「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「僕がいない場所」 (2)

2007年10月26日 22時35分32秒 | 映画
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/50878797.html からの続き)

 廃船の側に建つ 裕福な家には、

美しくて利発な姉に 劣等感を持つ、味噌っ歯の 少女がいました。

 少女は、自分は生きててもしょうがない,将来なるのは “売れ残り” だと言って、

寂しさを 酒で紛らわせています。

 共に 愛されていない孤独を 抱いているクンデルは、

少女と次第に 心を通わせていきます。

 クンデル役の少年は 監督が国中から探し出した、演技経験のない 素人ですが、

やけに大人びた 表情を見せ、観る者の心を 引きつけます。

 少女役の子も、監督が養護施設で 見つけたのだそうです。

 大人のような子供に対して、周囲にいるのは 子供のような大人でした。

 男たちの間で 乱れた生活をしている母親を、クンデルは嫌いながらも、

もう一度 母に会いに行きます。

 しかし母親は 男のことばかり考え、

クンデルが 母の口から聞いた言葉は、 「もう来ないで」。

 自力で生き抜いている クンデルですが、どんなに 強そうに見えても、

子供にとって 一番必要なのは 親の愛情です。

 親の愛がなくて 生きていける子供が どこにいるでしょう? 

 拙著 「境界に生きた心子」にも 書いた言葉ですが、

強がっている子供はいても、強い子供はいないのです。

 クンデルは 生きる力を失って、くじけかけてしまいます。

 クンデルを労る少女に、彼は 「消えたい」 と言う

悲痛な心の叫びを 訴えるのです。

 少女だけは、クンデルに 愛情を与えました。

 最後に クンデルが得たものは、他の誰でもない、

まさに実存的な 自分自身の居場所だったのでしょう。

 これは 近代化を経た ポーランドだけの問題ではなく、

普遍的な 人間のテーマです。