蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

山梨県知事選、私はこの人「○○ ○氏」に決めた!

2007-01-13 14:45:58 | 時事所感
1月12日(金)曇り後晴れ。-1~6度位か。

  夜、NHKでは9時からのニュースウオッチが始まる8時45分から山梨県向けの放送がある。この中で昨日、今日と二日続けて知事選を追うとして、二人つつ4人の候補の選挙活動振りが放映された。

  昨日は、本命候補の横内氏と現職の山本知事であった。この二人を比べると、主張されている政策の中身は、いずれも保守系とあって対して変わり映えしない。

  ところで現職再選候補の山本氏は最早71歳。前回選挙では、当地の明野処分場問題の白紙見直しを匂わせるような素振を見せておきながら、結局何もせず、県官僚の乳母車(?)に乗せられるがままに、既定方針にゴーサインを出した無責任さだ。こんな方にはさっさと引退していただいて、お孫さんの子守か庭木の手入れでもしていただくのが、世のため人のためというものではなかろうか。
  本気で90余万県民の生活の行く末を考えたら、71歳のご老体で一体何がおできなるというのだろうか。

  まあしかし、役所の仕事というのは、偉くなればなるほど手取り足取りお付が蠅のようにたかって面倒みることになっているので、足が動いてどちらが好いか出されたものを、こちらがいいと口がきければ、お役が務まるというのなら、何おかいわんやだ。

  さてと、お次に控えしは、前回、現知事山本氏に9000票余とかの僅差で惜敗した横内氏である。こちらは元建設官僚出身とかで、国のお役人や議員仲間に知己が多く私に任せれば何でもできないことは無いといわんばかりの鼻息の荒さ。

  しかし、中身のお話に耳を傾けてみると、何のことはない県の景気回復のために公共事業をいっぱい振りまこうという趣に聞こえるばかりである。1兆円もの借金があるといいながら、ではどこから景気をよくするほどの金が湧いて出てくるのかと反対に伺ってみたくなる。

  さらに、今日は、三番手に共産党の石原候補のご登場である。この方は北杜市の診療所の勤務医を経て県会議員をお勤めになったかたとのこと。
  不要な公共事業は止めて、生活道路などの身近な公共事業に絞って浮いた財政で医療行政を手厚くしたというようなことを主張なさっている。そのとおりできれば悪くはないだろう。

  そして最後のお一人、一寸変わった方がご登場なさった。
  山梨県では珍しい市民団体の公募に応じてその選考にかなって、その推薦を受けての立候補だという。
  四人の中では一番若々しいエネルギーが感じられた。
  何より私の目を捉えたのは、この明野の処分場の現地へ足を運びその場に立って、「こんないい場所に処分場をつくるなんてとんでもな。止めます」と明言されたことである。
  
  これで私は決めた。この人にしようと。食卓の隣の家人も言った。「私もこの人に決めた」と。

  そうなのだ、政治家には、先ず健全な常識人であってほしい。誰が見ても標高1000Mの日本一かと思える風光明媚な聖域とも言うべきところに、よりによって産業廃棄物の最終処分場をつくろうなんてことを平気で見過ごすような、非常識無神経な輩に、何で人の生活の未来を云々し左右する資格があるというのだろうか。
 
  金子候補がマイクを握って、こう宣言する周りで、私宅へよく処分場反対ビラをお持ちになる、処分場反対協議会の役員の方の嬉しそうな顔が垣間見えた。

  はたして、この地盤、人脈がも人一倍ものを言うと聞くこの地で、この新種候補がどれだけの票がとれるだろうか。それは未知数である。
  だがしかし、このところ打ち続く知事の逮捕事件、石原都知事の傲慢振り、従来の選ばれ方で出てきた方々に相当の欠陥品が入り混じっていることはたしかのようである。
  さすれば、私たちの風の吹かせようでは、どんなどんでんがえしが見られることとなるかもしれないのである。

と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか。

―追記―
 googleで検索したら山梨日日新聞のwww.sannichi.co.jp/chijisenn/index.php山梨県知事選候補者金子望氏として、下記の記事が目に入りましたのでご参考までに、コピーさせていただきました。

『 身長一八七センチ、体重九十五キロ。立候補表明して以来、大きな体で街頭に立ち、張りのある声で通行人とあいさつを交わしてきた。
 昨年十月、親しい仲間と酒を酌み交わしていて、全国の知事の不正や少年事件などの社会問題が話題に上った。「今の山梨だっておかしい。活力がなくなって停滞している」。思いのままに発した言葉に仲間が「自分で知事をやってみたらどうだ」と背中を押した。
 旧満州安東市(現中国遼寧省)生まれ。戦後間もなく都内に引き揚げ、三、四歳のころに母親の出身地である甲府市へ転居。甲府一高から慶応大法学部に進む。
 「大きな仕事を成し遂げたい」と、一九六八年に国内最大手の広告代理店・電通に入社。民放担当、イベント企画、営業など幅広い業務に携わった。一番の思い出はコンペに勝って航空会社の機体デザインの仕事を担当したことで「今でも機体を見ると当時を思い出し、熱くなる」と語る。
 退職前の約十年間は、甲府市湯村の自宅から都内の本社まで電車で通った。駅までは妻・紫さんの送迎で始発の普通列車と通勤快速を乗り継ぎ、片道約二時間半を往復した。「都心と山梨を行き来する中で、今まで見えなかった山梨の可能性が見えてきた」という。
 個性の強い集団で仕事をする中で「信念があれば人を説得し、理解してもらうことができる」と実感。「何でもチャレンジすることが大事。自分から飛び込まなければ現状は何も変わらない」という前向き志向が立候補につながった。
 甲府市湯村三ノ九ノ一。紫夫人と二人暮らし。61歳。』