合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

166≫ 道を継ぐ者

2011-11-15 14:51:43 | インポート

 合気道は未完の武道である、ということはわたしはこれまでも何度か述べています。ここで未完というのは、半出来だとか未熟だとかいうことではなく、さらなる発展の可能性を秘めているという意味です。それは開祖や二代道主の残されたお言葉からも明白です。

 話は大きくとびますが、キリスト教といわれているものはパレスチナ北部ガリラヤ地方のナザレに育った青年イエスの言葉と行為を信ずる宗教です。しかしイエス自身が自分の教えをキリスト教と呼んだわけではありません。生前彼はあくまでもユダヤ教徒であり、彼の教団はユダヤ教の一派あるいは異端でしかありません。そこから今日につながる教団の基礎を築いたのは、生前のイエスとは出会うことのなかった、というよりもイエスを慕う人たちに対する迫害者であったパウロです。そのパウロがいなければおそらく今日のような世界宗教にはなっていなかったでしょう。ですからキリスト教はある意味でパウロ教といっても間違いではないといえます。

 パウロは生前のイエスには会ったことがなかったので、当然直接教えを受けたことはありません。彼は魂のレベルでイエスと出会い言葉を交わしたのです。そして、そこで感得した思念が他のどの弟子の考えよりもイエスの思いに合致し、世界に広がる力となったのです。いわゆる直弟子ではないパウロが結果としてキリスト教を深化発展させたのです。このことはわたしたちに格別の思いを抱かせます。

 なぜこんな、関係なさそうな話から始まったかといいますと(わたしはクリスチャンではありませんが)、人間のあらゆる営みは後継者たる者の才能により、その意義が高まりも薄れもするということを例示したかったためです。

 合気道界では戦前から戦後にわたり多くの優れた指導者を輩出しました。そしてそのうちの幾人かは新たに一派を建て独自の道を切り開きましたが、その方々の評価をわたしのような部外者がここで云々するのは適切ではありません。やはり合気会内部の流れに限るのがよいでしょう。

 さてそれでは、わが合気道界にパウロはいるのか、ということです。と課題を設定すると、だれか個人を取り上げて批評するのかと思われるかもしれませんが、合気会においては組織化が進み、いまや一人の人間が新たな潮流を作れる環境ではなくなっています。そのような方がもしいるとすれば彼は合気会の中にとどまることは様々な理由から不可能でしょう(それはここでは論じません)。ですから個々の合気道家の評価ではなく、現世代の者が全体としてどうするか、何ができるかということを考える必要があると思います。

 要するに、合気道の存在意義を深化させるベクトルが現在の合気道界で働いているかどうかということです。開祖の直弟子世代の方々は、偉大な開祖の謦咳に接しながらもそれぞれ独自の合気道を開発されました。10人いれば10通り、100人いれば100通りの合気道が展開されたのです。しかし、そこからさらに世代が下った現在のわたしたちは、むしろ無批判に師の教えを受け入れることをもって満足しているように見えるのです。問題意識のないところには進化も深化もありません。

 師の教えを守るのはもちろん大切なことです。しかし、それでとどまってはいけない。形式を大事にする古流武術でさえそんなことを勧めてはいません。武道は人に宿るものだからです。人の数だけの武道が、合気道があるのが当たりまえなのです。正しい師はいつか弟子が自分を乗り越えていくことをこそ喜びとするのではないでしょうか。もちろん、そのためには弟子には師の心を読み取るだけの能力が必要です。

 さてそれでは具体的にどうすれば深化発展につながるのかということを提案しなければいけません。合気道の行事というと演武会がまっ先にあげられます。それはそれで大事なことです。ただそれは修行の過程ないしは結果の表れです。その大前提に修行の手がかり足がかりがなければなりません。日々の師の教えがそうですが、行事としては講習会がそれにあたります。

 しかし現今の講習会の多くは万人向きの基礎的技法の確認にとどまっています。修行の段階によってはそれももちろん大切なことですが、それだけでは深化、進化につながりません。こんなことを言ったらお目玉をくらうのは必定ですが、しかるべき立場の方がわざわざ遠路お運びいただいてまで教授する意味があるのか疑問に思うような場面もあるのです。ですからそれはそれとして、さらに基本の上に成り立つ個性の色濃い技法とその意味を教えていただくことが結果として自分の技量と思想を顧みるのに役立つと思うのです。そのような機会を通じて識見を広めることは合気道が武道であるためには絶対に必要です。

