アメリカ放浪、ナッシュビルでディランの帽子にふふふ(2007.9.18)

2007-09-19 09:37:41 | Weblog

ナッシュビルのテネシー州立ミュージアムで、テネシーの自然・歴史の展示を見ていたら、ガラスの箱の中に帽子がひとつ展示されていた。

“えっ、ふふふ・・・”と口元がゆるんだ。懐かしさがこみ上げてきた。
70年代にボブ・ディランが、ローリング・サンダー・レビューと名づけた全米コンサート・ツアーで、かぶっていた花かざりについた帽子なのです。
日本の私らには、雑誌のグラビア写真でしかしらないのですが、それでもしっかり覚えているディランの帽子なのです。

ガイドブックの指示どおりに見てまわる旅には飽きていて、むろん探していたわけでなく、ふっと出会ったのです。親しい古い友人に、思いがけなくであったような気持ちだったのです。

ひとり旅です。そのおり、このことを誰にも伝えることはできません。
たかだか帽子ひとつの話で、このはしゃぎようが、おかしい。
まあ、普通には、“馬鹿みたい!”でしょうね。

60年代、私は、アメリカの公民権運動、ベトナム反戦運動をはるか日本から見ていました。そこでは、同世代の若者が歌っていました。私も、大阪でギターを買って歌おうと思っていました。

この間のブログ<ここです>に書きましたが、黒人解放運動(公民権運動)の一番大きな集会は、ワシントン大行進です。ジョーン・バエズ、ボブ・ディランが歌いました。1963年です。

それから、ディランは、急速に社会運動の現場で歌うことをやめていきます。
そのことについては、いろいろ言われてきました。
公民権運動(黒人解放運動)の中では激しい衝突がありました。多くの犠牲者を生んでいます。特に黒人解放運動の“白人の応援者”が標的にされてきました。アメリカは、今でも銃による秩序維持社会です。
今度のアメリカ南部の旅で、50-60年代の激しい黒人運動の現場(今や史跡)を訪ねていて、その恐怖を深く感じることができました。
1964年、黒人解放を示したケネディ大統領もまた射殺されます。指導したマルチン・ルーサー・キングもまた射殺されます。

わずか22歳で、アメリカの分岐点となる集会で20万人の前で歌った、いうならば頂点にたったボブ・ディランが運動から離れていくことも必然でしょう。
今となっては、十分に理解できます。
しかしジョーン・バエズは、志を持続させていきます。

ディランは、音楽的には、フォークからロックのリズムに移します。1960年代の後半には、世間の前から姿を消します。そして再登場は、ナッシュビルのサイドメン(伴奏者)を使ったカントリーミュージックのスタイルだったのです。カントリー・ロックといわれ、ナッシュビル・サウンドといわれました。

日本で、レコードがアメリカとほぼ同時期に発売されるようになったのは、70年初頭からです。私が、ディランのLPを発売と同時に買うようになったのも、ここからです。LPのタイトルは、“ナッシュビル・スカイライン”です。
今でも、ナッシュビル・サウンド、カントリー・ロックが一番好きです。

ナッシュビルには、カントリー音楽の殿堂(Country fall of fame)があります。カントリー音楽の歴史ミュージアムです。半日入り浸っていました。
むろん、ディランの展示があるわけではありません。
売店でお土産探しに夢中になっていたら、壁に“ディランの使っていたハーモニカ”と“歌詞をメモしたノートの切れ端”がはってありました。
<おっととと・・・・これは・・・・>という感じで嬉しくなりました。
ディランが始めた(ひろめた)カントリー・ロックのナッシュビルだったなあ。

 *ディランのハーモニカとノートのメモ。

そうして、街をふらふらしていて、立ち寄ったテネシー州立ミュージアムで、ボブ・ディランの帽子に出会ったのです。

  【おまけ】

*ずっと後になって、公式発売された、“ローリング・サンダー・レビュー”。CDにDVDもついていました。

*この帽子をかぶってボブ・ディランが登場したローリング・サンダー・レビューは、1975年頃です。その頃、日本では雑誌の紹介記事だけの情報でした。公式のレコードは発売されませんが、後に、海賊盤(ブートレッグ)がやたら売られていました。たくさん買っていました。
ずっと後になって一度、テレビでコンサートが放映されました。タイトルは“激しい雨”。映画館上映の記録(?)映画もありました。タイトルは、“レオナルドとクララ”。

*このコンサートツアーは、10年ぶりの、ジョーン・バエズと一緒のコンサート・ツアーでもあって、私を喜ばせました。ディランは、顔を白く塗っています。1920年代のアメリカに、白人が顔を“黒く塗って”、黒人の道化をみせる、“ミンストレル・ショー”という旅まわりショーが大人気だったようです。ディランは、顔を白く塗ったのです。黒人解放運動の影を引きずっていたということかも知れません。