蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

残念ながら、予想通りだった山梨県知事選結果!

2007-01-23 02:27:16 | 時事所感
1月22日(月)夜来の雪止む。晴れ。

  山梨県知事選は、投票が終了するや否や午後8時、NHKは横内氏の当確を告げた。

  今朝の新聞を見たら、横内氏235,337票、現職山本氏187905票、共産党石原氏24,197票、我が1票を投じた市民団体公募候補金子氏は、最下位の13,311票という結果であった。

  二期目は絶対有利とか言う知事選、にもかかわらず現職の山本氏が敗退するのは明らかだ。
黙っていても国が金を出すかもしれない、中部横断道路を態々借金積み上げ覚悟で県費負担を申し出てやっと早期着工取り付けたのを、唯一の手柄顔に、71にもなって再選狙おうなんて、端から無理というものではなかろうか。そして、これ以外にこの4年間で何をやったというのか。
  明野のゴミ処分場問題は、見直すような気をもたせておいて、結局はなにもしないどころか、そのまんまなんと氏にならってか、そのまんま規定路線にゴーサインを出しただけの無責任さだ。

  それに比べれば、同じ穴の狢でも、横内氏の方が年齢が若いだけでも、よほどましということではなかったか。それに輪をかけてお利巧なことに、こちらは明野ゴミ処分場問題には、知らぬ顔の半兵衛だ。

  それにしても、共産党の石原氏。天下の共産党候補でありながら、横内氏の10分の1だなんて、何故もこうも人気がないんだろうか。

  傍から見れば、政党助成金も唯一受けとらずにやせ我慢して、真面目一筋、あれこれの問題をネチネチ、コツコツ地道に調べて告発しているというのに…。
  日刊紙赤旗、赤旗日曜版まで出して、足が地に付かず口先だけかと思われる民主党なんかに比べれば、よほどしっかりしてそうなものなのに…。
  国民の大多数は、見向きもしない。

  どうも、その生真面目さが嫌われるのだろうか。がり勉一方の優等生が嫌われるように。
  だいたい「共産党」という党名が、嫌われるのではないだろうか。
  何だか、共産党が天下を取れば、なけなしの僅かな財産まで、みんな国に集められて、お上の情けで必要な最低限だけが、再配分されるような、そんなイメージが付いて回って、多くの国民の頭からはなれないのではないだろうか。
  一体、共産党は、毎年、党大会で喧々諤々、党の基本方針や、活動方針を議論されているらしいが、もうここ何十年もの不人気ぶりを、真から胸に手をあてて考えてみたことがあるのだろうか。
  共産党の支持率が上がらないのは、馬鹿なメディアとそれに惑わされている、民度の低い国民はどうしようもないと、思っていらっしゃるのだろうか。

  私の知り合いなんかは、なれない手で汗水たらして作った貴重なお米までくれて、代わりに党へのカンパを強請していく。末端にはこんな熱心な支持者がいるというのに、その輪がいつまでたっても、少しも広がらないというのは、ほんとに不思議でしょうがない。

  反対に、お笑いタレント上がりといっては失礼ながら、16、7の女の子と問題起こして逮捕されたような破廉恥カンカン、”そのまんまなんと”氏が、ちょっとばかり謹慎して、ぽいと出てみれば、どこかの県では、漁夫の利かなにかしらねども、あれよあれよいうまに当選してしまうことの摩訶不思議さ。

  そんな中で、同じぽっと出ながら、市民団体の公募に応じて、厳しい審査の結果、推薦をうけて立候補した、金子候補が共産党石原候補の半分を獲得したのは、よく善戦したというべきか。

  私は、負け惜しみではなく、この1票は無駄ではなかったと思っている。

  それにしても、宮崎で”そのまんま東”氏が、当選するぐらいなら、ここ山梨県では、当県出身の英雄、サッカーの中田英寿氏が立候補していたら、きっと当選確実だっただろうと思うのは、山家の隠居の呆け夢だろうか。

と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。

今年のお正月も終わった!-山家の正月行事(その二、山神様のお祭)-

2007-01-23 00:32:50 | 田舎暮らし賛歌
■ 14日(日) 山神様のお祭りである。

 この日も快晴。暖かい。お山の神様再開発起人さんからのお誘いの回章にはこうあった。

 『…5、6年前まで、毎年1月17日に御山の神様のお祭りをしていました。山は、皆様ご承知のように人間がいきるために一番大事な水と空気を作り出し、春には山菜、秋にはキノコ、冬には暖房用の薪、木炭(昔で言えばもしきとり)、そんなお山の恵に感謝し1年の無事をお祈りしたいと思います。
 ご賛同していただき、参加をお待ちしています。

 お山の神様:寛永8年(1631年)~天保12年(1841年)各山の中に祭られた。この付近一帯を神行寺と昔は呼ばれていた。…』と。

 即ち、この辺でも近年、皆が忙しくなったのを機になるべく不要な集まりは止そうということになり、一旦はやめてみたものの、やはりそれでは何となく落ち着かなく、寂しい気分もありしてか、昨年からまた有志により復活させようということになったらしい。

 私のアトリエの薪ストーブの薪は、ほとんど周囲の雑木林から頂戴している。その恩恵に浴している以上、参加しないわけにはいかない。そして去年初めて参加した時の楽しい気分がわすれられない。

 定められた時間に、お山の神様に通ずる林の入り口まで軽トラで行った。そこからの小道はまだ雪が残っていた。間もなく木の間隠れに話し声が聞こえてきた。

 数人の人の輪の中心で焚き火が赤々と燃えていた。10人余りのご近所が集まったところで、発起人さんの司会で、注連縄の張られた岩代に向かい二礼二拍手した。

 それから持ち寄りの漬物や何やかやでお神酒をいただいた。焚き火を囲んでのお神酒に、たちまちいい気分になる。土地の人たちの昔話が次々に出る。松茸が採れた話。そのみつけかた等々。

 今年は、三歳ぐらいの元気の良いあかいほっぺの坊やも一緒だ。
 こんな素朴な土俗的な集まり、いつまで続くだろうか。きっとこの坊やが、大きくなったら、やっぱり幼い日の爺婆がやっていたことを思い出して、お祭りしてくれるのではないかと、その場の大人たちは儚い夢を託すのである。

 12時過ぎ、焚き火も下火になった頃合をみて解散となった。

  私は、林の出口に切り倒されていた赤松の小ぶりな丸太を何本か、軽トラに積み込んで帰ってきた。
  これで、また一週間はもちそうだ。
  お山の神様の恵みに、あらためて心の中で感謝した。