 ただ、今の合気会では、これはなかなか難しいことであろうと思われます。組織論としては中央集権を進め、技法を統一しようとする大きな流れがある一方、そこで薄れる武術性や思想性を個別に補完しようとする動きが、それぞれ没交渉のまま並存しているのが現状です。それを打開するのは結局ざっくばらんな事理の交流と意思疎通しかないのです。自分の合気道を確立した、あるいは確立しつつある指導的立場にある方々は、自信をもってそれを披歴し紹介し批判を仰ぐという行動に打って出てほしいものです。そして、そのような合気道の更なる発展を企図した意欲ある試みには権威の筋も是非寛容であってほしいと願うものです。

 合気道界にパウロはいるのか。います。それは特定の誰かではありません。開祖の思いを深く理解し、違いは違いとして認め、正しいと思うことは勇気をもって伝え、しっかりした修練を積んで合気道の未来を信ずる人すべてです。あなたもです。

 


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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いつも拝読しております。 (吉原大門)
2011-11-17 01:18:40
いつも拝読しております。
現在、TPPについて国家レベルの交渉が行われていますが、このような国家のメリット、デメリットに匹敵するほど、現在の合気道界は混迷を極めていると思っております。

合気会本部の意向に何ら逆らうつもりはございませんが、技法、理論といった部分を本部の意向に統一するということは、武道、武術としての合気道の価値観を貶める可能性があるのでは、と危惧しております。

極端に言えば、本部師範は、ロボットのように同じ動作、限られた動作を基に指導すればよいのであって、自身が持つべき技術に対するプライドや価値観、創造性を持つ必要がないのではないでしょうか。

日本が世界に誇るものとして、技術というものが第一に挙げられると思います。
こと、武術に関しては、中国と比肩しても遜色なしと言えるほど日本の武術は優れたものだと思っております。

伝統文化というよりも、その存在意義を確かなものとするためには、多少の解釈の違いはあれど、分派することがあるにせよ、開祖と二代道主が築き上げた価値観というものは、守り続けたいと願います。
開祖の技術を身につけろというわけでもありません。
二代道主の技術体系に関する理念を身につけろというわけでもありません。
合気道は、よくもわるくも自由な武道だと思います。
勝つためではなく、生きるための武道。
それが合気道だと思います。
競技については、賛否両論ありますし、正しい、間違いという議論はするべきではないと思います。
少なくとも、これが合気道である、と誇りを持って稽古、指導にあたる指導者が数多くいらっしゃること、そして、それが限りなく宗家の理想に合致することが大切なのではと思います。

なによりも大事なのは、合気道を志すこと自体への満足感よりも、技術としての正当性を探求しつつ、常に修行者であること。
そして、己の技術に対する絶対的自信と、武術家としての臆病さを保ち続けることが肝要かと思います。

鍛錬とは誰のためか。
少なくとも、己のためであり、それを支える周囲の方達への遠回しな恩返しだと思います。
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吉原大門様、こんにちは。 (agasan(管理人))
2011-11-17 12:08:13
吉原大門様、こんにちは。

ご趣意に概ね賛同いたします。わたくしよりも、はっきりとモノをおっしゃっていただき畏れ入ります。

合気道が特定の技法と理念に基づいて成立している以上、統一された方法論に従うべき『部分』は確かにあります。問題はその『部分』がどこまで敷衍されるかだと思うのです。
あらかじめ定められたことしかやってはいけないということになると、これはもう武道としての価値のない、ただの形骸です。
もちろん、すき放題やってよいというものではないことは当然です。
その『部分』の領域がどこまでかの判断基準は、心ある合気道家にとっては言わずもがなのことで、それにつき権威筋がこまごましたことまで規制する必要はないだろうと思います。

自由には責任が伴うのと同様、≪自由な武道≫である合気道を愛する人には高い見識が求められます。そういう意味では大人の武道なのですから、『まあ、それぐらいのことは任せなさいよ』と言いたいわけです。

いただいたコメントの文末のところは特に心にしみました。

論旨と外れますが、粋なハンドルネームですね。これもまた時代背景によって様々な思いを抱かせる象徴的建造物(地名)ですよね。
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コメントありがとうございます。 (吉原大門)
2011-11-17 20:33:27
コメントありがとうございます。
少しばかり生意気なところは、反省いたします。

私も合気道を学ぶ者として、己の技術に誇りを持ちたいと常々思っています。
とはいえ、慢心ではなく、今の自分にできる技術や上達を目指す心に誇りを持ちたいと思います。
ただ、それを考えすぎると、他者を否定する傾向になってしまうこともあるかと思いますので、そこは努めて冷静にしたいと思います。

