀重昂の名は知っていました。

<山に登ることは素晴らしいよ、若者よ、でかけよう>みたいなことを書いて、山旅の技術の指導書のように書いているが、志賀重昂は、ほんとうは山なんか登った経験はない、のではないか、外国の本(F.Galton著;Art of Travel/旅行術)(注1)の盗用だったのではないか・・・・そういう議論も知っていたのです。

*登山の黎明;1979年。

明治時代は、大・学者や中央役人らの間では、そのようなことは平気で行われたのでしょう。
そのことは、つきつめ、盗用の原本を見つけた黒岩健さんの<登山の黎明;1979年ぺりかん社>で読んでいました。

<アラモは日本の長篠、長篠は日本のアラモ>
<祖国のためにわが身を犠牲にした心意気に東西の別はない>
碑文は、アラモの砦の状況と、長篠の戦いの長篠城の状況がよく似ているとして、アラモを賛えた漢詩なのです。

インターネットによると、なんと、志賀重昂が日本に建てた「アラモの碑」が、岡崎城天守閣のそばに、あるそうです。
岡崎市は、志賀重昂の出身地で、岡崎東公園には、銅像やインド様式のストゥーパの形のお墓もあるのです。

*日本にあるアラモの碑。一度行って見よう。

ただの地理学者でなく、かなり力・権力のあった方なのでしょう。国粋主義者と書いているものも目立ちます。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』には、日露戦争・旅順を攻める第三軍、乃木の司令部にいたこともあると書かれているそうです。

時は、まさに海外進出機運の高まる明治の御世のことです。

   【おまけ】

*碑文には、長篠の戦の鳥居強衛門(すねえもん)の名が出てきます。インターネットで調べてみました。
<<長篠の戦いで、武田方に包囲された長篠城を抜け出し織田・徳川連合軍の援軍を求めに行った鳥居強衛門が、それに成功し帰城途中に、武田方に捕獲され、篭城側の士気を低下させるために、「援軍は来ないと言え!さすればそなたの命も助け、篭城側にも無益な血は流させないぞ!」 というようなことを言われたが、逆に「援軍はまもなく来る!安心されよ!」と叫んで殺されてしまった。>>と、ありました。

*確かアラモ側にも、アラモ砦から、援軍を頼む、とのトラビス大佐の手紙を持って脱出するシーンがあります。映画では、主題歌も歌った歌手・フランキー・アバロンがやっていました。映画では、一番若いから、生き延びよ、と手紙をたくされたのです。映画のほんとの最後のシーンは、戻ってきたフランキー・アバロンが、全滅・落城したアラモ砦を見て、呆然と立ち尽くすシーンでした。

*リメンバー・ザ・アラモ、の後には、リメンバー・ザ・パールハーバーです。
まもなく仇敵が、真珠湾攻撃の日本に変わることは、さすがの志賀重昂も気がつかなかったでしょう。
その時代、アラモにある碑は、どのような状況になったのでしょう。また、日本・岡崎のアラモの碑はどうだったのでしょう。
インターネットでも、そのことはわかりません。

注1;志賀重昂の日本風景論は、F.Galton著;Art of Travel/旅行術)からの盗用が見られるだけでなく、その原本直接からでなく、原本を翻訳し自著として出版した、冒険旅行術(村上濁波著、大学館 出版)からの盗用だと、指摘されています。

注2;志賀重昂の盗用・窃用をあげつらっているのでは、ありません。堂々と文化史に残った人です。ただ、庶民との格差の大きかった明治の時代には、よくあった話だと思います。今日の私のブログにも、無断で引用しているものがあります。