いささか恥ずかしいハンドルネームではございますが、江戸文化といいますか、古き良き日本を忘れまいと常々思っていますのと、私自身、台東区などの下町風情が残る街並が好きなのもので、使っております。
決して、遊び人ではございません。
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吉原大門様、こんにちは。 (agasan(管理人))
2011-11-18 10:57:08
吉原大門様、こんにちは。

わが合気道界、中央から地方まで、組織運営や人事などでは喧しいものがありますが、武道の本質にかかわることについては遠慮しあっているのか興味がないのか、身のある議論を聞いたことがありません。
将来展望もなく単純再生産みたいなことを繰り返していたら、それは批判もしたくなります。批判が高ずれば否定にもつながっていきますが、そこはそれ大人の武道ですから、こちらが度量をみせればよいのです。ただし牙はよく研いでおきましょう。

いただいた文面からは吉原大門様が台東区にお住まいなのかどうかわかりませんが、わが師、黒岩洋志雄先生のお宅が浅草橋で、最後の稽古場が蔵前だったので御地にはとても親近感を持っております。
ちなみに、わたくしの住まいするまちと台東区は姉妹都市になっています。それを黒岩先生に伝えたら『ああ、そうなんですか』と、あまり興味はなさそうでしたが。ただの田舎ですから。

またコメントをお寄せください。
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管理人様、こんにちは。 (寿陵余子)
2011-11-18 14:14:44
管理人様、こんにちは。


合気道はその創始者が稀に見る傑人であったことに、未完たる所以があるように思えます。

一つの文化が生まれ、その道の人々の叡智によって徐々に育まれるなかでそれは大成されます。
しかし文化(芸道など)の黎明期において破格の天才が登場すると、周囲の人々が追い付けない早さで一気にそれを爛熟させ実を結ぶ場合があります。


俳諧における松尾芭蕉もそれに当たると思うのですが、それはあくまで俳諧と云う立ち位置によっているからそう見えるのであって、歴史をもっと長い尺度で考えれば、昔ながらの和歌の流れの中で、古人の叡智が積み重なって生まれた結晶が芭蕉と云えるのではないでしょうか。

それと同様に、大先生は古人のパズルに最後の一ピースを嵌め込み合気道を産み出されたのだと云えます。


合気道は未完でありながら、日本武道の精華であり最先端を行くものです。
大先生を武道の歴史の中では変わり種のように位置付けている方もいるようですが、誤解を懼れず述べれば大先生は日本武道が爛熟しきって自らの重みで腐り落ちる前に、武道そのものを新生されたのであり、植芝盛平という武人の登場は歴史の必然であるように思えてなりません。

新たに生まれた合気道というパズルは未完でありながら、生まれたときから(過去、現在、未来)全て揃っており、それを群盲たる我々修行者が如何にその内にある光明(ピース)を見出すかでしかないのではないでしょうか。
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寿陵余子 様、こんにちは。 (agasan(管理人))
2011-11-18 17:21:01
寿陵余子 様、こんにちは。

いつもながらの慧眼に感服いたしました。まことにその通りですね。
余計な論評は差し挟まず、いただいた御文を何度も読み返すことにいたします。
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管理人様、いつも私のような若輩者の意見に耳を傾... (寿陵余子)
2011-11-18 22:43:19
管理人様、いつも私のような若輩者の意見に耳を傾けて頂いて感謝しております。

共に稽古する事はなくとも、こうした場で道友の方々と縁を結べるのも合気道あってこそと思えば、これも一つのムスビの形なのかもしれません。
お気づきの点など御座いましたら是非ともご批判下さい。


合気道をやればやる程に、合気道と大先生の事をもっと理解したい、体現できるようになりたいと思う今日この頃です。

それにしても合気道は楽しいですね。
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寿陵余子様、こんにちは。 (agasan(管理人))
2011-11-19 13:43:05
寿陵余子様、こんにちは。

わたくし、なんだかんだ言っておりますが、結局のところ『それにしても合気道は楽しいですね』と多くの方に感じてほしいためなのかもしれないとあらためて思いました。

わたくしの駄文はさておいて、寿陵余子様はじめ皆様のコメントから学ばせていただくことも多く、感謝しております。また、本欄を通じて意見の交流をしていただくこともあり、このブログが少しはお役に立っているかと喜んでおります。これからもどうぞご活用ください。
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